―― 月の影 月の桂
[玉花宮]森咲さくらさまの作品です。
無断転載は厳禁です。
「…………うーん。もうだめだ」
 かじりつくようにして書き物をしていた卓子(つくえ)の上に、ぱったりとうつ伏して、楽俊は弱々しく呟いた。その身じろぎに空気が動き、卓上を照らす蝋燭の炎が、ゆらゆらと揺れる。
 空澄み渡る、ある秋の晩だった。もうすでに深夜のこと、雁の大学寮は静寂に包まれ、窓から差し込んでくる満月の光が皓々(こうこう)と、簡素な室内を柔らかく照らしている。風を通すために、ほんの僅か開けられた窓の隙間からは、夏の名残も消えかけた、冷たい夜気が流れ込む。
 気の良さそうな顔立ちの青年は、眉をひそめ、弱り切ったような表情を浮かべていた。その様は、情けないと言えなくもない。
 それもこれも鳴賢のせいだ、と楽俊は小さくひとりごちる。
『いい加減、人型に馴れろって。今月は、おまえの人型強化月間だからな! 獣型は禁止だぞ? 勿論、一人の時もだ』
 弓矢の授業からの帰り足、鳴賢に廊下で諄々(じゅんじゅん)と言い諭(さと)された。本当に良く、まるで自分のことのように厳しく言う鳴賢に、しかし思い入れが強過ぎではと、思わず苦笑した楽俊だった。しかし、乗馬や弓矢がいまいち上達しない自分を案じての、友人としての温かい気遣いなのだということは良く解り、自分でも人型に馴れなくてはならない必要性を感じていたところだったから、渡りに船だったのかもしれないと思った。
 だから、おいそれと無下にも出来ず、元来の律儀な気質も相まって、もう一ヶ月もの間、気楽なねずみの姿から遠のいている。
 視点が常に高くなり、様々の距離感が解らない。そんな状況に気持ちが悪いような気もしていた初めの頃に比べれば、馴れて来た、といえばそういう気もするし、でもやっぱり肩が凝っていけない、と溜息もついてしまう。
「毎日、着たきりってわけにもいかねえし、面倒だよなあ、やっぱり」
 もしも、ねずみの姿だったなら、ひげとしっぽがしおしおとうなだれた、可愛げのある様だっただろうが、立派な青年の格好では、いささか頼りない。
 しかし、誰が見ているというわけでもない。楽俊は、疲れ切ったような溜息を漏らした。
「確かになあ……。運良く役人になれたとしたら、それこそ半獣の格好をしてるわけにはいかねえんだろうしな……」
 それを考えると、さらに疲れが増してくる。楽俊は、眩暈さえ覚えたような気がして、目を閉じ、再び溜息をついた。
「大丈夫だよ、楽俊。慶に来てくれれば、せめて私的な時間は半獣でいられるように取り計らう」
 低く囁くような、その声は、風に乗って届いたように聞こえた。
 楽俊は、ぱちりと大きく目を開いた。
 そして一瞬、空耳かと思いつつ、弾かれたように身を起こせば――
「まさか……よ、よ……陽子?!」
 月明かりをその身で遮り、窓枠を絵画のそれと見立てんばかり、黒い影のように浮かび上がる、その、姿。
 楽俊は、唖然としてその影を見つめる。
 影は、軽く笑ったようだった。
「久しぶり、楽俊。延王と延台輔から、楽俊に会うのはこれが一番手っ取り早いと、聞いていたから。中へ入れてもらえる?」
 開いた口が塞がらないとは、まさにこんな時のことを言うのだろう。陽子の問いに良いとも悪いとも言葉が出てこず、楽俊は、困ってあたふたと、意味不明に手を動かす。
 その様子に、陽子はさらに失笑した。
「突然で、申し訳ないとは思ってるんだ。ただ、どうしても今夜じゃないと。せめて、窓、開けてもらってもいいかな」
 僅かな隙間越しに入ってくる声は、周囲に気を遣ってのことだろう、ひそめているのがさらに小さくなってしまい、聞き取りづらい。楽俊は、声の出ない口をぱくぱくさせてから――不意に気が抜けたように、がっくりと肩を落とした。
 と同時に、深い溜息も落とす。
「……いや、すまねえ、陽子。あんまり驚いたもんだから、なんて言っていいか分からなくなっちまった」
 窓をがたがたと開けながら、楽俊は苦笑いに陽子を迎え入れる。
 陽子は、身軽に室内へ滑り込んだ。それを見やってから、楽俊は、消していた部屋の灯りに手を伸ばす。
「あ、いや、いいんだ、楽俊。灯りは、つけないでもらえるとありがたいんだけど」
「そう、なのか?」
 陽子の真意が解らず、楽俊はややも首を傾げたが、灯りをつけることは止めた。
「ありがとう、楽俊」
 陽子が、嬉しげに笑う――たった一本の蝋燭とはいえ、卓上の灯りもある。まして月明かりを遮りさえしなければ、充分に表情の読みとれる明るさの室内ではあった。
「それにしても、入れてもらえて助かった。他の部屋から、いつ姿を見られるかと、どきどきしたよ」
 きょろきょろと周囲を物珍しげに見回す陽子に、楽俊は苦笑する。
「もちろん、入れてやらねえなんてことはないが……おいら、心臓に悪い思いをするのは、延王と延台輔だけで、充分だな」
 陽子が振り向いて、楽俊と視線が合い、思わず二人で失笑する。
「たまには、私が驚かせるのも、許して欲しいんだけど」
「許さねえ、って言ったところで、やるんだろ、陽子は。滅多にやるもんじゃねえぞ? 一応、覚悟はしておくけどな」
 くつくつと、押し殺した笑い声は、また二人分。笑いの発作が治まったところで、楽俊は椅子を陽子に勧め、自分は寝台に腰を下ろした。
 陽子は、卓子に広げられた書きかけの文章を眺める。
「相変わらず、こんな遅くまで勉強していたんだ」
「提出期限の迫った課題をまとめてた。細かく調べとかねえと、及第点があやしくなるからな」
「どこの世界でも、学生には普遍の悩み事だな。それにしても、綺麗な字だね。まだ読めない字も多いのが悔しいけど」
「それでも、陽子もだいぶ、勉強してるんだろ? 陽子の場合は、覚えることがおいらよりもたくさんあるんだから、ゆっくりやればいいって」
 他愛もない会話に、ほっと心が和む。少し、根を詰め過ぎていたのかもしれない、と楽俊はしみじみ思った。
「そう言えば、楽俊。どうして、今日はあちらの姿じゃないんだ?」
 卓上から目を離し、楽俊に向き直った陽子の顔には、好奇に満ちた表情が浮かんでいる。
 楽俊は、弱々しく笑った。
「いやなに、人の姿に馴れようと思ってな。しばらく、この格好のままでいたんだが……やっぱり、馴れねえことをすると、疲れる」
 ぽろりと出てしまった弱気な本音に、しかし、陽子は屈託なく笑う。
「気持ちは、凄く良く分かる。ごてごてした礼服を着たり、偉そうな態度をとり続けたりするのは、どうにも肩が凝って」
 楽俊は、思わず失笑した。
「王さまってのは、そんなもんだからな。ああ、でもおいらがこれしきのことで弱音を吐いてたら、陽子に、早く馴れろって言えなくなるな。ここはひとつ、意地でも頑張らねえと」
「意地を張らなくていいから、慶の官吏になって、もっと簡素な服を着たいっていう私の意見を、官達に認めさせる方に尽力してもらいたいんだけど?」
「うーん。例え慶の官になったとしても、無理だろうなあ。慶には、切れ者が揃ってるし、祥瓊になんて、凄く叱られる気がするしな」
「はは……それはそうかも」
 陽子は、諦めたように乾いた笑いを漏らし、脱力して肩を落とす。
 楽俊は、そんな陽子を見つめて、ただ笑った――そしてそのまま、思わず固まる。
「……? どうかした? 楽俊」
 引きつったように硬直してしまった楽俊の変化を見咎めた陽子は、訝しげに首を傾げる。
 そして再度、陽子が口を開きかけた時、
「すまんな、楽俊。遙かに陽子の姿を認めたゆえ、思わずついてきてしまった」
 弾かれたように振り向いた陽子の視界、窓の外には――
「風漢の気まぐれにも、困ったものだよ、本当に。私は、二人に面識がないというのにね」
 雁国の王、その人と、見知らぬ青年が一人。たまの背に二人で乗り合わせている様に、陽子は驚いて声を失った。
「ほら、風漢。だから言ったじゃないか。大の男が二人で乗っていると、かなり滑稽だよ、って。私の印象が悪くなったら、どう責任を取ってくれる気だい?」
 言葉の内容こそ責めるようなものだったが、表情や声音は柔らかく、むしろこの状況を面白がっていることは確かなように見えた。
「お前の印象など、俺には関係ないな。それでは、お前はこのまま外で待機しているか? 利広」
 利広は、眉根を寄せて、笑う。
「それは丁重に遠慮させてもらうよ。入れてもらっても、いいかな?」
 問いかけられ、はっと我に返った楽俊がこくこくと頷き、狭い一人部屋は一瞬にして密度を増した。
 楽俊が明け渡した寝台に尚隆が座り、利広はその隣に立ったまま、腕組む。楽俊自身はといえば、荷物入れの木箱を引っ張り出してきた上に、そわそわしながら浅く腰掛けた。
 延王尚隆が、景王である陽子がいる所へ気兼ねなく連れてきた青年なら、やはり身分の高い人間に違いない。そう思って考えを巡らせてみれば、奏南国の要人に、同じ名前があったような気もする。
 自分の部屋であるにも関わらず、雲上の別世界のような居心地の悪さが、自然と楽俊の顔に冷や汗を浮かばせた。
 そんな楽俊の思いには気づいたのか否か、尚隆は軽く笑って、陽子と楽俊の顔を交互に見る。
「とんだ邪魔者だっただろうが、この国で陽子を見かけることなど、皆無に等しかろう? つい、何故にやって来たのか気になってな。……ああ、陽子、楽俊。こいつは利広だ」
 尚隆に目線で示された利広は、にこりと微笑む。
「初めまして。以後お見知りおきを。陽子さんと楽俊さんのことは、風漢から聞いて知っている」
「陽子、で構いません」
「楽俊、でいいです」
 二人の声は同時、失笑したのは尚隆だ。利広も、思わず笑みを濃くして頷く。
「解った。では、そう呼ばせてもらうよ」
 ところで、と尚隆は笑い含みに口を挟む。
「陽子は、何故ここに? もしや、今宵の月と関係があるか?」
 ああ、と陽子の顔が笑みに明るくなる。
「はい。今夜は、十五夜だから」
 楽俊は、思わず陽子を振り向いた。
「……そうか。おいら、すっかり忘れてた」
「そんなことじゃないかとは、思った。私が来た時、どうして来たのか想像もつかないって顔をしていたしね」
 陽子は楽俊に言って、尚隆と利広を向く。
「もしかして、お二人も、十五夜だから?」
 尚隆は軽く頷き、口を開いたのは利広の方だ。
「そう。時々偶然にね、中秋の名月の日に出会った時は、月見酒を風漢がおごってくれると、決まってるんだ」
 片眉を上げた尚隆は、余計なことを言うなと言わんばかり、利広を横目に睨め付ける。
 陽子は、僅かに首を傾ぐ。
「必ずおごりと、決まっているんですか?」
「そう。まあ、それにはいきさつがあってね」
「……おい、利広。好い加減にせんか。そんな無駄話をしに来たわけではないぞ」
「ああ、はいはい」
 笑いを噛み殺す利広に、尚隆はひとつ咳払いをした。
「……で、陽子は、楽俊と月見酒か?」
 陽子は、笑いながら首を振る。
「いえ、お酒は持ってきてませんよ。私は飲めないし、まずいでしょう? 大学の寮で飲酒なんて」
 楽俊が、苦笑しつつ陽子に頷く。
「確かにな。明日の講義に、酒臭い体で行ったら、退学させられるかもしれねえ」
「別に、俺がどうとでもしてやるぞ?」
「…………いえ、ご心配には及びませんから……」
 楽俊は、笑みが引きつるのを抑えられない。
「ええと、だから、お団子とか、栗やお芋のふかしたのとか、そういうのを持って来たんだ。……その、蓬莱風にしたくて、私が作ってみたから、味の保証は出来ないんだけどね」
 楽俊は、目を丸くする。
「え、陽子が? 作ったのか? よく、そんな時間が取れたなあ」
 陽子は、楽俊に肩をすくめて見せて、悪戯っぽく笑った。
「邪魔が入らないように、回りの皆に大量の書類を押しつけて、ね。鈴と、女官の玉葉には手伝ってもらったけど」
「ほう。陽子も、徐々に周囲の人間のあしらい方が、身に付いて来たと見える」
 くつくつと笑う尚隆に、陽子の頬が僅かに紅潮する。
「あ、いえ……滅多にしませんよ?」
「程々なら、やって構わないんだよ。息抜きは必要だから。風漢ほど酷くなられると、困ってしまうだろうけどね」
 放っておけ、と尚隆は利広に言い捨てる。
 陽子は軽く笑って、荷を開き始めた。
「あまり数もないし、おいしくないとは思いますけど……食べられますか? お二人も」
 片手一杯ほどの大きさの椎(しい)や笹の葉の包みが、二つ、三つと現れる。
卓子の上を片付けながら、楽俊はそれを受け取り、封を解いていく。
「ついでにね、桔梗の花も持って来たんだ」
 縦長の黒漆に塗られた木箱をそっと取り出し、蓋を開ければ、紫の優美な花が二輪、顔を出す。
「ああ、綺麗だね。十五夜というと、すすきが筆頭に感じるけれど、やっぱり花も良いね。風流だなあ」
 利広がゆっくりと近づき、陽子は花を手渡した。
「少し、しおれてきているかな? 花瓶と水は」
「花瓶は持って来たんですけど」
「じゃあ、おいら水を汲んでくるな」
 頷いた陽子と、笑んだ利広と尚隆に見送られて、花瓶と花を携えた楽俊はそっと部屋を抜け出した。
 戸を閉めた楽俊は、中には聞こえないよう、小さな、しかし深い溜息を吐いた。


 楽俊の気配が遠のき、やがて利広はくつくつと小さく笑い出した。
「大変だね、楽俊も。所在なさげなのが、可哀想だなあ」
 利広の言葉を受けて、風漢はゆったりと腕組む。
「なに、いずれは楽俊も役人になるのだろう。あれ程の才があれば、要職につくのも時間の問題。だとすれば、今から馴れておいても構うまい」
 二人を代わる代わるに見ながら、陽子は薄く苦笑する。
「ところで、陽子。本当のところは、どうしたのだ?」
 急に話を振られて、陽子は一瞬言葉に詰まった。僅かに目を見開いたまま、思わず尚隆の顔を凝視する。
 そして、ふっ、と息を吐いた。
「……やはり、お分かりになりますか」
 尚隆は、利広と軽く目を見合わせた後、陽子に笑む。
「まあ、な。ただ月見をするためだけに国を出るなど、陽子が簡単にやるとは考えられん」
 陽子は、視線を俯かせる。表情を曇らせて、膝の上で組んだ両手を、じっと見つめた。
「たいしたことじゃないんです。周囲との関係に進展がなくて、ここのところ、特に景麒と衝突してしまって、居づらくなってしまった、というか……」
 陽子は、両の手に力を込める。
「出たかったんだと、思います。慶を。政務を離れて、他愛のない話をして、気持ちを落ち着けたかったのかもしれません。今日は十五夜だから、それなりに理由もつくし、と考えた時、真っ先に浮かんだのが楽俊の顔だったので」
 そうか、と尚隆は静かな声で応えた。
「そういう時もあるだろうな。時が解決する問題もあるし、まあ、陽子は、陽子の思った通り、自由に生きれば良いさ。人の道にさえ悖らなければ、少々の無軌道は構わんだろう。近道をしようと、遠回りをしようと、目的地に辿り着けば良いのだ。人生に、王道はないからな」
 陽子は、顔を上げて尚隆を見る。見返される視線は穏やかで揺るぎなく、その強さが欲しい、と陽子は心底思わずにいられなかった。
「すみません。私の姿を見咎めて、気に留めてくださったんですよね。まだどうにも、不甲斐なくて」
「そんなことはない。初めは誰もが辛いものだ。大体にして、気に掛けるのはこちらの勝手だぞ。それを陽子がどうこう案じることはない」
 泰然自若たる尚隆の隣で、利広が、微笑む。
「そうそう。風漢は、好きで気に掛けてるんだから、一向に無視しても構わないんだよ?」
「……お前な。一言多いぞ」
 陽子は、そのやりとりにほんの少しだけ笑って、しかし再び視線を落とす。
「でも、心苦しいです。慶の民を、今見捨てているような気がして。こうしてまったく、皆に目をかけられない所へ来て、好き勝手してしまっている自分が……」
 陽子が言い終わる前に、部屋の戸が、静かに軋んで開いた。
「ただいま……?」
 出来る限り音を立てないよう、気を配って戸を閉めた楽俊は、微妙に空気が変わっていることに気づいて、首を傾げた。
「どうか、したんですか?」
 ぐるりと三人の顔を見渡すと、いや、と利広の柔らかい声が楽俊に返る。
「お疲れだったね。何でもないよ? 風漢と陽子が、ちょっと真剣に話そうとしていたのを、私が茶化してただけだから」
 陽子と尚隆の顔に困ったような呆れたような笑いが滲んで、楽俊は、これ以上は聞けない気がして、何となく笑った。
「ああ、ありがとう、楽俊。せっかくだから、灯り、消してもいいかな? その方が、きっとよく見えるから」
「構わねえぞ、もちろん」
 少しぎこちなく、陽子が明るい声音をあげたことに、楽俊は僅か複雑なものを感じながらも、頷いた。卓子の端にあった蝋燭の炎に、ふっ、と陽子が息を吹きかけて、室内は不意に明るさを失う。
 狭い室内と、外が、同じ月明かりのほのかさに包まれる。冷水のような風が、室内を洗うように吹き抜けて行き、暗さに未だ慣れきれない目で、月影を見上げた。
 ――冷たい海流の走る海を覗き込んだ時のような、濃く深い蒼の広がる空に、月は丸く、まるでそこだけ空を切り取ったかのように輝く。
 僅かに銀を混ぜ込んだ、柔らかな白さで在る、大きな満月。うっすらと、山吹色がかったようにも見える穏やかな月の光は、ともすれば寒々しい色の空に覆われた世界に、温もりを息づかせるかのように舞い降りている。
 木々も、池も、建物も、すべてが静かで穏やかな眠りの中に包まれ――水底に抱かれた街に、永遠の変わらぬ時が流れているような、そんな錯覚さえ感じさせた。
「……綺麗だね。陽の光も強く煌めいていて好きだけれど、月光はまた柔らかく優しい趣があって、私は好きだな」
 息を殺すようにして美しい世界に見入っていた中、利広が、そっと言葉を紡ぐ。
 小さく頷いた楽俊の隣で、陽子が、くすりと笑った。
「知ってますか? もし、陽と月が蓬莱と同じものだったら、という話ですが。太陽は、自らが目映く輝いて、熱や光を地上に送ってくれるんですけど、月は、自分では輝いていないんです。今は見えない太陽の光を、その身に反射して輝いている。だから、月光も元を辿れば、太陽の光なんですよ?」
 利広と楽俊の目が、驚きに大きく見開かれる。
「ああ、そう言えば、学者だったという海客に聞いたことがあるな。恐らく、あちらの月日と変わりないのではないかと言っていたから、そうなんだろう」
「え、風漢も知ってたの? …………それは、なんか気にくわないなあ」
「……それは良かったな」
 楽俊は、呆気に取られて、ただ陽子を見つめていた。陽子はと言えば、面白がっているふうの笑みを浮かべて、楽俊を見返す。
「まったく別の光に見えるけどね。……ああ、でも、風情や情緒は半減させてしまったかな」
 思いついたように言って苦笑する陽子に、楽俊はふっと相好を崩した。
「いや、そんなことねえぞ。そういう話は、面白いし、凄く興味があるな。……しかし、そうだとすると、太陽と月っていうのは、王と麒麟みたいだな」
 え、と今度は陽子が目を丸くする。
「どうして?」
「いや、だって、自らの強い意志を持って世を導いて行くのが、王の役目だろ? それは、今の話だと太陽のようじゃないか」
 うんまあ、と陽子は曖昧に頷く。
「じゃあ、月が麒麟なのは?」
「慈愛の心は、陽の光ほど強さを感じるものじゃねえだろ。だけど、一日を二分にして太陽と代わる代わる世界を見守っているわけだろ?」
 陽子は、まだ真意が見えない様子で、ただ頷く。
「自分の身に、王のすべてを受け入れて、その上にきっと慈愛って光を足して輝いてるから、月明かりは優しいんだろ。……なんか、言ってたら、恥ずかしくなってきた」
 眉をしかめた楽俊に、三人は失笑する。
「そんな、揃って笑わなくても……」
「だって、楽俊が面白いから」
 くすくすと笑う陽子に溜息を吐きつつ、楽俊は、再び月を見上げる。
「しかし、太陽って凄いんだな。自分がいない時にも、月を通して世界を見てるってわけだ」
 ふ、と陽子の顔から笑いが引いた。
「……え?」
 誰にともない呟きに応えるように、楽俊は言い継ぐ。
「だろ? 自分はその場から離れてるけど、月越しにいつでも、世界を見守ってる。ああ、太陽と月は、どちらも揃って完全なんだな。半身みたいなもんか」
「……半身が、皆を……?」
 陽子は、繰り返すように呟いた。
 つい先程、心苦しかったことが思い出される。慶の民を見捨てて来てしまったような気がして、いたたまれなかった。しかし今、慶には、慶の麒麟が――景麒が、確かに居る。
 そして景麒は、紛れもなく陽子の半身なのだ。
「ああ……そうなんだな……」
 結局、上手く行かないことがあっても、こうして、国が自分の負担になった時には、代わりに景麒が民を見ている。どれだけ衝突しても、大切な半身が、結局のところ陽子を支えてくれているのだ。
「? どうした? 陽子」
 一つ、大きな胸のつかえを取ってくれた陽子の親友は、何も判らない様子で陽子を覗き込む。
「いや、なんでもない。ありがとう、楽俊」
「?? おいら、何かしたか?」
「気にしないでくれ。言いたかっただけだから」
 心からの笑みを浮かべる陽子に、楽俊は悩みながらも頷いた。
「……では、俺達はそろそろ行くとするかな」
 不意に声がして、楽俊と陽子は立ち上がり、慌てて振り向いた。
「仲が良いってことは、良いことだね。本当、若いなあ、二人とも」
 陽子は、頬を僅かに紅潮させて、狼狽える。
「あ、あの、つい話し込んでしまって……そ、そう、お団子とか、食べられませんか?」
 言って、手近な包みを捧げ持つ。
 しかし、面白げな笑みを浮かべて、尚隆は首を振った。
「いや、二人の分として持ってきたのだろう? 俺の分は、次に陽子が雁へ遊びに来てくれる時にでも期待していよう」
 陽子が困り果てて利広を見れば、
「そういうことだね。私は、いつか慶の街に遊びに行くから、その時にでも」
「ええ? そ、それは難しいのでは……」
 利広は、くつくつと笑う。
「楽しみにしているからね? ……ひとつ、教えてあげよう。真性の酒飲みは、これから酒を飲もうという時には、甘い物は食べないんだよ。味が分からなくなるからね」
 利広は軽く陽子の肩を叩いた。呆然とする陽子と楽俊を置き去りに、尚隆と利広は騎獣に乗る。
「邪魔をしたな。また来るぞ、楽俊」
「は、はあ。解りました」
「楽俊、せっかくだから、月の桂を折れるように、しっかり月見をしておくんだよ」
「あ、は、はい。頑張ります」
 矢継ぎ早な言葉に、楽俊はややも慌てて返事をする。
「またな、陽子」
「そのうちまた、会おうね」
 陽子へ向けられたその言葉は同時で、陽子は思わず失笑する。
「これから、どちらへ行かれるんですか?」
 うん、と笑ったのは利広だ。
「それはね、……秘密、でしょう? やっぱり。ねえ? 風漢」
 尚隆が、盛大に顔をしかめる。
「阿呆が」
 結局、陽子の質問に答えはないまま、尚隆と利広は風のように去っていった。来た時と同じように、唐突な別れだった。
 暫く、空の彼方を見つめていた二人だったが、不意に楽俊が、どっと疲れたように盛大な溜息を吐いた。
「楽俊、大丈夫か?」
「はは……まあな。すまねえ。ちょっと気が抜けた」
 陽子は、くすくすと笑って再び腰を下ろす。
「ねえ、楽俊。利広さんが言っていた、月の桂を折れるように、って何のこと?」
 寝台にしおしおと腰を下ろした楽俊は、ああ、と笑顔で頷いた。
「月の桂っていうのはな、月の中に生えているという伝説の桂の木のことで、『月の桂を折る』と言えば、官吏登用試験に及第することを意味するんだ」
「へえ、そうなんだ」
 うん、と楽俊は頷く。
「つまり、官吏登用試験を頑張れって励ましてくださったってことだ。でも、官吏登用より何よりも、まず、大学卒業に向けて、及第点取っていかねえとなあ」
 その声音がなんとも心許なげで、陽子は、いつもの気の良いねずみ姿が頭に浮かんでしまい、思わず失笑する。
「なんだよ……そんなに笑わなくたって、いいじゃねえか。大変なんだぞ? 大学は」
「解ってるよ、それはもちろん。王様業と、どっちがより大変かな?」
 楽俊は、ぐっと詰まって陽子を見る。
「それは、比べるべくもねえだろうけど……。酷いぞ、その例えは」
「ごめんごめん」
 憮然と睨め付ける楽俊は、しかし、一拍のちには失笑した。
「なんなら、陽子は王様業の及第点を目指して、おいらと一緒に月の桂を折れるように、頑張っていこうか?」
 笑い疲れてのち、月を見上げながら、楽俊は陽子に問う。
 陽子は、楽俊の横顔を振り向き、一瞬目を見開いたが、しかしすぐに相好を崩した。至極嬉しげに、一つ頷く。
「頑張ってみる。……だから、来年も、十五夜だけでもこうして、月の桂を一緒に見よう? 楽俊」
 ――淡く、白く輝く月は、今宵に充つるうたかたの永遠を、優しく彩り続ける。いつもよりもゆっくりと、時を流しながら――

―― Up...2005.03.15
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