誘惑
Written by Shia Akino
注:クラブレケリーが十二国にトリップ!
(ち、ちかいちかいちかい……っ!)
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陽子は相手が変だと思わない程度に、心情的には力いっぱい仰け反って視線を遠いお空に向けた。今日もいい天気だなぁと、意味のない事を考えてみる。 前を見ては駄目なのだ。 下手に前を見てしまうと、ものすごい至近で炯悧の顔が綺麗な笑みを浮かべているのだ。 慶東国首都堯天、金波宮の庭院(にわ)にある四阿(あずまや)である。 延で出会ったこの男は、帰国する陽子に同行する形で金波宮へとやってきた。迷惑でなければ好きにさせてやってくれと延王に言われ、了承したのだ。 それからおよそ十日あまり――二人きりという状況が初めてである事に遅まきながら気付き、陽子は慌てていた。そのうえ、こうも間近から見詰められていては、落ち着かない事この上ない。 四阿であるから石案(つくえ)は小さく、向かい合って座っただけでも見知らぬ者同士であれば気まずいだろう。肘を突いて身を乗り出せば、どうしても至近に顔がくる。 とはいえ、故意かどうかは分からなかった。寛ぐ時に石案があれば肘を突くのも有りだろう。床几(いす)に背凭れがないとなればなおさらで、かくいう陽子もここではよく頬杖をつく。炯悧はとにかく大きいから身を乗り出すような格好になっているだけで、他意はないのかもしれない。 だからあからさまに逃げるわけにもいかない。 (祥瓊……鈴……二人とも早く来て――!) 内心うろたえまくりの陽子は、空を見上げたまま心中で叫んだ。 池を望むその四阿で、一段落した政務の息抜きにお茶をする事になっているのだ。 茶器を取りに行った二人を待ちながら、陽子は最前ぼんやりと景色を眺めていた。 書類と文字の白黒で占められていた陽子の目に庭院の緑は優しく、池では蓮の花が咲き初めで、心地よい風が吹いていた。 甲高い鳥の声が一声。 羽音を追って目をやった植え込みの向こうを、ちょうど炯悧が通りかかった。 一度ゆっくり話してみたいと思っていた事もあって、一緒にどうかと誘ったのだ。 それでこの有様だ。 ――顔が近い。 まして炯悧は、そうそうお目にかかれない程の美形なのである。 (景麒だって浩瀚だって、延王だって美形と言えば美形だけど……) 何か違うのだ。 なんというか――色っぽいのである。 延王などよりよほど付き合いが良いらしい男は、美男子の登場に色めき立った女官達があれやこれやと見立てる華やかな長袍を、毎日素直にまとっている。 生地をたっぷり使ったずるずると長いこちらの衣服は、身体全体をゆったりと覆うものであるというのに、目のやり場に困るような気がするのは一体どういう訳なのか。 陽子はちらと炯悧を見やり、慌てて視線を空に戻した。やっぱり近い。近すぎる。 浅黒い肌には張りがあり、琥珀の瞳には名状し難い深みがあって、初対面の時には無造作に跳ねていた濃紫の髪は、おそらく女官に結われたのであろう――頭の後ろで一つに束ねられ、たくましい首が剥き出しになっていた。 ――困る。 別に特別な感情を抱いている訳ではないのだが、だからこそというべきか、とにかく困る。 「け……炯、悧……」 意を決して口を開くと、艶のある低音が陽子の言葉を遮った。 「ケリーと呼んでみてくれないか」 「……え?」 「ケリー、だ。それが本名なんでね」 話をするときは相手の目を見て、という即位してから身についた習慣にならい、陽子はどうにか炯悧に視線をあててぎこちなく首を傾げた。 「海客だと伺いましたが、蓬莱――日本で、ケリーと?」 日本人ではないような響きである。 日本にだって外国人はいるが、そういうこともあるのだろうか。 「いや、俺は少々特殊らしくてな。蓬莱から来た訳じゃないらしい。その――日本? そこがどんな所かも知らないんだ」 落ち着いた声は、池を渡る風のように僅かな波紋を残して消えた。 意味をうまく掴めない。 ますます近付いた気がする琥珀の瞳から逃れたくて、目を逸らそうとした瞬間。 「それで、女王様?」 笑みを含んだ炯悧の声が、陽子の耳を打った。 長くしなやかな炯悧の指が、こめかみから垂らした髪の一房を手に取り――。 「ケリーと呼んでくれるかい?」 囁くように言って、指に絡めた赤い色に口付ける。 当然陽子は固まった。 さらりと躱せるような経験など皆無だ。 目を逸らす事すら出来ない。 あえぐように息を吸い、吐き出せないまま、下から窺うように見上げてくる一対の宝玉をただ見詰めるばかり。 その深く底の見えない瞳の中に、面白がっているような光を見つけた、その時だ。 「ちょっと貴方っ! 陽子をからかうのは止めてちょうだい!」 突如響いた怒声に、ようやく陽子の金縛りは解けた。 茶器を持った祥瓊と鈴が足早に近づいてくる。祥瓊は険しい表情で、鈴は顔を赤らめているようだった。遠目にも妖しい雰囲気だったらしい。 「なんだ、せっかくいいところだったのに」 にやりと陽子に笑いかけ、炯悧はようやく身を引いた。仁王立ちで立ち止まった祥瓊に向かって肩をすくめる。 「からかうとは心外だな。口説いてたんだ」 「なお悪いわよ!」 一声叫んで、祥瓊は乱暴に茶器を置いた。 「国王に取り入って出世しようって魂胆なら無駄ですからね!」 片眉を上げた炯悧を蔑むように見下ろし、ふんと鼻を鳴らす。 「延は男王でその手が使えないから慶に来たのでしょう。陽子はそういう事に免疫がないから、貴方みたいな人なら骨抜きにするのは簡単かもしれないけど、私が許しません!」 王であるはずの陽子に対して、さりげなく酷い事を言っている。 「俺はそんな風に思われてたのか?」 眉を寄せた炯悧に、思ってる訳ないじゃない、と矛盾した事を言い放ち、祥瓊は再度鼻を鳴らした。 「貴方が地位にも名誉にも興味がない事くらい、少し見ていればすぐに分かるわよ。働き盛りの男がなぁに? あっちへふらふらこっちへふらふら――」 手厳しいな、と炯悧は笑った。 ふらふら足を向けた先々で仕事を手伝ってみたりもしたのだが、どうやらお気に召さないらしい。 「分からないのはね、取り入ろうって魂胆もなしに、なんで陽子を口説くのかって事。ただ口説きたいって男が思い詰めるほど、陽子は女らしくありませんからね」 ――ほんとうに酷い。 主に対するものとは思いがたい言説に、炯悧は思い切り吹き出した。 陽子と鈴は視線を合わせ、二人で苦笑を浮かべている。事実なだけに反論はしにくい。 心置きなく笑った後、炯悧はちらと陽子を見やった。 「陽子は少し女房に似てるんだ。髪の色や生真面目なところなんかがな」 本人を知っている者には異論もあるだろうが、あれは常識外れなだけで生真面目ではあるのだ。何事にも筋を通そうとする。 ――まあ、その筋が突拍子もない方向にずれていたりもするわけだが。 女王だし、とは心の中で付け加え、ただ――と炯悧は苦笑する。 「女らしいと言うなら、陽子の方がよっぽど女らしいと思うぜ?」 官服の陽子を上から下まで検分し、どんな趣味なの……と祥瓊は呟いた。 これより女らしくないとは、一体どんな人なのか。そしてそれを妻にするとは、どんな神経をしているのか――とことん酷い感想である。 「あの女のいい所は、女らしさとは別の部分にあるんだ」 「それなら分かるわ。陽子は陽子だからいいのよね」 澄まして頷いた祥瓊は、手早くお茶を注ぎ分けて床几に掛けた。 「さて、陽子。お許しが出たところで、続きをやろうか」 にやりと笑って炯悧が宣言する。 「ゆ、許し――? 続きって……」 引き攣った陽子が身を引くよりも、炯悧が手を伸ばす方が早かった。 つ、と頬をかすめた指が陽子の顎を捕らえ、親指の先が唇をなぞる。呆れるほど手慣れた仕草である。 石案ごしに身を乗り出し、大きな身体を屈めた炯悧は、陽子の耳元に顔を寄せて囁いた。 「今夜はあんたと過ごしたい――」 低く、甘い声である。 僅かにかすれた語尾は実は笑っているのだが、それがまた熱っぽい響きを持って聞こえる。 祥瓊は茶器を持つ手を止めて我知らず目を逸らした。あわあわとうろたえている鈴を軽く制し、池を見やる。 視線の先では咲き初めの蓮が、日差しを含んで灯りのように光っていた。 十三歳のままだったとはいえ、三十年を鷹隼宮で過ごした祥瓊はいわゆる耳年増で、経験豊富とはいえないものの陽子や鈴に比べれば男女の関わりに免疫がある。 その祥瓊をして、これは凄いと思わせる口説きっぷりだった。これを直接囁かれたら、なんだか腰が砕けそうだ。 ――本気でない事くらいは分かるのだけれど。 陽子は間近にある炯悧の瞳を横目で見やり、眉間に皺を寄せている。非難がましい目つきである。 「奥さんがいるんでしょう? だったら、冗談でもそういう事は言うものじゃない」 真顔の陽子をちょっと眺め、それから炯悧は、そうだな――と笑んだ。 口元に手をやってくつくつと笑い、けれどその瞳には生真面目な返答を慈しむような色が浮かんでいる。 陽子は小さく息をついた。 遊ばれている事くらいは分かるけれども、居つく気がないなら止めて欲しい。 王様で遊んでしまえる度胸と懐の深さ――人材に乏しい慶だからこそ、こういう人物が欲しいと、そう思ってしまうのだ。 けれど無理だと、それも分かってしまうのだった。
―― Fin...2008.12.01
「陽子は少し女房に似てるんだ」
炯悧の台詞に、奥さんがいるんだ――と、鈴は目を丸くした。 こんな人を夫にしたら、気の休まる暇がないように思う。 きっとものすごくもてるだろうし、他人の目にもふさわしく映る女性などそうはいないのではなかろうか。 やっかみやら嫌がらせやらを受けながら、夫の女性関係に気を揉む生活――どれほど愛されていようとも、遠くで憧れているだけの方がまだマシだ。 それはもちろん一般論で、その“女房”がどんな人かを知っていれば、鈴もそうは考えなかっただろうが。 ようやく大人しく座りなおした炯悧を見やり、この人には不思議な雰囲気がある――と、鈴は思う。 何をするでもなく、ただそこに居るだけで、訳もなく安堵してしまえる不思議な空気―― それは延王君に対しても感じる事で、鈴はずっと五百年の歳月の差が理由だろうと思っていたのだけれど、少し違うのかもしれなかった。 炯悧は延王君よりずっと若いはずなのに、この人がいれば大丈夫だ――と、やっぱり訳もなくそう思う。 だから鈴は、早く炯悧に出て行って貰いたかった。 陽子はたぶん分かってないけれど、祥瓊はきっと気付いている。 陽子と“一緒なら”大丈夫だと、そう信じている鈴たちですらこうなのだ。 女王に恵まれなかったこの国で、“懐達”などという言葉が囁かれている今――この人はあんまり危険にすぎる。 そんな事を考えながらぼんやりと炯悧を見ていると、その炯悧の琥珀の瞳が鈴を見て、僅かに細められた。 ああ――見抜かれている。 誰をも惹き付ける素敵な人に、心行くまで滞在して貰う事すら出来ないこの国の現状を、鈴は哀しいと思った。 世話になったと言い置いて、炯悧が王宮を出立したのは、この翌日の事だった。 文章、画像の無断転載、転用、複写禁止
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