―― 命名 メイメイ
Written by Shia Akino
 慶東国国主中陽子――女王に恵まれないと云われる慶国においての、年若い女王。そのうえ彼女は胎果であり、常識的な事柄すらろくに知らなかった。即位当初の官の落胆慨嘆は激しいものがあったが、それももう、昔の話となりつつある。
 彼女は、至極生真面目な性質である。
 国のため、民のためと日々政務に精を出し、物を知らない自覚があるゆえか勉学もおろそかにせず、ろくに休日も取らない。
 もちろん、休憩時間には友人でもある女御や女史等と華やかに笑い合いもするし、ストレス発散などと言って禁軍兵士に混じって剣を振り回したりもする。しかし、休日らしい休日が即位以来果たしてあったかというと――ない、と言ってしまってもいいくらいなのだ。ふいに訪なう隣国主従に、攫われるようにしてあちこち引きずり回される事は、過去数回ありはしたが。
 どの官に問うても彼女の勤勉さを否定するものはないだろうが、実は由々しき問題もあった。
 忙しい日々があんまり続くと、ふいに王宮から姿を消すのだ。
 行き先は堯天であったり他の里であったり、まれには雁国であったりと様々だが、誰にも告げず供も連れずに王が市街をうろつきまわるなど、言語道断な仕業である。この辺りは間違いなく、隣国主従の悪影響であろう。
 脳の回路がショートして後先を考えられなくなるのだ――とは本人の談だが、急を要する案件がないことをこっそり確認し、書置きを残してから消える辺り、さほど深刻な機能障害というわけでもないらしい。
 とはいえ、国主の忍び歩きは官の心痛を誘う。小言も諫言も叱責も役には立たず、かといって黙認したあげくに隣国主従のようになられるのも恐ろしい。
 官等は一計を案じた。
 そろそろ危ないかという頃合を見計い、先手を打って休日を設定したのだ。
 主に輪をかけて生真面目な麒麟が頷くのを目にして、まだ年若い少女の姿をした王は一瞬ぽかんとしてから花が咲くように笑い――何故か、図書府に籠もっている。



 高い天井までの大きな書架が整然と並び、北向きの連双窓から射す淡い光が大量の秩や書巻をほのかに照らしている。横長の細い窓は堂室の広さに対していかにも小さく、ただ窓際だけがぼんやりと明るい。
 林立した書架に光を遮られた仄暗い薄闇で、古い古い慶国の歴史や名簿、詩や物語が眠っているのだ。
 古い書籍に独特の匂い、ひやりとした空気、まどろみのような静寂――暗がりを保つのは、紙の劣化を防ぐ為の措置というより、その深い眠りを妨げない為のようにも思われる。
 書庫の管理官に軽く拱手して、浩瀚は窓際に据えられた閲覧用の書卓へと歩を進めた。広い書卓の上には山とばかりに書が積まれ、対した椅子の上で景王陽子が胡坐をかき、頭を抱えている。
「せっかくの休日に勉強とは……堯天に降りても構わないと申し上げましたのに」
 上品とはいえない姿勢には特に言及せずにおいたが、緋色の髪はギクリとばかりに大きく震えた。そろりと足を下ろして揃え、わずか逡巡するような間を置いて陽子が顔を上げる。
「なんだ、浩瀚か。仕事は終わったのか?」
 安堵を滲ませた明るい声音に、浩瀚は思わず苦笑した。先ほどの姿勢を目にしたのが景麒であれば、なにがしかの苦言が呈された事は疑いない。
「いえ、資料を取りに参りました」
「書記官はどうした?」
「少々範囲が広いもので。要不要の判断はこちらで行ったほうが早いですから。……何をしてらっしゃるんです?」
 陽子の前に広げられているのは、過去の官吏の名簿だろうか。脇に積み上げてあるのは辞書の類のようだし、神話や歴史や物語――どこから持ち込んだのか、姓名判断の本まである。
「勉強しているわけじゃないぞ。景麒に字(あざな)をつけようと思って」
 そういって示したのは、なにやら書き付けてある紙と反故の山。
「前に氾麟に可哀想って言われてから、ちょっと気にはしてたんだ。それがこの前、堯天で延王にお会いしたとき字の話になって――」
 そこでふいに言葉を切り、陽子はくすりと笑いを漏らした。
「浩瀚は、延王がつけた延麒の字、知ってる?」
「いえ、初耳です」
 普通麒麟は名を持たず、基本的に号で呼ばれる。主に字を下賜される事はあるが、延の麒麟は胎果であり、そもそも名前を持っていた。六太というのがそれで、ほかに呼び名があるなどとは聞いたことがない。
「馬鹿、って言うんだってさ」
「…………はい?」
「だから、馬鹿。馬と鹿の間のような生き物なのだから良いだろうって」
 くつくつと笑ってからやおら背筋を伸ばし、腕を組んで眉間に皺を寄せ、低く作った声で陽子は言った。
「名は体を表すというではないか。せっかく体を表すに相応しい名をつけてやったというのに、まるで喜んでくれんのだ」
 重々しく紡がれた台詞に、落胆を装う延王の姿がありありと想像できて、浩瀚は思わず声を立てて笑った。
「とてもあの方らしいですが……少々延台補が気の毒でもありますね」
 そうだな、と頷いてひとしきり笑ってから、陽子は手元の紙を眺めてこめかみを掻く。
「浩瀚はどれがいいと思う?」
 差し出された紙には、陽子の筆跡でびっしりと文字が書きつけてあった。即位当初の悪筆から格段の進歩を遂げた、流麗とまでは言いがたいが味のある文字である。
 桂貴・螢姫・恵季・渓岐・啓祈・憩樹・馨鬼・敬喜…………一通り目を通して、浩瀚は首を傾げた。
「もしかして、どれもケイキと読むのでは?」
「そう。今更呼び方を変えるなんて出来そうにないし。……意味ない、かな?」
 心配そうな上目遣いに、いいえ、と答えて浩瀚は微笑む。
 羅列された字候補はその数だけでもかなりのものがあったし、消したり書き直したりと、散々悩んだ跡が見て取れた。子供の名付けに苦心する親のようで微笑ましい。
「そうですね……少なくともこれとこれとこれ、それにこれとこれは避けたほうが無難でしょう」
 指摘され、うっ、と詰まって陽子は苦笑った。
「やっぱり……そうだよね。延王の話を聞いたから、遊んでみるのもいいかと思ったんだけど。同じ音だと、呼ぶたびに笑ってしまいそうだ」
 素直に頷いて筆を取り、「鮭」「鶏」「姫」「鬼」などの文字を使った候補を消してゆく。これなんてぴったりだと思うんだけどなぁ――と、惜しそうに消したのが「荊鬼」。いばらの鬼である。
「実はこれかこれかこれ、どれかにしようとは思ってたんだけど……」
 どう思う、との問いには微笑んだだけで答えず、浩瀚は丁寧に拱手して踵を返した。
「――よし、これにしよう」
 唸り声を上げていた陽子がようやくそう口にしたのは、資料を揃え終えた浩瀚が退出しようかという頃だった。
 新しい紙に墨蹟も鮮やかに書き付けられた字――掲げられたそれを目にして、浩瀚は頷く。
「良い名ですね」
 うん――と、満足そうな応えが返った。



 金波宮に勤める官らが見慣れた高さよりも、ずいぶんと低い位置を金の髪が翻って過ぎていった。自国の麒麟より暖かな色合いの髪は、弾むように揺れてとある堂室へと入っていく。陽子の休日から数日後のことである。
 書記官に軽く手を挙げ、いい加減な挨拶を発しただけで、延麒六太は宰補の執務室に踏み込んだ。いまさら体裁はつくろわない。そもそもこの訪問自体が、非公式というより非常識なのである。
 慶国宰補は例によって例のごとく、非常な仏頂面で六太を迎えた。何か言いかけるのを宥めるように手を振り、ついさっき仕入れた情報を提示してみせる。
「陽子に字をもらったんだってな」
 思惑通り、説教のために開かれた口は一言も発せずに閉じられた。言いたいことは多々あったのだろうが、とりあえず嬉しい話題に乗ることにしたらしい。頷いた頬の辺りが心なしか弛んで見える。
 なんというのだ、との問いには、ケイキ、との答え。変わらない音に首を傾げると、丁寧に折りたたまれた紙が差し出された。
 堂々と書かれた『命名・慧希』の文字。癖のある伸びやかな手は間違いなく陽子のもので、六太はわずかに苦笑する。
「おまえ、これ……」
 蓬莱で赤ん坊の名前をお披露目するときの書き方じゃないか――とは、六太は言わなかった。そこは大王朝の宰補であり、仁獣麒麟。喜びにわざわざ水を差すこともなかろうと思ったのだ。
「慧眼の慧に、希望の希――いい名前だな」
 それだけを言うと、景麒の鉄の無表情にゆっくりと笑みが浮かぶ。綺麗に微笑って、はい、と頷いた。
「“馬鹿”などという字よりは、ずっとマシです」
 心遣いを一蹴する痛烈な台詞を、めったに拝めない笑顔で吐かれて六太は一瞬固まった。引きつる口元を何とか笑みの形に整え、拳を握る。
 尚隆への制裁はとりあえず後回しだ。まずはこの生意気な若造に、分別というものを教えてやろう――そう誓って、六太は握りつぶしそうになっていた命名書を、殊更に丁寧な所作で書卓に戻す。
「――――慧希?」
不穏な笑顔で呼ばれた麒麟は、わずか怯んだようだったが――もちろん、六太には容赦する気など更々なかった。

 陽子を連れ出す事を承諾させ得たのは、五百年分ほど多い経験の賜物である。

―― Fin...2006.09.02
ありがとうございました。ブラウザを閉じてお戻りください。
 命名:名前をつけること。
 無口なくせに一言多い麒麟の受難(笑)
 まあ、まともな字を付けてもらえたのだからとんとんでしょうか。
 ブログで「十二国記好きへの一〇〇の質問」に回答した際、景麒の字を同じ音でと思いつき、そこから出来上がった話でした。

 陽子を連れ出した六太は、この後しばらく帰ってこないでしょう。
 期間は明示せず誤魔化した延麒。
 文句言おうにも言えない景麒。
 五百年の差は伊達ではないという事です(笑)
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