夏の情景
Written by Shia Akino
 連邦大学惑星サンデナン大陸ペーターゼン郊外にあるケリーとジャスミンの別邸は、普段はほとんど人気がない。夫妻は大半の時間を船で過ごしており、使用人も特に置いていないからだ。
 ところが週末になると、見目麗しい少年達が頻繁に出入りする。
 見る者があれば、いったいどういう用途で使われている屋敷だろうと訝しく思う者もあったかもしれないが、地平線まで見渡せるような大地にぽつんと建つ建物では、そんな目も存在しなかった。
 いつでも使ってくれ、と鍵を渡されたのは、同じサンデナン大陸にあるアイクライン校に通うヴィッキー・ヴァレンタインである。
 まばゆい金髪の天使のような少年は、遠慮しなくていい場面で遠慮するような性格でもなかった。ありがたく受け取り、特に用事でもない限り毎週末のように通い詰めている。
 シェラを伴っての訪問は、主に鍛錬が目的だ。
 身体は使わないと鈍るものだし、周囲に人がいる公共体育館や、誰に見られるか分からない野外運動場で本気の鍛錬は出来ないのである。あまりにも目立ちすぎるのだ。
 その点、この屋敷は周囲に人家がなく、広い敷地には芝生の広場や林があって、屋内にはプールや運動場、各種トレーニングマシン、サウナまでが完備している。
 自室、あるいは人目を忍んでの鍛錬は怠らなくとも、たまには思うさま身体を動かし、手合わせをしたり、剣や鉛玉の習練に励んだりもしたい彼らにとって、この屋敷はうってつけといえた。
 金銀天使ほど頻繁ではないが、ルウもレティシアもよく訪れる。課題に追われているヴァンツァーでさえ、定期的に顔を出して黙々と身体を鍛えていた。彼らにとって、自分の身体を思う通りに動かせないのは許し難い事なのだ。
 主人夫妻はいないことも多かったが、よからぬ用途で使用したり、騒ぎすぎて備品を壊したりするような少年達ではない。
 ケリーもジャスミンもその点は安心していたし、だからたとえ滞在中の訪問でも、出迎えたりもてなしたりは特にしないのが常だった。

  +  +  +

 敷地内には緑が多い。
 人を置いていないこの屋敷では、庭の手入れをする者ももちろんなく、初夏には少々凄いことになっていたりもした。
 伸びた枝やら蔦やらが絡まりあい、野放図に生長した雑草が絡まりあい、前の住人が植えたらしい薔薇が野生化して絡まりあい、ほとんど廃墟の様相を呈していたのだ。
 もともと、人工的に作りこまれた自然があまり好きではない主人夫妻である。庭がどうなっていようとさほど興味もなかったが、さすがにこれではまずかろうと自動機械を導入し、盛夏を迎えた現在はなんとかこざっぱりと見られる程度にはなっていた。
 夏の盛りの緑は目に痛いほどの鮮やかさで、重なり合う葉を透過した陽光が、立ち群れる木々の根元を薄碧の色に染めている。中天にかかる日の光は白く、木漏れ日もやはり焼き付いたように白かった。
 じっとしていても汗が吹き出るような陽気だが、風通しのいい木陰は意外と涼しい。
 柔らかな下生えに頓着なく寝転び、時折吹く風に黒紫の髪をなぶらせながら、屋敷の主であるケリー・クーアは自然の涼気を楽しんでいた。
 己の本来属する場所を暗く冷たい宇宙だと感じているケリーも、空と大地と緑の木々が嫌いなわけではもちろんない。
 腕を枕に仰向けになって、目蓋の裏に描かれる木漏れ日の模様を追っていたケリーは、近づいてくるかすかな気配に目を開けて身体を起こした。
「よう、来てたのか」
 言いながら伸びをして足を引き寄せ、胡坐をかいて座りなおす。
「ああ、邪魔してる」
 頷いたのは金の天使だ。運動後なのか髪はもつれ、木々と同じ色合いの瞳は生き生きと輝いて、頬が薔薇色に上気していた。
「寝てたのか?」
 問いかけながら、少年は括っていた髪を下ろして風を通すようにかき混ぜる。純金の色が木漏れ日をはじいてまばゆい程だ。袖なしの上着に膝下までのズボンという簡素な服装ながら、森の精と見紛うばかりに美しい。
 ほとほと感心してケリーは目を細めた。これが孫と同じ生き物とはとても思えない。思ってもいなかったが。
「まあな。そっちは休憩か?」
「ああ」
 頷いた少年が小首を傾げ、気持ち良さそうだな、そこ――と笑みを浮かべる。
 森と言えるほど深くもない木立は風通しが良く、時刻によっては日も当たるので湿り気もない。短い草が辺りを覆い、小さな白い花が咲いていた。
「気持ち良いぜ。――来るか?」
 木陰ならたくさんあるが、なにも離れて休む事もなかろう。
 リィを手招いてみたケリーとしては、隣に来るか、というくらいのつもりだったのだが――。
「おいおい……」
 人の形をした狼は悪戯っぽく笑い、足音もなく近付いてくると、のそりと膝の上に登ってきた。
「ん……やっぱだいぶ感触が違うな」
 落ち着く体勢を探してごそごそ動き回る金色を見下ろし、ケリーは苦笑する。
「天使とか?」
「いや、伴侶」
「……ほう」
 詳しい話を聞いた事はなくても、彼が『王妃さん』と呼ばれている事は知っていた。
 船では行けない世界の六年。
 女の身体で過ごしたというその時間が、天使の相棒にとってどんな意味があるのか――分かるとは決して言えないが、知っている事も少しはある。
 自分を『人』だと思っていないこの狼は、昔は人間が嫌いだった。総帥時代にケリーはそう聞いている。それが今、一応人間のケリーの膝で丸くなろうと苦心しているのだ。
 ケリーは小さく笑みを浮かべ、外側だけは年相応に細い少年の身体がちょうど良く収まるよう、慎重に抱き直してやった。
「旦那を枕扱いとはな。しょっちゅうこんな事してたのか?」
「しょっちゅうじゃないな。時々」
「そいつが羨ましいぜ。俺もどうせ乗られるなら、女の身体のほうが良かった」
 いかにも無念そうに溜息を吐いてみせると、満足そうに力を抜いたリィは声をたてて笑った。
「残念だったな」
「まったくだ」
 残念そうでもない同意を返しながら、ケリーの手はもつれた金の髪を梳き、頬をなぞって背に触れている。
 男同士だと思えば変な気もするが、顔が綺麗だからといって女とも思えない。これは獣だと認識しているケリーは、何の他意もなく指先で背筋を辿り、うなじを撫でた。
 ほぅ、とリィは息を吐く。
「やっぱりおまえも触るのが上手い……」
「そうか?」
 ケリーが動物を飼った事があるとは思えないのだが、相棒に慣らされたのか元々上手いのか、少しも嫌じゃないどころか心地良い。
「全然似てないのに、変なとこ似てるのな」
「似てないか」
「あいつはとぼけた熊だから……」
 ぼんやりと零して、リィは下からケリーを見上げた。
 褐色の肌に輝く琥珀の瞳。無造作に跳ねた黒紫の髪。美しく整った容貌は鋭く精悍で、のんびりと人の良いとぼけた熊とは似ても似つかない。――が、冷たく見える美貌に笑みが含まれると、やっぱりどこか似ている気もした。
 薄碧の影に散る細かな白は風が吹くたび形を変え、ケリーの大きな身体の上をちらちら滑って地に落ちる。木漏れ日の動くさまは無数の蝶が戯れるのにも似て、眩暈を感じたリィは目を閉じて顔を伏せた。
 焼けつく陽光を受けとめる梢がざわりと蠢く。
 草むらで息をひそめる虫の気配。
 熱い空気がゆるりと動いて、肌に浮いた汗を拭った。
 土と緑と花の香り。
(……パキラの夏は、もっと清しい匂いがした)
 リィの脳裏に深い緑がちらつく。
 パキラの夏はもっと清しい匂いがした。人の手の及ばない深い緑が折り重なって、木陰の闇はもっとずっと深かった。
 渓流の音。
 蒼穹に響く鳥の声。
 たぶん誰も見た事がない山頂の景色を知っている。
 トレニア湾の青い色が遠くきらめき、眼下では白亜の王宮が緑に埋もれて静かな威容を誇っていた。
 陽炎に歪むコーラルの街並み。
 木の間に覗く西離宮の白い屋根。
(ああ、シェラが魚介の煮込みを作ってる……)
 風に混じってわずかに届いた好物の匂いに、リィは自然と頬を緩めた。
 懐かしい人に似た大きな手が剥き出しの肩を撫で、汗ばんだ額から髪をかきあげる。
「暑いな……」
 目を閉じたまま呟くと、だったらくっつくんじゃねぇよ、とケリーは苦笑した。
(……ウォルならなんて言うだろう)
 似ているようで似ていないもう一人の王様は、こんな時なんと言うだろうか。
(夏だからな、かな……)
 浮かんできた答えに微笑する。
 言わずもがなの事を律儀に言って、あの王様は笑うだろう。
 そうして、似てないようで似ているこの王と同じように、恐れ気もなく触れてくるのだ。大きな手で。

  +  +  +

 風が梢を揺らす音と、遠いどこかで鳥の声――静かな時間に素っ頓狂な声が割り込んだのは、馴染んだ気配が近付いて来るのに気付いたリィが目を開いたのと同時だった。
「ああぁぁあっ!」
 藪の陰から姿を現した黒い天使は、その美しい瞳を最大限に見開いて再度叫ぶ。
「エディ、ずるい!」
 大好きな人の膝の上で丸くなる大切な相棒を発見して、ずるいずるいと地団太を踏む青年――実年齢もそろそろ外見に追いついたはずなのに、まるで子供だ。
「ルーファも来いよ」
 突然の大声に驚きもせず、リィが笑って相棒を手招く。
「いや二人は無理だろう」
 即座に突っ込んだケリーの言は無視された。
 いそいそと寄って来る相棒の為に身体をずらし、リィが空いた膝をぽんぽん叩く。
「人の足をなんだと思ってるんだ」
 笑い含みの抗議もやはり無視。もはや諦め顔のケリーは上体を反らし、足の方は好きにさせる構えだ。
 くすくすと楽しそうな二人を眺めていたのがケリーだけなら、この午後はほのぼのと幕を閉じたかもしれない。
 ところが、黒天使からわずかに遅れて女王さまがその場に姿を現したのだ。
 さすがにはみ出しながら、ケリーの膝を半分ずつ占領する金と黒――目を細めて楽しげにその光景を眺めていたジャスミンだったが、何を思ったかふいに一歩を踏み出した。
「天使達、悪いがどいてくれないか?」
 女王さまの弾んだ声にケリーの頬を冷や汗が伝う。
 二人がどいた次の瞬間だった。
 ジャスミンがケリーに飛びついた。というかむしろ飛びかかった。軽く助走まで付けているあたり、敵も本気だ。
 獲物に襲いかかる雌獅子のような迫力に天使達は息を飲んだが、ケリーはとっさに横に転がってそれを避けている。
「……何故避ける、海賊」
 対象に逃げられた女王さまが、腹這いのまま不満そうにケリーを見上げた。
「あんたみたいのが降ってきたら誰だって避けるだろう」
「妻が夫に抱きついて何が悪いんだ?」
「だからちょっと待て。前にも言ったが、そりゃあフライング・ボディ・アタックって言うんだ」
「気のせいだ」
「何が気のせいだ、何が」
 渋面のケリーと、同じく渋面のジャスミン――これはもしかして、犬も食わないなんとやら、だったりするのだろうか。
 リィとルウは顔を見合わせ、それから思いきり吹き出した。夏空に高く笑い声が響く。
「私を抱きとめられる男は貴重なんだ。たまにはやってくれたっていいだろう」
「やなこった。金色狼にでもやってもらえ」
 夫婦喧嘩らしきものは止まらない。
「女の一人も抱えられないのか、おまえは。見下げ果てた男だな」
 嘆かわしい、とジャスミンが首を振れば、はん、とケリーが鼻で笑う。
「俺にはあんたみたいな女の変種をわざわざ抱える趣味はないんでね」
「馬鹿者。一児の母に変種とはなんだ、暴言と取るぞ」
 どうにか笑いをおさめたリィが、ここで横から口を挟んだ。
「そうだぞ、ケリー。ジャスミンはとっても魅力的な女性じゃないか」
 眉間に皺を寄せたままのケリーが、ちらとそちらに視線を向ける。
「そんな事は分かっちゃいるが、それとこれとは話が別だ」
 言い放たれた台詞にリィとルウは再び顔を見合わせ――再度、吹き出した。
 なにかいま、微妙にノロケていなかったか。
 まったくもって犬も食わない。口を挟むのも馬鹿らしい。
 明るい笑い声を上げながら、リィはその場に寝転んで頭上を覆う緑を見上げた。揺れる葉の隙間から覗く青空の切れ端は、ちらちらと瞬く星のように光りながら蠢いている。
(なあ、ウォル――)
 論点のずれてきた口論と、巻き込まれて頭を抱える相棒を目を細めて見やり、遥かな彼方を想った。
(なあ、ウォル。俺はこっちで、けっこう楽しくやってるよ)
 だから、いつかまた会えたら、楽しい話をたくさんしよう――祈りのように思う。
 瞬く星のような木漏れ日の下で、いつかまた、会えたら。
(楽しい話を、たくさんしよう)
 彼らもきっと、楽しく過ごしているだろうから。



―― Fin...2011.04.23
ありがとうございました。ブラウザを閉じてお戻りください。
2009年夏コミアンソロ『A.S.A.P』寄稿作品。
同人初参加でした。たいそう楽しかったです。
おまけをひとつ増やしましたので、購入済みの方は拍手3ページ目をどうぞ〜。
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Copyright©Shia Akino