脱走の顛末
Written by Shia Akino
 酔客を照らす明かりが色とりどりのネオンだろうと、篝火や蝋燭だろうと、夜の街というのはどこも似たような雰囲気だな、とケリーは思った。
 寄宿舎を抜け出したのは初めてではないが、夜に繁華街まで出てきたのは初めてである。酔っ払いの辺りを憚らない大声や、女達の嬌声――諍いの怒声をかき消さんばかりに、調子外れの歌声が響く。たいした賑わいだ。
 このナリでは悪目立ちするかとも思ったが、そうでもなかった。同年代の(見た目だけだが)少年の姿もちらほら見受けられる。ただ、彼らは見習い船員か何かなのだろう、大概年配の男性と連れ立っていた。
 一人でいる、という点では学校も繁華街もさして変わらない。一匹狼を気取るつもりはないが、一人でいることが全然まったく苦にならないケリーにとっては、突き刺さる視線がないだけこちらの方がずっと居心地が良かった。
 とはいえ、治安がいいとはお世辞にも言えない界隈だ。大通りを歩くくらいならともかく、酒場や路地に入り込んだら絡まれそうな雰囲気である。絡まれたところで怖くはないが、面倒はごめんだった。
 通りを歩くだけでも気晴らしにはなる。
 客を引く女達のキワドイ衣装を楽しく眺めていると、横合いから声がかかった。
「ケリー?」
 訝しげな声の主は、良く知った相手だ。
「よお、独騎長」
「馬鹿、こんなところで肩書き出すんじゃねぇよ。――なんだ、抜け出してきたのか?」
 これがバルロあたりなら、餓鬼はさっさと寝ろとでも言われて追い返されるのがオチだろうが、この相手ならその心配はない。
「まあな。気晴らしだ」
 あっさり言って肩をすくめるケリーに、イヴンは少し目を見張った。
 現在ケリーが起居しているのは、貴族の子弟を預かる寄宿舎である。保安上、そう簡単に抜け出されては堪ったものではないし、抜け出せるものでもない筈だが、どうやら初めてではない。
 猥雑な雰囲気の夜の街に、まるで臆していないのだ。むしろ物慣れた風ですらある。
 ここにケリーの同級生がいたとしたら、嬌声を上げる女達に眉を顰めるか、強がっているのが丸分かりの平気なフリか、どちらかの反応を示すだろう。貴族の、それも少年には、こういった場所の免疫がない。
 客引きの女達を眺めていた楽しげな横顔を思い出して、イヴンは苦笑した。色めいた視線ではなかったあたり、本当に慣れている。
「なんだ、やっぱりいけるクチか?」
 果実酒くらいは子供でも飲むが、この様子からしてもっと強い酒でも平気そうだ。蒸留酒を水でも飲むように乾していた王妃の姿が思い出された。
「奢ってやる。来いよ」
 簡単な誘い文句に、少年は少し首を傾げてから頷いた。



 国の中枢を担う独立騎兵隊長は、この街の裏社会でも“顔”らしい。
 一般的には褒められたことではないのだろうが、“裏”に無知であっては“表”を巧く切り回すことなど出来はしない。長年財界のトップにあり、政界とも深く関わってきたケリーはそれを良く知っていた。
 臓物の煮込みが旨いという店に入り、入り口近くの空席に陣取り、注文した酒と肴が揃ったところで顔見知りらしい男に呼ばれ、イヴンは店の奥に姿を消している。
 相談があるのだとイヴンに話しかけてきた男は、たぶん“裏”の人間だ。
 扱う武器が銃器だろうと、弓矢や剣だろうと、裏社会と関わる者はやっぱり似た匂いがするもんだ、とケリーは思う。
 仕方なく一人で重ねた杯の何杯目か、テーブルの端に白く華奢な手がかかった。
「はぁい」
 見上げた手の主は、波打つ黒髪を婀娜っぽくまとめ上げた妙齢の女性である。着崩したドレスの胸元から豊かなふくらみが覗き、赤い唇に誘うような笑みを浮かべてケリーを見下ろしている。
 見事な色気だ。一目で商売女と知れる。
「ねぇ、ぼうや。あたしとイイコトしない?」
 女は身を屈め、ケリーの耳元に吹き込むようにそう囁いた。この年頃の普通の少年なら、いっぺんに頭に血が上ってしまうところだろう。
 ケリーは当然慌てず騒がず、ちょっと片眉を上げてしげしげと女を観察した。
 白い肌、濡れたような黒髪、熱っぽく潤む瞳――自身の魅力を知り抜き、あふれんばかりの色気を存分に振りまいてそれを武器とする、いい女である。
 ぼうや呼ばわりはこの際仕方がないが、こういう絡まれ方をするとは思っていなかった。目に楽しくて結構だが、いかんせんケリーはほとんど無一文である。
「大変魅力的なお誘いなんだが、奢られてる身でね」
 軽く酒盃を上げて見せ、女を買うような金はないと言外に告げる。
 とはいえ、金があろうとなかろうと、ケリーは本当の意味で女を買ったことは一度もなかった。商売女といい仲になったことは幾度もあるが、大抵商売抜きで相手が惚れる。
 そこまでの仲にはならないまでも、男と差し向かいで飲んだり、ましてや一人で飲むよりは、こういった魅力的な女性が隣にいた方が断然楽しい。――が、やはり奢られている身では一杯奢らせてくれとも言えない。
「残念だ」
 笑って見せると、女は少し身を引いた。
 普通に考えれば失望したというところだろうが、違う。
 どこからどう見ても少年のケリーが、男の扱いに長けた商売女を余裕さえ滲ませて平然とあしらう――その事に対する驚きである。



 からかってやろうと声をかけた相手にありえない対応をされて、女は戸惑った。大いに戸惑ったと言うべきだろう。
 なにしろ、次の行動が選択出来ない。
 なにも本気で客にしようとしたわけではないのだから、とっとと立ち去ればいいのだ。それは分かるが、どうにも立ち去りがたい。
 少しだけ首を傾げて見上げてくる顔は、若いが秀麗だ。ちょっとドキリとするくらい鋭い美貌が、笑みを浮かべると途端に親しみやすくなる。
 琥珀の瞳の深い色に気付いて、女が年甲斐もなく狼狽えた時、背後から馴染んだ声がかけられた。
「おいおい、アリシア。ガキを誘惑するんじゃない」
 幾分ほっとして少年の視線を断ち切り、振り返る。
「なんだい、イヴン。あんたの連れかい?」
 不意打ちの衝撃が醒めてしまえば、そこは身一つで生きている女である。一瞬の狼狽など、もうおくびにも出さない。
 悠然と腰を下ろしたままのケリーに擦り寄り、その薄い肩に頭を寄せた。
「ぼうや、安心するといい。嫁さん貰ってからすっかり硬くなっちまったが、連れに女の一人や二人奢ってやるくらいの甲斐性はまだあるはずさ。ねえ、イヴン?」
 笑みを含んだ声音だが、これはなかなか辛辣な台詞だ。場合によっては昔の悪行を奥方にバラすぞ、という脅しである。
 柔らかな身体を堪能しつつ、ケリーは楽しげに瞬いてイヴンの反応を窺った。
 口調からいって、からかっているだけだというのはすぐに分かる。イヴンは花街の女達に好かれる雰囲気の男だから、昔はよくもてたことだろう。妻を迎えてから遊ばなくなった男への、これはあてつけというやつだ。
「………………」
 いつものことなのだろうか、イヴンは渋面を作っただけで、特に反論はしなかった。
「はっは、こりゃあいい! あんたの弱点は奥方か!」
 表ではかなりの地位にあり、裏でもそれなりに“顔”らしい男の、意外な(でもないが)弱点である。
 シャーミアンというあの溌剌とした奥方は、男装などしてはいてもごく普通の女性に見えた。
 遊びまわったところで怒るようにも見えなかったが、ケリー自身の規格外の妻のように、全然まったくこれっぽっちも気にしないし気にならない(というか彼女の場合、何故気にしなければならないのか、そこからもう理解していない)ということもないに違いない。
 大切にしているのだと思うと、なにやら微笑ましかった。
「……おいこら、いつまで笑ってる」
 不機嫌そうなイヴンの台詞も、拗ねているようにしか聞こえない。何しろ息子より更に若いのだ。むさい男が可愛く見えてしまって困る。
 なかなか納まらない笑いを止めたのは、酒場の入り口が乱暴に開く音だった。


 ドガンッバギ、と耳障りな音がした。木製の扉が勢いよく開き、勢いあまって壁にぶつかり、裂けて傾いた音だ。
 入ってきたのは一人の青年だった。
 少年を脱したばかり、といったところか。日に焼けた立派な体格をしているが、顔立ちにはまだ幼ささえ残っている。
 見事なまでに真っ赤な顔は、酔っているせいでもあるのだろうが、どうやら怒ってもいるらしい。
 血走った目で店内を見渡し、視線が止まったのはケリーの隣――血の気の引いた女の顔だ。
「アリシア、貴様ぁっ!」
 ブルブル震えながら、キサマ、と繰り返す。頭に血が上りすぎてそれ以上言葉が出てこないらしい。
 何故怒っているのか周囲にはさっぱりだが、大方、恋人気取りの勘違い野郎といったところだろう。生活全般の面倒を見る甲斐性もないくせに、商売女の商売を裏切りと解釈するような世間知らずだ。
 悲鳴のような女の言葉は、その推測を裏付けるものか否か。
「なによ! 当然でしょっ!?」
 それを聞いたとたん、青年は弾かれたように動いて女につかみかかった。髪をわしづかみにして引き摺り倒し、馬乗りになって腕を振り上げる。
 扉を壊すほどの破壊力が女に対して発揮される寸前、青年の激情に文字通り水が掛けられた。
 ――正確には、酒だ。
 飲みかけの杯を逆さに振って、ケリーは冷ややかに青年を見下ろす。
「事情は知らんがな、ひとつ教えといてやる。女は殴るもんじゃない。可愛がるもんだぜ?」
 この台詞を聞き取った者、全員があっけにとられた。
 少年に言える台詞ではない。それどころか、こうも泰然と当たり前の口調で言ってのけることは、並の男でも難しいに違いない。
 それを口にしたのが、女を可愛がった経験があるかどうかも怪しいようなほんの少年ときては、自身の耳が信じられなくなっても無理はないだろう。
 青年を止めようと腰を浮かせていた者も、いい見世物だとはやし立てていた者も、ぽかんと口を開けて固まっている。
 止まってしまった周囲には構わず、ケリーは青年に向かって小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。
「よく覚えておくんだな、坊主」
 気負いもなく冷然とそんな事を言われた青年の方はといえば、まず真っ青になり、次いで真っ赤になり、わなわなと震えて言葉も出ない。
「ぼ……なっ…………こ……こ、こ」
「ニワトリかい?」
「こ、こんの餓鬼ぃ」
 ニヤリと笑って見せたのを契機に青年はケリーに殴りかかって来たが、もちろん、おとなしく殴られてやる趣味などない。簡単に避けたら、青年は頭からテーブルに突っ込んでそのまま伸びてしまった。
 呆れる以外にどうしろというのか。
「まったく……」
 ため息しか出てこない。
 僅かに出遅れたイヴンはむしろケリーに呆れたようで、大きく息をつき肩を落とす。
「おまえなぁ……」
 もうちょっと奇麗に片付けろよ、とは言っても仕方のないことなのだろうが。一口も食べていない名物の煮込み料理が、壁に大きなシミを作っているのが哀しかった。



 目撃者は多数いる。ケリーの無罪放免は確実だ。なにしろ、杯に残っていた酒を相手の顔に引っ掛けただけで、手を出してすらいないのだから。
 となれば、なにも警備隊と顔を合わせて寄宿舎脱走を表沙汰にすることもない。
 むしろ青年の名誉のためには、酔って転んだ事にでもしてやった方がいいだろう。年端も行かない少年に手もなくあしらわれたなど、恥以外の何ものでもない。
 イヴンはそう判断し、店員に簡単な指示を出してからケリーを連れて早々にその場を立ち去った。
 今頃、目と酔いのさめた青年は割れた皿だのテーブルだの扉だのの弁償を言い渡され、頭を抱えているに違いない。
 軽い足取りで前を行く少年の背は、しなやかに引き締まってはいるが、やはり細い。
「ケリー。おまえ、ほんとに人間か?」
「はぁ?」
 唐突なイヴンの台詞に振り向いて目を丸くする様は、当たり前の少年にしか見えない。見えないが、しかし。
「ありゃあ、ただの小僧に言える台詞じゃねぇだろ。リィの奴もそうだったから今更驚きゃしないが、あれでただの人間を主張するのは無理があるぞ。やっぱりアイツの同族だろう?」
 もともと見た目以外は子供らしいとはいえない少年だが、あれはもう決定的だ。いくら大人びているとはいえ、あんな台詞はただの子供に言えるものでは絶対にない。
「勘弁してくれ……」
 大きく呻いて、ケリーは頭を抱えた。
「俺には人間以外のもんはこれっぽっちも混じっちゃいねぇよ!」
 確かに生まれは少々特殊だが、混じり気なしの人間であることは、当時最新の科学的検査で証明されている。
 まあ、ここの王妃さまも、更に言うなら黒い天使も、科学的検査ではただの人間という結果が出るだろうが――それはこの際置いておくしかあるまい。
 ほとんど憤然と言い返されたイヴンは、それはそれは疑わしそうに横目でケリーを見やった。
「そうは思えないから言って……――と、おまえ、年はいくつだ?」
 ふと思いついて、問うてみる。
 同年代、もしくはもっと年上であれば、あの台詞もそう違和感はない。
 ケリーはリィのように本当は(以前は)性別が違ったなどとは言わなかったし、口調も仕草も外見通り男のものだったから、忘れかけていたのだが――初めに告げられた“本当の姿じゃない”との言は、もしかしたら、と思う。
「前は女だったってわけじゃ」
「んなわけあるか!」
 反射の速度で思いっきり否定してから、ケリーはげんなりと肩を落とした。
「金色狼みたいに、女になってなかっただけマシだと思ってる」
 あんまり怖すぎるので、考えないようにしているのに。
「性別が違うんじゃないなら、年齢なんじゃないか? 本当はいくつだ」
 商売女にはやり込められても、さすがに国の重鎮である。いいところを衝いた質問だが、あいにくケリーは即座に返せる答えを持っていなかった。
「…………さて」
 本気で首を傾げてしまう。
 イヴンは心底呆れたような視線を向けてきたが、それも致し方ないだろう。
 そもそもケリーは自分の誕生日を知らないし、今となっては調べることすら難しい。結婚する時に便宜上三十三歳という事にはしたが、公式年齢七十二歳で一度死に、五年を経てから結婚当時の身体で生き返り、更に数年が経った今、いったいいくつと言えばいいものやら。こっちが教えて貰いたいくらいである。
 ――それもこれも、戻れなければ無意味でしかない。
 苦く笑って肩をすくめた。
「さあてねぇ」
 その様子に何を思ったのか、こちらも軽く肩をすくめてイヴンがケリーの頭を小突く。
「バレないように戻れよ」
「ああ。……ごちそうさん」
 肩越しに手を振ってイヴンと別れ、寄宿舎の敷地に忍び込む途中、ケリーはふと空を仰いだ。
 今は手の届かない星の海が、それでもそこには広がっていた。

―― Fin...2007.06.14
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「ずるいぞ、イヴン! さっきから聞いていれば、なんだ。シッサスがどうの青鹿亭がどうの……俺だってケリーどのと飲みに行きたいのだぞ」
 先だっての騒動からこっち、二人して飲み歩いた店の批評が話題になっていた。確かに国王は蚊帳の外だったが、でかい図体で拗ねられても困る。
「飲みたいったって……」
「飲んでるじゃねぇか。なぁ?」
 ケリーと連れ立って王宮を訪れたイヴンが、働きすぎの国王を拉致してささやかながら飲み始めたばかりだ。
「それとこれとは違うだろう。イヴンばかりずるいではないか」
 恨めしげな視線を向けられて、二人は顔を見合わせた。
 ずるいと言われても――と思いつつ他の話題を探す二人をよそに、国王はなにやらむっつりと考え込んでいる。
「――よし、いまから行こう」
「はぁ!?」
 勢い良く立ちあがった国王は、ケリーの腕をひっつかむとこれまた勢い良く歩き出した。
「ちょっ……王様!?」
「まずはタウの宿舎だな。この目立つ服を替えねばならん」
 聞いちゃいない国王に、ケリーは焦った。助けを求めてイヴンを見やれば、諦め顔で溜息なぞついている。
 一国の――それも大国の――国王が、下町の繁華街に飲みになど行っていいものなのか。
 しかしイヴンの様子を見るに、どうやら初めてではないらしいのが恐ろしい。
「…………ひでぇ冗談だ」
 外見からは予想出来ない人生経験の持ち主である少年は、掴まれていない方の手で額を叩き、うめいた。
 ――この年になって、これほど慌てるハメになろうとは。
 キング・ケリーの意表を突くという偉業を成し遂げた国王は、意気揚揚と下町の飲み屋に向かったのだった。
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