シッサスにも裏町はある。
もともと、酒場と賭博場と売春宿が交互に並んでいるような街ではあるが、表通りはそれなりに表向きだ。
だが、裏へ奥へと入り込めば、そこには裏社会が支配する厳然たる闇が広がっている。
表通りほど賑やかではなく、一見したところはどこにでもありそうな歓楽街の舞台裏といった風情だが、見る者が見ればその闇は深い。
それでも、ひどく荒んだ感がないのはやはり王のお膝元だからだろうか。
身体に合わない大きな服を袖も裾も捲り上げて、ケリーは裏通りの脇道の路地の奥を歩いていた。目的地は、すねに傷持つ男やワケアリの女がたむろする酒場である。
だぶつく服は、だいぶ前に表通りの酔っ払いから巻き上げたものだ。当然洗ったが、褪せた色合いもほつれた縫い目も変わりはしない。
時は宵の口――薄暗い通りを、鋭い目つきの男がすれ違っていく。
服装でおおよその身分が分かってしまうこの世界では、こういった場所に出入りするのに、王宮で用意してくれる服はまるで向かなかった。
それでも精一杯質素ではあるのだろうが、一度そのままこの辺りまで来たら、追い剥ぎに襲われるハメになったものだ。
以来、裏町の奥に向かう時は、この服を愛用している。
二人すれ違うのがやっとという細い小道を抜けて少し広い通りに出ると、道端で串に刺した鳥を焼いていた赤ら顔の男がケリーに声をかけた。
「よう、坊主。これから仕事か? 今日はどこだ」
「ああ、ターニャのとこだ」
頑張れよーという陽気な声を背に、更に進む。
ダン・マクスウェルが知れば目を剥くだろうが、今日のケリーは“皿洗いの小僧”である。日によっては“荷運びの小僧”であり、“店番の小僧”だったりもする。
毎回毎回奢られるのもいいかげん業腹だし、欲しいものもあるだろうなどと言って渡される“お小遣い”も似たようなもので、しかし迷惑だとは言い切れないのが困りどころだった。
苦肉の策として、夜に寄宿舎を抜け出し、日雇いの仕事をこなしてみることにしたのである。
さほど実入りのいい仕事とはいえないが、法をたてる側に世話になっている以上、あまり怪しい仕事も出来ないのが辛いところだ。
その分ちょくちょく顔を出していたおかげで、露店のオヤジともすっかり馴染みになった。
ちなみに当然のことながら、ケリーは寄宿学校に在籍している生徒とは思われていない。ましてや、王と王妃の息子だなどと噂されている張本人が、こんな格好でこんな場所をうろついているなどと誰が思うだろう。
素性が知れないのはこの辺りでは珍しい事ではなく、親しくはなっても誰も踏み込んでは来ない。懐かしい空気だ。
そんなわけで、ケリーは案外気楽に雇われ身分を満喫している。
シッサスの裏通りの脇道の路地の奥――そのまた先には、古道具屋に見える故買屋や美術商に見える贋作店、密輸入が本業の貿易商など、表向きはともかく裏のある店ばかりが並ぶ通りがある。
こういった店は魔法街にもあるが、あちらは昼間しか使えないのが痛いところで、双方に拠点をもっている組織も少なくない。
商談に使われる酒場も多く、それらがケリーの主な仕事先である。
クーア財閥の三代目(ただし少年姿)が芋を剥いている姿など、あちらの政府関係者が見たら卒倒するかもしれない。
「ターニャ、終わったぜ」
盥に山積みの剥き終わった芋を調理台の上に置いて、ケリーは雇用主に声をかけた。
「食器は溜まってからでいいから、茹でて潰しておきな」
「はいよ」
軽く答えて、大鍋を火にかける。
“使われている”ケリーを見れば目を剥く者はいるかもしれないが、対等な契約に則った雇用関係なら意外でもなんでもないと、彼の妻なら言うだろう。
「ああ、ケリー。茹でてる間にラッシュのところに行って、火酒を仕入れてきてくれないかい。在庫が少ないのを忘れてたよ」
「りょーかい」
身軽に駆け出す少年の背を、燻製に包丁を入れながらターニャは見送る。
不思議な少年だ、と思う。
酔っ払いに絡まれたことも、もののはずみで殴られたことさえあったのに、血の気の多い年頃にしては珍しく特に怒るでもやり返すでもない。
では意気地なしかといえばそうでもなく、迷惑だから表でやれ、などと平気で言い放ったりする。
この辺りに出入りするようになったのはそれほど前ではないが、なんでも器用にこなすので重宝されていた。雇用の誘いは多いはずだが、どこか一箇所に雇われようという気はないらしい。
あまり表に出たがらないところからしても、どうやら訳有りだ。
親がそもそもこちら側の人間だという子供は多いが、あの年で本人が訳有りとなると珍しい部類である。
かといって、追われているという風でもない。
ケリーにしてみれば、ここらで見知った相手に表の知り合いと一緒にいるところを見られたら面倒だし、逆もまた然りといった程度の事で、差し迫った事情があるわけではない。訳有りと言えば言えるのかもしれないが。
「ターニャ、ラッシュがこれ。おまけだとよ」
香料らしい小瓶を投げてくる少年を見て、ターニャは小さく息をついた。普通の子に見えるんだけどねぇ、と首を傾げる。
無知な小僧と侮ってヤバいブツを運ばせようとしたら逃げられただとか、騙して仕事をさせようとしたらひどい目にあっただとか、そういう話もいくらか聞いた。
慣れている。
にもかかわらず、どうやらあまり裏向きでない仕事を慎重に選んでいる。その嗅覚は尋常ではない。
矛盾と謎を抱え込んだ少年には、ターニャもむろん興味があった。
だが、踏み込みはしない。それがこの街のルールだ。
だからその日、少年を中心に巻き起こった密かな揉め事も、ターニャは見なかったことにした。
深夜が近付くと、シッサスの表通りは徐々に閑散としてくる。
裏通りの脇道の路地の奥の先は、逆に人通りが多くなる。
これからは玄人の時間だ。
ターニャの店は賑わっていた。あまり客と顔を合わせたがらないケリーも、しぶしぶながら給仕役などこなしている。
あまり見かけない二人連れが入ってきた時、ケリーは厨房で客の注文を料理人に伝えているところだった。
常連ではない客が入ってくると、店内は一瞬緊張感に包まれる。それを肌で感じて、空席はあったっけか、と思っただけだ。
入ってきた二人連れの一人は、亜麻色の髪に髭を蓄えた商人風の男。
もう一人は、短く刈り込んだ金髪に青い眼の黒衣の戦士。
二人は何事か話し込みながら店内に入り、客が立ったばかりの四人掛けの席に陣取った。
この店は、広さのわりに席は少ない。もちろん裏向きの商談のための配慮で、巧妙に他の席が目に入らないようになっている。
この時はそれが仇になった。
前の客の器を片付けるための盆を手に、ケリーがその席へ近付いた時、声をかけるまで客の姿はろくに見えなかったのだ。
「なんにす――げっ……」
「なっ……」
互いに見詰め合うこと数瞬――イヴンはケリーの胸倉をつかみ、強引に席に着かせると、精一杯潜めた声で力一杯怒鳴るという離れ業を披露した。
「ケリー!! おまっ、ここでなにしてるんだ!?」
ケリーの名が出た途端、連れの男がギシリと固まる。
王妃の息子が現れたという噂は広く庶民階級まで知れ渡っているようだが、名前まではあまり知られていない。あちらと違って、大衆にまで行き渡った情報伝達網というものは存在しないのだ。
庶民階級で知っているとなると、情報屋か異常なゴシップ好きかその周囲といったところだろう。
下働きの小僧がただ単にケリーというだけなら、知っていたところで誰も疑いやしない。――が、イヴンの身分を承知の上で、その顔見知りのケリーとなれば、どうしたってそこに辿り付く。
つまりこの男、噂の詳細とイヴンの身分の双方を知っているのだ。
面倒なことになった、とケリーは思ったが、気にしない事にした。つまりは開き直りである。
「見て分からないか? 仕事中だ」
平然とした返答に、イヴンは開いた口がふさがらない。
見て分かったから聞いているのだ。
抜け出して飲みに来る程度ならともかく、裏社会に直結している街で“働いている”となると、もう冗談ではすまされない。
「おまえ――」
「ヤバい仕事は請けてねぇよ」
さらりと言い放つその自信。
裏社会で、使われる立場の者が仕事を選ぶ難しさは、表側の比ではない。
イヴンは二、三度口を開け閉めして言葉を捜し、平手で机を叩いた。
「にしても、だ! 見逃せる事にも限度があるって!」
なんてぇガキだ、と頭を抱える。
ガキかどうかすらもう怪しいものだが、とりあえず見た目は単なるガキだ。
あの王妃と友人だというのだから不思議でもなんでもないのかもしれないが、それにしたって変だ。変だから変だし変だろう。
――思考がだいぶ混乱している。
以前から分かってはいたが、ケリーは裏側の水に馴染んでいる。
というより、こういったところを見てしまうと、水中生活が出来るくらいどっぷり浸かっているようにすら思える。
それではそもそもこちら側の人間かというと、王宮での煌びやかで厳かな場面にも慣れた風なのである。面倒だの苦手だのと言いはするが、必要とあらば素晴らしく優雅に振舞って見せるし、実情さえ知らなければ違和感もない。変だ。
もともとは裏側に親しんでいたイヴンはといえば、優雅な振る舞いなんてものとは未だに無縁だし、無理に真似てみたところで無様なだけだと思う。王宮に出入りするようになって十年以上経つというのに、である。
変だろう、どう考えても。変すぎる。
「……二重人格かなんかかよ、お前」
ぐったりとそう問えば、心外だ、とばかりにケリーは目を見張った。
「俺はいつだって俺だし、俺以外の何かになった覚えはねぇよ」
にやりと笑う。
それはまったくもって全然これっぽっちも子供らしくない不遜な笑みと台詞だったが、もう何をかいわんや、である。
連れの男は、ここに到ってもまだ固まったままだった。
―― Fin...2007.11.15