―― 宵闇の対話
Written by Shia Akino
 窓の外には柔らかな雨が降っていた。
 暖かく優しい、春の雨だ。
 デルフィニア国王ウォル・グリークが執務を終えて私室に戻ると、寄宿舎にいるはずの少年がにっこり笑って手を振った。
 ――あの妙な噂は、未だに消えない。
 公には顔を合わせないようにしていたが、時折こうして、少年はこっそりと国王を訪ねてくる。
 二人きりで飲み交わすその機会をウォルは楽しみにしていたが、寄宿舎はコーラル城下にある。
 つまりは日が暮れてからここに来ようとすれば、警備の厳しい寄宿舎を脱け出すのみならず、更に厳しい警備をかわして三枚の城壁を越えなければならないのだ。
 騒ぎが起こった事は一度もないが、せめて城の壁は登らずとも済むようにと、先日庭から通じる隠し通路に案内した。
 少年は恐ろしく珍妙な顔をしていたが――何が言いたいのかはまあ、分かったが――素知らぬ顔をしておけば、特に言及はせずにいてくれた。
 早急に話し合わなければならない事は特にないが、沈黙はさして苦にならない。
 今宵は尚のこと――細波のような雨の音が室内を満たして、心地良い静寂を彩っていた。
「俺達はあんたに感謝しなけりゃならんな」
 ふいに少年がぽつりと言った。
「なんだ、いきなり」
「なんだと思う?」
 悪戯っぽく笑う少年に眉を寄せ、腕を組んでウォルは唸る。
 生活の保証は、あの困った噂でかけた迷惑を思えば釣りが出る。
 王妃の友人とこうして飲む機会のある事など、むしろウォルが感謝したいところだ。
 しかし――。
「――俺“達”?」
「そうだ。俺がこっちに来る前から、俺達はあんたに多大な恩がある」
「――来る、前?」
 ますます分からん。
 少年は口元で盃を止めてくつくつと笑った。
「ケリーどの……」
 恨みがましい目線にケリーは吹き出し、慌てて盃を口元から離す。
「いやな、金色狼は大切な友人なんだが、そもそも友人になれたのはあんたのおかげだと思ってな」
「……よく分からんぞ、ケリーどの」
 いぶかしげなウォルに、奴は人間が嫌いだったって事さ、とケリーは肩をすくめて見せた。
「ああ……言っていたな。御父君が人間に殺された、とか」
「らしいな。俺が知ってるのはその前までなんだが――こんなつもりじゃなかったって、天使が時々嘆いてたんだ」
 一番ひどかったのはリィが四歳の頃、彼女が殺された時の落ち込みようだ。
 あの調子では、黒狼が死んだときも大変だったのではないかと思う。――その頃ケリーは死んでいたが。
「天使というのはラヴィーどのの事か?」
「ああ。あいつ、落ち込むとなるととことんだろう? 宥めるのに苦労したぜ」
 苦労したと言いながら、ケリーの声は優しい。
「親しいのだな、ラヴィーどのと」
 ウォルは微笑して盃に口をつけた。
「長い付き合いだからな。まあとにかく、金色狼は人間が嫌いだった。無理もないと俺も思うんだが、ようやく顔を合わせてみると、話に聞いてたのとだいぶ違う。それほど人間を嫌っちゃいねぇんだよ」
「……リィはもともと優しいぞ?」
「分かってる。それはよく分かってるんだが、人間の友人を作る気になったのは、やっぱりあんたのおかげだと思うのさ」
 知れば知るほど、あの小さな狼が人の世界で暮らしてみる気になったのは、この王様とこの国の人々のおかげとしか思えない。
 そのあたりの事は、ウォルにはよく分からなかった。
 リィは始めから優しかったし、いつでも信頼に応えてくれた。この上なく頼れる相棒であり、かけがえのない友人でもあったが、そうなるために何かを為したつもりもない。
 リィがどれくらい人間が嫌いで、こちらでどれくらい変わったのか――ウォルには分からないし、興味もない。
 ただ、リィがあちらの人間と仲良くやっているというのなら、喜ばしいと思う。
「しかし……だな。そもそも、ケリーどのはその範疇に入るのか?」
「ん?」
「その、“人間の”友人という範疇にだな――」
「勘弁してくれ! 俺はごく普通の人間だって!」
 小さく叫んで頭を抱えた少年が、いささか唐突に顔を上げて扉の方を見やった。
 右の眼がちらと光ったような気もするが、定かではない。
「そろそろお暇する」
 常に比べれば飲んでいないにも等しかったが、少年はそう言って腰を上げた。
 その姿が隠し通路に消えたあと、扉の向こうに人の気配が立つ。
「お休みのところ申し訳ありません、陛下」
 心底済まなそうな衛兵の声を聞きながら、やはり尋常の人とは思えんのだがな――と考えつつ、国王は盃の一つを隠して一人で飲んでいた風を装ったのだった。


―― Fin...2008.06.24
ありがとうございました。ブラウザを閉じてお戻りください。
 しんみり系に挑戦。そして失敗。
 ケリーの話じゃないですな。

  元拍手おまけSS↓

 あの天使は感情豊かなのがいい所ではあるのだが、マイナス方向に振れるとちょっと困った事になる。
 落ち込むとなると、それはもう見事なまでにどん底へ直行するのだ。それも、自分を責める方向に。
 それでも子供の――ケリーにとっては孫の――前ではいつも通りに振舞うのだから大した精神力だが、ケリーをごまかすには少々どころじゃなく経験が足りなかった。
 実のところケリーは聞き上手でもある。
 満月の逢瀬に様子のおかしい天使から聞き出した事情は、人間の身としてはいささか忸怩たるものがあった。
 とにかく、とケリーは溜息をついて、うつむいたままの天使を見やる。
「とにかく、太陽は落ち着いたんだな?」
「ええ。アマロックが止めてくれた」
 自殺を図ったという四歳の少年を思うと、さすがのケリーも胸が痛んだ。
 しかし正直なところ、面識のない相手よりも目の前にいる天使の方が、ケリーにとっては重要である。
「ひとつ聞くが、おまえもその子と仲良しだったんじゃないか?」
 ルウはちょっと首を傾げてから無言で頷いた。
「じゃあ、おまえが今やるべき事はひとつだな。――その子のために泣いてやったか?」
 意表を突かれてルウは目を見張り、ぽかんとケリーを見やる。
 ケリーはちょっと苦笑して、本来泣き虫な天使の髪を撫でてやった。
「おまえの事だ、どうせ助けてあげられなかったとか思ってるんだろうが、そりゃ自分に対する悔いってやつだろう。悔やむなとは言わないが、そればっかりじゃあ亡くなった相手に失礼ってもんだ」
 それに、とケリーは微笑む。
「仲良しの友達が死んだんだ、おまえにだって悲しむ権利はある。――太陽が大変だったんで泣いてないんだろう?」
 優しい声に、ルウはぼんやりと頷いた。
 見開いていた目を閉じると、涙がこぼれて頬を伝う。
 ――ルウの太陽とじゃれあっていたあの綺麗な狼は、もうどこにもいないのだ。
 彼女はルウにも優しかったし、ルウも彼女が大好きだった。
 手を舐める舌の濡れた感触も、太陽を呼ぶ唸り声の優しい響きも、撫でた時の温かさも――とても、好きだったのだと。だから自分はいま、とても悲しいのだと、ようやく気付いた。
 ――傍にいて、助けてあげられれば良かったけど。
 それが出来なかった今はただ、消えてしまった命を悼むだけでいい。
「キング……胸を貸してもらってもいい?」
 止まらない涙に息を詰まらせてそう言うと、ケリーはちょっと両手を広げ、おまえみたいな美人ならいつだって大歓迎だ、と少しおどけて笑ってみせた。
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