酒杯が打ち合わされた小さな音は、周囲の喧騒に溶けてバルロの耳にまでは届かなかった。
シッサスの一角にある酒場である。差し向かいで飲んでいるのは、ケリーの母親として王宮に滞在中のジャスミンだ。
ちらちらと視線が向けられるのは、貴族然としたバルロが周囲の空気から浮いているせいだけでもあるまい。男物の服を着た、けれど明らかに妙齢の女性――それがこれほどの女丈夫ともなれば、一人でいたって目立つに決まっている。
女の服は窮屈だ、などとどこかの誰かのような事を言って男物の衣服を身にまとい、大股で宮中を闊歩するジャスミンの姿は侍女や貴族の娘達の間で密かな人気となっていた。
バルロの妻のロザモンドはお株を奪われた形だが、その妻からしてすっかり彼女に傾倒している。女だからと侮るつもりは毛頭ないが、それにしたって油断のならない人物だった。
「――何故、俺を誘った?」
単刀直入に尋ねれば、およそ“飾る”という言葉と無縁の女性は今度も至極簡単に答えた。
「決まっている。貴方が一番私の好みだったからだ」
「それはまた……嬉しい事を言ってくれる」
くつりと笑ってバルロは酒杯に口をつける。
同じく杯を口に運んだジャスミンも笑みを浮かべたが、それはどこか意味ありげな、何かを含んだような笑みだった。
「ご存知の通り、私の夫は息子になってしまったからな。たまには好みの男性と一晩ゆっくり飲み明かしたいと思っても仕方あるまい?」
探るような間が開いたのは、真意を掴み損ねたバルロが珍しく少し悩んだからだ。
「…………それは、二階への誘いと取るべきかな?」
ここの二階は貸し部屋になっている。もちろん単なる旅館などではなく、男女の逢引の場として提供されるものだ。
かなりはっきり誘いと取れる台詞なのだが、花娘でもない女性が口にするような事ではない。ましてや人妻である。
「有り体に言えばその通りだな」
あっけらかんと返されてバルロは頭を抱えたくなった。みっともないのでやらなかったが、イヴンだったらまず間違いなく頭を抱えていた事だろう。
「……そのご夫君がどう思う事やら」
火遊びの達人にしてはありきたりの台詞である。
「あれは気にしないだろう。貴方の奥方と同じように」
肩をすくめてジャスミンが答え、バルロは溜息をついた。
「あれはそういう教育を受けているからな。しかし、重大な問題がひとつある」
「なんだ」
「貴女は俺の好みではない」
真顔で告げられてジャスミンは瞬いた。飾らない拒絶の言葉に、さすがに少し驚いている。
「それは……失礼した」
「正確に言えば、こういう直截的なやり方が好みではない。女性との関わりはもっとこう、回りくどくあるべきだ」
華やかな女性遍歴を持つ男は、自身の美学と誇りにかけてそう断言した。
ジャスミンは思わず吹き出して、重ね重ね失礼した、と頭を下げる。
「こういう勘が外れる事は滅多にないんだがな。こちらは本当に面白い」
思いがけず延びてしまった滞在は、けれど退屈している暇などなかった。共和宇宙ではまず見られない生活様式は興味深いし、国王の周囲にいるのは面白い人物ばかりだ。
そして今ジャスミンは、ここシッサスの火酒を大層気に入っている。
女性の口に合うとも思えない酒を豪快に飲み干すジャスミンを前にして、バルロは低く忍び笑った。
天の国の住人とは皆こうなのか。
やはり王妃を思い起こさせる。
「――では、迎えが来ても居残ってはどうか。回りくどく関わる時間も作れるだろう」
ろくに考えもせず口にした言葉は口説き文句とも取れる代物だったが、相手は頬を染めるでもなく不敵に笑った。
「私が残ったとしても、あれは帰るぞ。それでも誘ってくれるのかな?」
からかう調子の問いを笑い飛ばそうとして、失敗する。
無意識だった。
だが、厳重に封をしたはずの望みが言わせた台詞だった。
その事に気付かされ、バルロは思わず言葉に詰まる。
「……やはり、な。だいぶ毒されているらしい」
ジャスミンは小さく溜息をついて酒杯から手を放し、指を組んでバルロを見据えた。
「あれは、王だ」
改まって口にされた言葉には重い響きがある。
「国土も民も持たないが、実際そう呼ばれてきた。一国に二人の王は必要ないし、むしろ危険だ。そうじゃないか?」
引き止めるような事を言うものではない、とまでは言わずに言葉を切る。
離れた卓でドッと笑声があがった。
喧騒を割って響いたそれに店内の視線が集まったが、ジャスミンもバルロも振り向きはしない。切り取ったような静謐は陽気な店内では異質にも映るが、別れ話の最中とでも思われているのか、さほど注目を集めてはいない。
「王とはまた大きく出たものだな」
バルロは今度こそ鼻で笑った。
「それに、女王か? よく出来た組み合わせだ」
侮蔑の色を乗せた言葉に気色ばむでもなく、ジャスミンは静かに告げる。
「私をそう呼ぶのはあれだけだし、そんな風に言われていたのもほんの数年だ。だが、あれは今でも語り草なんだ。本人をそう呼ぶのは天使くらいなものだが、あれを知る者はいまでも王と口にする。そういう男だ」
存外真摯な物言いに、バルロは口を噤んで目を細めた。
国土も民も持たない王などバルロにしてみればお笑い草だが、あの少年が天の国でどういう立場にあったにしろ、王の器である事は確かだった。
一国に二人の王は必要ない――それは真理だ。
今はまだいい。国王がウォルで、ケリーが少年の姿をしている今ならば。だが――。
「そんなことは重々承知だ」
低く言ってバルロは杯を呷った。
あの噂が消えつつある今、残ったのはこの上なく有能な、ただの少年である。未来の王の片腕にと望む声は多い。
しかしそれはバルロにとって、望んではならない望みだった。
姿だけでも女であり、形だけでも夫婦だったから、リィはウォルの傍にいられた――そういうことだ。
だから、バルロはあの少年を魅力的だと認めることはしない。
有能な事の何が悪いのかと人は言うからだ。
その危険性を知るものは極一部の者だけだし、分からせようとして分からせられるものでもない。
国王などは危険性まで呑み込んで暢気に笑っているが、バルロまでもが同じ事をして安穏としていられる程、サヴォア家当主の影響力は小さくなかった。それをバルロは骨身に沁みて知っている。
だから、決して認めない。
あれは確かに少しばかり有能かもしれないが、替えのきく程度の、取るに足りない、ただの子供だ。
「――言わずもがな、というやつか。余計な事を言ったな。すまなかった」
ジャスミンは素直に謝罪を口にし、次いで嘆息した。
「夫を望んだ男は多いが、貴方のように複雑な立場の者はいなかったな」
欲しいものを望めないとは、まったく不自由な立場である。どうも天邪鬼なところがあるらしいこの男なら、そんな役どころを楽しんでいる部分もあるのかもしれないが。
「私でよければ愚痴でもなんでも言ってくれ。後腐れがなくていいだろう」
ジャスミンはデルフィニアの民ではない。いずれケリーと共にこの地を離れる身だ。何を聞いたところでどうにもならないし、する気もない。
それは回りくどくあるべき関わりの一端かもしれなかったが、バルロは愚痴は言わなかった。ふん、と鼻を鳴らして皮肉な笑みを浮かべる。
「貴女を残してでも帰るとは、薄情な夫だな」
「それは仕方がない。あちらに相棒がいるからな」
あっさりとした返答である。
相棒――とは、王妃が散々口にしていたあの間男のような存在だろうか。
そう考えたバルロだったが、問いただす前にジャスミンが続ける。
「五十年来の付き合いだ、彼女を捨てて私を選べとは言えないだろう」
言う気もないしな、とまではバルロの耳に届かなかった。口に運びかけた杯が途中で止まる。
「――いま、何と言った?」
「彼女を捨てて私を選べとは――」
「その前だ! ……五十年来?」
「ああ、そのことか。正確な年数は知らないが、五、六十年にはなるはずだぞ。十代の頃に会ったはずだから」
引き攣る口元を意識しつつ、バルロは黙した。
――さて、誰の話だったか。
ケリーだ。あの生意気な少年。
――では、少年とはどういう意味だったか。
年の若い、子供を指す言葉のはずだ。
――仮に“本来の姿”とやらがこの女とちょうど釣り合う年恰好だったとして。
三十代から四十代だったとして。
――だとしたらどうなる?
迂遠な思考の果てに、バルロは心中で絶叫した。
(だとしても五十年からの付き合いが存在するなど有り得ん!!!)
だが、哀しいかなバルロは筆頭公爵家当主だった。サヴォア一門のみならず、この国を支える屋台骨だ。悲鳴を上げて卒倒してしまうわけにもいかないし、あんなものを年長者として扱うわけにはもっといかない。
表面上は冷静に無表情のまま、その実歯を食いしばってバルロは耐えた。叫び出したい衝動を何とか呑み込んでから口を開く。
「口を慎め、女」
「何?」
「五十年とは何だ。あれはまだ子供だろう。戯言を言うものではない」
騎士団の者であれば、冷や汗をかいて即座に失言を詫びたに違いない。
それほど不機嫌な声音だったが、ジャスミンはまじまじとバルロの顔を見やってからふいに微笑んだ。
「そうだな、戯言だ」
静かに言って、頷く。
訳知り顔のその笑みが少しばかり好みだったので、誘いを蹴った事をバルロは少しだけ後悔した。
―― Fin...2008.07.04