こちらに来てから、ふとした拍子に空を見上げることが多くなった。
見上げたところでこの空はケリーの良く知る宇宙ではないし、相棒がいる訳でもない事は分かっている。別段なにを願うでもない。そういう癖がついたという事実を、事実として認識しているだけだ。
ただ、そうして空を見ていると、時折無性に飛びたくなった。
飛べない現状は、自身で選んだ事ではないだけに、ひどくもどかしく感じる。
そういう時、ケリーはふらりとロアに向かった。授業があろうと外出許可がなかろうとお構いなしだ。たいていコーラルを出たあたりで黒主が待っていて、そのまま遠乗りに出掛ける。
何故ケリーの来ることが分かるのか不思議で、まさかラー一族じゃないだろうなと言ってみた事があるが、黒主は鼻で笑った。器用な馬だ。
この誇り高く自由な生き物は、決してケリーの意のままになる動物でも便利な道具でもなかったが、力のかけ方一つで敏感にケリーの意志を感じ取ってくれた。
力強く地を蹴る律動と一体になって、素晴らしい早さで大地を翔ける――それはダイアナと共に宇宙を翔けるのとよく似た感覚で、ケリーは抑えきれずに笑い声を上げる。
グライアのたくましい首に手を触れれば、同じような歓喜が伝わってきた。
この小さな人間は黒主にとって、あの得難い友人と同じように稀有な存在であった。
支配を望まず、驕りを見せず、首の振り方一つで正確にその意志を読み取ってみせる。
――あの木立を目指すのがどちらの意志か、もはや判然としない。
それが共に望むものであり、今では互い以外では叶わぬことでもあった。
グライアの小さな友人はここにはおらず、ケリーの長年の相棒も遠く離れた場所に在る。互いに換えのきかない相手がいることを知っていて、だからこそ、友人とは少し違う契約に似た関係が続いているのだ。
人目に立っては噂を助長するからと国王以外の側近達はいい顔をしないが、この爽快感はケリーには捨てがたかった。
ただ、彼らの言うことにも一理ある。……あるらしい。
ケリーにしてみればまったく実感を持てない事ではあったが、黒主の乗り手は等号で王妃と結びつくという。それはそれで恐ろしい。
噂を広めるのは本意ではないので、たいてい街道から遠く離れた道なき道を突っ走った。黒主も心得たもので、特に操作しなくても勝手に人目を避けてくれる。
本当に、馬とは思えないほど頭がいい。ラーではないにしても、それに近い種族だという可能性はあるとケリーは思っていた。
「グライア、少し休もう」
左手の先に小川のきらめきを見つけて、ケリーはグライアに声をかけた。
パキラ山の裾野に沿って北上し、ポリシアの近くまで来ている。パキラ山東側の裾野――山と平野の接する辺りだ。
険しい山肌を駆け下る渓流は、草深い平原で吸い込まれるように消えている。
バシャバシャと顔を洗って水を飲み、ケリーは草むらに寝転がった。
季節は夏。心地いいと言うにはいささか温度の高すぎる風がゆるゆると草地を這って、ぎらぎらと容赦のない陽光が白い矢のように降り注いでいる。昼寝に適した環境ではないが、ケリーは構わず目を閉じて土の匂いのする空気を深く吸った。
まどろんだのはさして長い時間ではない。
ふと、陽射しが遮られた。
目を開けるのと、たくましい首を下げたグライアがケリーの髪を咥えるのとがほぼ同時。
「…………グライア。分かってると思うが、それは飼い葉じゃない」
そのままむしゃむしゃやりはしなかったが、一応そう言ってみる。
グライアはふふんと鼻を鳴らし、今度はがっぱりと口を開いた。
人に比べれば馬は大きい。中でもグライアは特に大きい。つまりは口も大きくて、ケリーの頭など楽に咥えられそうである。
――咥える気まんまんに見えた。
転がって避けると、その背を鼻面で強く押されてもう一回転。跳ね起きたケリーの顔面を狙って、つややかな尻尾が弧を描いた。
「っ! ――っの、グライア!」
仕返しとばかりに思い切り鬣を引っ張ってみる。
突き倒されそうになったのを避けて、今度は尻尾を狙う。
大きな身体を機敏に捌いて黒主がケリーの背後に回れば、ケリーは小さな身体の軽さを生かして足の間を潜り抜けざま長い尻尾に手を伸ばす。ひょいを振られた尻尾を避けてのけぞったところに、巨体が肉薄してきて慌てて飛び退く。
人が見たら何事かと思っただろうが、幸い周囲に人目はなかった。
しばし後――。
「っかれたぁ……」
呟いて、ケリーはばたりと草地に伏した。
体力的に疲れたわけではない。ケリーはリィのように、別の種族と戯れる時のルールや限度を肌で理解しているわけではないのだ。とにかく気疲れする。
グライアも同じ気持ちなのか、じゃれあいは長くは続かなかった。
「……早く金色狼が迎えに来ると良いな」
素知らぬ顔で草を食むグライアを横目で見やり、ケリーは自分の為だけでなくそう言った。
指輪はここにあるから、探すとしたら黒い天使かラーの誰かではあろう。見つけられるかどうかは別にして、探されていないとは思わなかった。それくらいは好かれている自信がある。
そして、こちらに来た時の状況からして、リィはおそらく他人任せにはしない。
来るとしたらリィだろうし、リィが来ればグライアはきっと喜ぶ。
狼と共に転げまわっていた幼い頃の人型の獣を思い描き、グライアともあんな風に遊んだりしたのだろうとケリーは思った。
漆黒の大きな馬と金色の小さな獣がじゃれあう様は、結構な見物だったに違いない。
とろとろと地を這っていた風が止んで、ケリーはそろそろ帰るかと上体を起こした。陽はまだ充分に高いが、学校に戻る前に腹ごしらえをしておきたい。
立ち上がりかけたケリーの背を、グライアの鼻面がトンと押した。
中途半端な姿勢を狙い澄ましての一撃は、遊びは終わりだと思っていたケリーの隙を突いてまともに入った。
体勢を崩したその先に、小川のきらめきがあった。
さすがに頭から突っ込みはしなかったが、ずぶぬれになった身体を見下ろし、ケリーは溜息を吐く。
「早く迎えに来てくれ、金色狼……」
今度は自分のためだけにそう呟いた。
「おまえの友達は俺の手にゃ負えねぇよ」
人で遊ぶなと言い聞かせてやって欲しい。
ポリシアの屋敷で歓談中だったロザモンドとシャーミアンが、ずぶぬれのケリーの訪問を受けて驚愕するのは、それからもう少しだけ後のこと。
―― Fin...2008.07.11