ダン・マクスウェルがアーサー・ヴァレンタインを食事に誘ったのは、ヴィッキー・ヴァレンタインに掛けられた嫌疑が晴れたというその日の夜の事だった。
息子の命を救ってくれた事に対して、リィ本人にはすでに謝罪も礼も伝えてある。
息子には恩返しを約束させたが、危険な目に遭わせた事実が消え去るわけでもなく、怪我をさせた者の親として、心痛を負ったであろう両親に改めて謝罪と礼を述べたいと考えたのだ。
――というのは、実は理由の一端でしかない。
ダンはこれを機会に、ヴァレンタイン卿と親しくなりたいと思っていた。
同い年の息子を持つ父親同士という事もあるが、それだけではない。一回りも年下のこの若い州知事に、ダンはひとかたならぬ好意を抱いていたのだ。
それはある種の同情心から端を発している。
あの少年の父親をやるのはさぞかし大変な事だろう――見たところごく普通の、常識的な人物らしいから尚の事――非常識な両親の息子をやるのとどちらが大変だろうか。
妙な親近感と化したこれを、人は“同病相哀れむ”という。
しかし、食事の誘いにヴァレンタイン卿は難色を示した。
謝ってもらうような事は何もない、と言うのである。
むしろこちらが御礼をしたいので是非食事をご一緒に、と逆に誘いを受ける羽目になって、今度はダンが難色を示した。
誘拐された子供達を救助したのは確かにダンの船なのだが、御礼となるとこれはまったく筋違いである。表沙汰にはなっていないが、ダンは連絡を受けて迎えに行っただけなのだ。
もちろんヴァレンタイン卿とて、子供達の発見にあの忌々しいルーファス・ラヴィーが関わっている事くらい疾うに知ってはいるのだろう。
そのルウに対して少々思うところがあるらしいあたりも、ダンの彼に対する好意に一役買っている。
通信画面を挟んだ押し問答の末、ホスト役はヴァレンタイン卿に決定した。
このとき一歩譲った事を、後にダンは後悔する。
「……何故あなたがここにいるんです」
ウェイターに声をかけているアーサーに聞こえないよう、ダンは隣に座った美丈夫にこっそりそう囁いた。
控えめな照明と各所に配置された植物が落ち着いた雰囲気を演出している、正式な晩餐の場というよりは、いくらか酒場に近い趣の高級店の店内である。
「もちろん招待を受けたからだが?」
にやりと笑った父親も、やはりこっそりとそう返した。
アーサーの妻はすでにベルトランに帰っており、ケリーの妻も所用だとかでこの場にいない。
ダンにとってはジャスミンがいない事がせめてもの救いだったが、ケリーがいる時点でそれも大した慰めにはならなかった。
客が気に入らないからと席を立つわけにもいかない。
こんな事なら何が何でも招待する側に回るべきだったと思いつつ、もはや後の祭りだと溜息をつく。
そんな事とは知らぬげに、一通り注文を終えたアーサーは改まって二人に頭を下げた。
「マクスウェル船長はもちろんですが、ミスタ・クーアにも何かとご尽力いただいたと伺いました。改めて御礼を申し上げます」
その様子から、どのような“ご尽力”かまでは聞いていないようだと、ダンは密かに胸を撫で下ろした。
なんといっても、知られてはまずい事が多すぎる。
徒労に終わったとはいえ、犯人の調査にクーア財閥の情報網を駆使したなどとは、とても言えるものではないだろう。
ましてや未登録の居住型惑星を片手に余るほども知っていたなど、真っ当な船乗りでは有り得ないではないか。
その真っ当じゃない船乗りは、いいえ、と笑って運ばれたばかりのグラスを取った。
「リィは俺にとっても大切な友人ですし、ジェームスは親しい友人の孫でもあります。当然のことをしたまでですし、大して役にも立ちませんでしたからね。この際、礼だ謝罪だというのは抜きにして、事態の収拾が適ったのを祝うというのはいかがですか」
軽く言って、乾杯の仕草をしてみせる。
それは礼と謝罪を返そうとしていたダンの口を封じる事になったが、確かに“こちらこそ”と言い合っているのもけっこう不毛だ。
ダンは言うべき事の全てを目礼ひとつに込め、アーサーが応えてグラスを掲げる。
三つのグラスが合わさる音が小さく響いた。
ケリー・クーアは話題も知識も豊富で、人の気を逸らさない話し方を心得ている人だった。
さすがは元クーア財閥総帥というところか、経済のみならず政治についても詳しく、州知事という要職にあるアーサーとも話が合っているようである。
――もちろん、首相の枕元に繋がる回線の存在など、言い立てたりはしていないが。
ついつい話に惹き込まれてはハッと我に返るという事を幾度か繰り返し、ダンの心中は少々複雑だった。
そういえば、この父親らしき生き物とこうして飲むのは初めてかもしれない。
そんな事に思い至って内心ぐるぐるしている内に、話題はこの日決着した審議の事に移っていた。
「聞かれなかったから、などという理由で自分に有利な証言を口にしなかったと分かった時には、我が子ながら正気を疑いましたがね」
アーサーが苦笑する。
金色狼らしい、と笑ったケリーに、アーサーはふと真顔になった。
「エドワードがとても普通とは言えない事は、お二方ともよく御存知ですね?」
それは事実だが、言い出したのは実の父親である。同意してしまうのも憚られた。
ダンが返答に迷っていると、ええ、とケリーがきっぱり頷く。
「あれを普通だなんていったら、世の普通の少年達はいったいどうなります」
貶しているとも受け取れる台詞に、世の普通の父親にはあるまじき事ながらアーサーは満足そうな笑みを浮かべた。
「あなた方のような友人がいて嬉しく思います」
その瞬間、どんなアクシデントが起きても冷静沈着に対応する、経験豊富な船長の優秀な頭脳はフリーズした。
あなた“方”ってそれはもしや、まさかとは思うが、この自分も勘定に入っているのか。
人外生物の友人。
あの端迷惑極まりない集団の一員。
――やめてくれ。
フリーズした頭脳が再起動ついでにエラーを起こし、無様に喚き出す寸前――テーブルの下でイヤというほど足を踏み付けられ、ダンは我に返った。
あまりの衝撃に凍り付いていたお蔭で醜態は晒さずに済んだが、確実に血の気は引いていると思う。控えめな照明のせいかアーサーは気付いていないようで、これからもいい友人でいてやってください、などと真面目に話を続けていた。
「お恥ずかしい話ですが……私は息子に、父親と思われていないので」
悄然と肩を落とす様は哀れを誘われる風情だったが、衝撃を引きずっているダンは何も言えない。当然答えたのはケリーで、でも仲は良いでしょう、と柔らかく諭す調子だ。
「まあ、最近は悪くはありませんが……」
「そうでしょうとも。俺としては羨ましい限りですよ」
頷いたケリーがちらとダンを見る。
「どうも俺は一人息子に避けられているようなのでね」
いけしゃあしゃあとよくも言う。
ダンはテーブルの下で拳を握ったが、アーサーの前では否定も肯定も出来はしない。
「息子さんがいらっしゃるのですか。おいくつですか?」
「さて……いや、長らく離れて暮らしていまして。再会したのは最近なのですよ」
「では、息子さんは慣れていないだけでは? 照れていらっしゃるのでしょう」
アーサーがその“息子”をまだ幼い少年だと考えている事は明らかだった。ケリーの見た目の年齢からすれば当然である。
「だといいのですが」
四十男が照れているところを想像したのかどうか、ケリーはちょっと笑いを噛み殺すような目付きでちらとダンを見やった。それからちょっと――ダンには大変わざとらしく見えたのだが――肩を落として項垂れてみせる。
「お父さんと呼んで貰いたいというのは、そんなに大それた望みですかね?」
ケリーがそう口にした途端、分かります! と言ってアーサーが身を乗り出した。何年離れて暮らしても育てたのが他人でも父親は父親だと力説する。ダンは独り置いてきぼりだ。
――ものすごく異を唱えたい。
何年離れて暮らしても育てたのが他人でも父親は父親かもしれないが、その父親はもうとっくに死んだはずで、映像だったが葬儀も見たし、なによりこんな若い男ではなかった。
だがそれは、この場で口に出来る事ではない。
ダンの不穏な心中を知らぬわけでもなかろうに、ケリーは憂い顔で溜息なぞついて見せた。
「しかし、俺より早くに別れた母親の事はお母さんと呼ぶのでね……」
それはだって眠っていただけだから――いろいろと衝撃的ではあるのだが、そういう人なのだと思えない事もない。というか思うしかない。
ダンは努めて無表情を装いつつ、無茶を言わんでください! と叫びたいのを呑み込んでどうにか沈黙を守った。
お父さんなどと呼べるわけがないではないか。
見覚えのない精悍な美貌や聞き覚えのない無頼な口調は、どうしても記憶にある父親とは重ならない。妻であるジャスミンがそうだと言うのだからそうなのだろうが、これはもう信じる信じないという話ではなかった。どうにも受け入れ難いのだ。
しかしよくよく思い返してみれば、身内同然の親しい職員に対しては、巨大財閥総帥とも思えないくだけた話し方をする人だった。
学校に入ってからはほとんど会っていなかったし、家を出てから目にする父は会見の映像くらいなものだったから、重ならないのも当然かもしれない。
母親の例もある。あれが対外用に作った姿であった事は明らかだから、そちらの方を強く印象に残している自分の方が悪いのかもしれないとは思わないでもなかった。
それがまたよりにもよって、憧れだった海賊王なのだという。
その人のようになりたいのだと、本人に向かって言った事があるような気がするのは記憶違いだと思いたい。とってもすごく思いたい。
――だが、とにかく、その人はもう死んだはずだ。五年も前にだ。
矛盾しているのは百も承知で、そんなこんなをぐるぐる考え込んでいる最中――嫌われていると思うとやはり哀しい、という言葉が耳に届き、ダンは慌てた。
「いや、嫌っているわけでは!」
思わず口にした言葉が思いがけず強く響いて、途端に口篭る。
「ない、と……思います、が……」
もごもごと言葉を濁すダンに視線をあてて、若々しい――というか、はっきり若い父親がその綺麗な顔をにっこりと微笑ませる。
「そうかな?」
これがまた普段の皮肉な笑みではなく、本当に嬉しそうに目を細めているのだからタチが悪い。
――まさか嬉しいのか。本当に。
いつもは何を考えているのやらサッパリ訳が分からないというのに、こんな時ばかり分かりやすくならんで下さい! と、出来ればダンは叫びたかった。
絶対に自分は悪くない。――はずだ。
だというのに、なぜ自分が意地悪でもしているような気分にならなければならないのか。
きっとそうですよ、と優しく同意しているアーサーを尻目に、ダンはただひたすら、お父さんと呼んで謝ってしまいたい衝動に、ただひたすら耐えていたのだった。
―― Fin...2008.07.18