―― 或る日の変事
Written by Shia Akino
 ケリーが学生という身分で日々を送っていると知った時、ジャスミンは大方の予想に反して笑いも呆れもしなかった。顔を輝かせて目をきらきらさせたかと思うと、即座にこう言ったのだ。
「授業参観はないのかっ!?」
 そのあまりの喰い付きの良さにケリーが爆笑したのは言うまでもないし、それを目にしたイヴンがちょっと世を儚んでしまったのも言うまでもない事だろう。
 少年時代をやり直すだけなら、まだ開き直る事は可能かもしれないとイヴンは思う。しかし、思春期真っ只中のような姿を妻に見られ、あまつさえ学生生活を送っている事を知られて、普通の男は笑っていられるものだろうか。
 ――否。
 自分だったら絶対に嫌だ。あまりにも嫌すぎる。
 ケリーの今の姿が本来のものではなく、三十絡みのこの女が実はケリーの妻だというその真偽を疑いたくなるのは、こういう時だ。
 まあ普段から、心底信じているわけではなかった。有り得ねぇ! と叫びたいのは山々だし、夫が縮んでいるという事態を平然と受け入れる妻の存在がまず信じがたい。
 だが、どこか納得してしまっている己を自覚してもいる。
 腹を抱えて笑っているケリーを遠い目で眺めやり、まあケリーだし、とイヴンはそれで片付けた。
 夫の学生生活を見たいだなどと主張する母親役しかり。
 あの王妃の友人に“普通”という言葉を当てはめようとするのが間違っているのだ。



 王妃の息子と噂されていた人物に、王妃ではない女性が母親を名乗って迎えに来たという話は、順調に城下に広まりつつあった。
 寄宿学校では、すぐにもケリーがいなくなってしまうのではないかと多くの生徒が恐れおののき、一時騒然とした雰囲気にもなったが、当のケリーが例によって居たり居なかったりしながらも校内をうろついているので、今はどうにか落ち着いている。
 辞めるという話は確かにあった。
 そもそもケリーが学校に入ったのは、こちらで過ごす為の知識の取得が目的であり、それはすでに達成されているからだ。
 ところが、ジャスミンが反対した。
 子供は学校に通うものだと力説し、授業をサボるのは感心ないぞ、などとしかつめらしく言い諭す。
 ――それはそれは楽しそうだった。
 なんというかもう、生き生きとしていた。
 どうせ起きていたところでそんな当たり前の母親になったわけはないのだが、四十年を眠って過ごした妻の為に、ケリーは少しお遊びに付き合ってやる気になったのだ。
 脅威的な付き合いの良さと言えるかもしれない。
 そうしていまだに学生身分のケリーは、一限目の間に読み終えた本を閉じ――授業とは無関係の造船の専門書だったりする――新たに何か借りて来るべきかどうか思案した。
「ねぇ、ケリー。あれ――誰だか知ってる?」
 窓際で騒いでいた一団に、何か聞いてない? と声をかけられ、窓の外を覗きこむ。
 この位置からだと、校舎入り口で教師と話しこんでいる大きな姿を見下ろす形になった。目立って小さい訳でもない先生が、すっぽり隠れてしまいかねない大きな人だ。
 新しい先生かな、というのに首を振り、ケリーはちょっと苦笑した。
「いや、あれは俺の母親。授業参観がしたいって騒いでたからな。許可が出たんだろう」
「は……はおや!?」
 その場に居た生徒達は窓枠に取り付いて首を伸ばした。
 母親となれば女のはずだが、騎士が着るような男物の衣服を身に着けている。確かに髪は長いようだが素っ気無く括っているだけだし、何より大きい。
「女なのか、あれ……」
 噂の主がこんな人物だったとは。
「ていうかさ、ケリーにも母親っていたんだね……」
 なにか奇妙なものを見る目つきで級友達はケリーを見やった。
「なんだそりゃ」
 王妃の息子などという傍迷惑な噂を散々口にしておきながら、今更何を言うのか。
「なんでもないなんでもない。ああほら、授業始まるよ」
 予鈴にせかされて一同は席に着き、しばし後、教師に伴われて入室した女性に改めて目を見張った。
「……入り口通る時さ、頭下げたよな、今」
「でけぇ……」
 ひそひそと囁き交わす様は、ジャスミンには珍しい事ではない。促されて教壇に上がり教室内を見渡すと、囁き声はぴたりと止まった。
「私の名はジャスミンという。すでに聞いたかもしれないが、ケリーの母だ。こちらには普段の授業を部外者に見学させるような制度はないそうだが、息子がどんな環境でどんな生活をしているのか、どうしても見ておきたかったので特別に許可をいただいた。邪魔はしないようにするので私の事は気にせず、どうか普段通りに振る舞って欲しい」
 女とも思えない口調に生徒達は一様に強張った表情を浮かべ、同時に同じ事を思った。
(――無理!!)
 体格のせいとばかりもいえないこの圧倒的な存在感を、どうすれば気にせずにいられるだろう。言う方が無茶だ。
 しかし女は、意外なほど目立たなかった。
 教室の片隅に陣取った女は、ひっそりと気配を消して佇んだのだ。真面目に前を向いて授業を受けている分には、気にせずにいられる。
 この親にしてこの子あり――一部の者はそう思った。
 ケリーもまた、他を圧する存在感の持ち主だ。それでいて驚くほど目立たない。どうも頻繁に脱け出しているらしいのに一度も警備に捕まった事はないし、同室の者ですら、いついなくなったのかいつも分からないのである。四六時中人の目を集めるような目立ち方をする人間には、決して出来ない芸当だ。
 とはいえ、すぐそこにいると分かっているのに、完全に忘れていろというのも無理がある。
 普段より浮ついた雰囲気で授業は進み、そろそろ終わりかという頃――窓際の生徒が一人、突然立ち上がった。
「先生、あれ――!」
 指差した先は鐘楼を向いている。そちらを覗き込んだ教師は、一拍を置いて顔色をなくした。
「君達は席に着いていなさい!」
 慌ただしく言い置いて教室を出て行く。
 明らかに狼狽していた教師の言に従う者など、当然ありはしなかった。
 動かなかったのはケリーだけだ。
 その位置からでは鐘楼は見えないはずだったが、一度視線を向けただけで立ち上がろうとはしない。
 他の生徒たちは次々に窓際に吸い寄せられ、事態を把握した者から順に息を飲んだ。
 学校のどの建物よりも背の高い、細長い塔である。
 有事には見張り場として機能するその塔の最上階――矩形に開いた窓からは奥に吊るされた鐘が見えるはずだった。
 いま見えているのは人影だ。身体の大きさからして間違いなく生徒である。
 塔内部にいれば腰辺りから上しか見えないはずが、全身隈なく見えていた。硝子など入っていない窓の枠に立ち、下を覗いているのだ。
 たった一歩でも踏み出せば命はない。
 本来立ち入り禁止のその場所で彼が何をしているのか、もはや考えるまでもないだろう。
「大変だ……止めなきゃ! ケリー!!」
 蒼褪めた顔で振り向いたその少年に、ケリーはちょっと首を傾げた。
「なんでだ?」
「何でって……」
「死にたいヤツは死なせてやりゃあいいだろう」
 口調は軽かったがその響きは冷たく、軽侮の色さえ浮かべた瞳に級友は怯む。
 少年達は戦場を知らない。
 生きたいと望む者が簡単に命を落とし、打ち捨てられて行く凄惨さを知らない。
 ほとんどの生徒にとって死は知識であり、経験ではなかった。将来領民の生活を担い、ひいては命を背負う事になる者も、目の前で人が死のうとする事にうろたえてしまう程度には幼かったのだ。
 しん、と重い沈黙が降りた。
 息苦しいような空気を動かしたのは、普段の男子部では在り得ない女性の声――。
「息子よ、それはどうかと思うぞ」
 意外だ、というように瞬いて、ケリーは窓際に寄って現場を仰いだジャスミンを見やる。
 ジャスミンは立ち上がりもしないケリーに目をやり、顎で現場を示してこう言った。
「あそこから落ちたら遺体は結構な惨状になる。片付けるのが大変だろう」
 事務手続きか何かのような言い様である。
 片付けるのが大変――その意味を理解するのに、生徒達は数瞬の間を費やした。
 理解した瞬間、ある者は蒼褪め、ある者は引き攣り、ジャスミンの傍に居た数人はもつれるように後ずさる。
「私だって決めてしまった者を止められるとは思っていないが、ああやって立ったままでいるところを見ると決めた訳ではないんだろう。迷っているにしろ怖がっているにしろ、な」
 怯えた風の生徒達には頓着せず、ジャスミンは真っ直ぐにケリーを見た。
「止められるなら止めるべきだと私は思う。――ご両親のためにも」
「だから、なんでそれを俺に言うんだよ?」
「おまえなら止められるかもしれないと皆思っているようだからな」
 窓際に寄り集まっている生徒達を目で示せば、ケリーは嫌そうに顔を顰めて舌打ちを漏らした。ほとんど縋るような目線でケリーを見ていた生徒達のうち、気の弱い幾人かはそれだけでビクリと肩を揺らす。
 一人――大人しげに見える少年が一歩を進み出て、お願いだケリー、と強い口調で言った。
 なかなか見所のある少年の瞳に信頼と尊敬の色を見て取って、ジャスミンはひとり笑いを噛み殺す。
 まったく、どこででもどんな姿でも周り中誑しまくる男だ。
 噛み殺した笑いに気付いたらしいケリーが冷たい視線を送ってきたが、ジャスミンはそんなもの全然まったく怖くなかった。ひらひらと手を振って、ほら行って来い、と促す。
「あんな小さな子供が目の前で死ぬのは、さすがに少々寝覚めが悪い」
 少々でいいのか!? と少年達は思ったが、ケリーは当たり前のように同意した。
「まあ、確かにな」
 溜息をついて大儀そうに立ちあがり、ついて来るなよ、と念を押して教室を後にする。
 心配そうな生徒達に混じって、ただし心配はせずにジャスミンは現場を見上げた。
 鐘楼の窓枠に立った小さな影は、時折背後に向かって何か叫んでいる。駆け付けた教師達に“来るな”とでも言っているのだろう。
 間に合えばいいが――とジャスミンは思う。
 ケリーが間に合いさえすれば、どうとでも言いくるめると分かっていた。



 自殺志願者より先に、まず言いくるめられたのは教師陣である。一生徒によって言葉巧みに現場から遠ざけられた教師達は、鐘楼の出入口でやきもきしながら待機する羽目になった。
 しばし後――泣きじゃくる少年を伴って降りてきた生徒に、教師達は労いの言葉をかけなかった。まず安堵の息を吐いてから、何故あんな馬鹿な真似をした――と、少年をきつく問い詰めたのである。
 ふわふわの金髪をもつれさせ、青い眼を涙に濡らした最下級の小さな少年は、ケリーの上着の裾を握ってただひたすら泣くばかりだ。
 当人が養護教諭によって連れ去られ、落ち着くまで面会謝絶だと救護室に隔離されてしまうと、矛先は当然ケリーに向かった。
「理由は聞いたのか!? どうなんだ!!」
 殺気立って来た教師達が取り囲んで詰問したが、ケリーは肩をすくめるだけだ。
「俺の口から言う事じゃないでしょう。本人に聞いてください」
「それで済むと思うのか!? いいから言え!」
 高圧的に怒鳴った若い教師を皮切りに、その場は一時騒然となった。傍から見れば吊るし上げともいえる程だが、自殺騒ぎなどという不祥事に取り乱している教師達は気付きもしない。
 主任教師がこの場にいればまた違っただろうに、いったいどこに行きやがった――ケリーは八つ当たり気味の思考と共にうんざりと息を吐き、取り繕っていた敬語を放り捨てた。
「思い留まったんだからそれでいいだろうが。どうしても知りたきゃ本人に聞け」
「ケリー。好奇心で聞いているわけではないんだよ。問題があるなら是正しなくてはならない。分かるだろう?」
 噛んで含めるような一人の教師の言い分は正しくもあったが、まさにその問題のせいでケリーは実のところ不機嫌だった。
 誰にも言わないって約束して、と涙ながらに語った少年に同情する気はさらさらないが――自殺騒ぎなど起こす前に、他にどうとでも出来ただろうとケリーは思う――見過ごしてしまうにはあまりに不快な事実である。
 眉を寄せて目を細め、ケリーは周りを囲む大人達を見上げた。ただその一瞥だけで、教師達が僅かに怯む。
「言う気はない。そこをどけ」
 特に怒鳴るでもない静かな一言にもかかわらず、誰もがはっきりとたじろいだ。幾人かは後退りさえして顔色をなくす。
 この少年は扱い難い生徒ではあったが、概ね素直で大人しかった。従順とはいえないが殊更に逆らって見せるわけでもなく、不機嫌を顕わにする事も滅多にない。
 というより、一度もなかった。
 ひやりと周囲を取り巻いた空気は一介の生徒によるものとも思えず、犬だと思っていたものが実は昼寝中の狼だったとようやく気付く。
 言葉を失った教師達に、悠然と通り過ぎていく少年を呼び止める事は出来なかった。



 数日後、一人の教師が学校を辞めた。
 表向きには一身上の都合による退職だったが、事実は違う。最下級の愛らしい男子生徒に対して不埒な真似に及ぼうとし、その現場を押さえられての免職だった。
 被害者と学校の名誉のためにその事実は伏せられる事となり、学内で知っているのは当の被害者と学長、主任教師の他に、現場を押さえた男子生徒一名だけで、表沙汰にはならず事件は終わった。
 ――また、後日の事。
 職を失った男は下町でくだを巻いているところをボコボコに叩きのめされ、南方行きの奴隷船――当然非合法――に放り込まれた。
 放り込んだのは、並の男より長身の一人の女性だったという。
 この事実を知るものは、更に少ない。



―― Fin...2008.08.29
ありがとうございました。ブラウザを閉じてお戻りください。
 ジャスミン授業に乱入で大騒動を書くつもりだったのに、学校でありそうな騒動ったらなんだろーと考えてたら自殺騒ぎの話に。何故だ。
 そしてゴメン、おまけが下品……(苦笑)

  元拍手おまけSS↓

「ケリーどの……それは私刑というものではないか?」
「なにかまずかったか? 一応やり過ぎないように見張ってたぜ?」
 手間を省いたといわんばかりのケリーに、ウォルはちょっと溜息をつく。
「まあ確かに、自業自得というものだな」
「そうだとも」
 ジャスミンが大きく頷いた。
「なんならちょん切ってやっても良かったんだが――」
「だからやめとけって、女王」
 笑いを堪えつつケリーが止める。
 ここの医療技術では、それなりに手を尽くしても絶対安全とまでは言い切れないし、手間暇かけてやるような価値もない。
「分かっているとも。万が一にも死んでしまっては元も子もない。捻り潰してやったからそれでよしとしよう」
 物騒な手付きでナニかを捻る真似をして、ジャスミンはニヤリと不敵に笑った。ウォルが呻いて顔を覆う。
 嘆いているように見える仕草だが、この大物の王様はその裏で忍び笑いを漏らしていたのだった。
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