デルフィニア王都が抱えるトレニア湾各所で港の拡張工事が始まったのは、数年前の事だった。
コーラルにおける諸外国との交易は、これまで陸路と海路がほぼ半々――海際にあり、天然自然の広大な湾が存在する地理的な好条件を鑑みれば、陸路が大勢を占めていると言っても過言ではない。
ましてやパキラ山は人の足で越えられるものではなく、ロシェの街道はコーラルを通らない。それにしては意外なほど、陸路での交易は多かった。
海路が陸路より危険が大きいのは確かである。多いとは言えないが、大きい。
盗賊が商隊を襲っても全滅する事は滅多にないが、嵐が船を沈めればそれで一環の終わりなのだ。
そもそも船がなければ海には出られないし、反面足があれば陸路は行ける。
戦時中は敵国に囲まれた状態であったにも関わらず、商魂たくましい商人達はあの手この手を使ってタンガやパラストを抜け、デルフィニアへとやってきた。
逃げ場のない海上でタンガやパラストの面前を通り抜けてデルフィニアへ向かうのは危険でもあったし、そういった危険を一手に引き受けるキルタンサスという小国家の存在もあった。
つまり、デルフィニアの海路での交易相手は、ほとんどがキルタンサスだったのである。
今に到ってもそれは変わらず、遠方の物資のほとんどはキルタンサスを通してデルフィニアへやってきている。とはいえキルタンサスは小さな国だから、扱える量にはおのずと制限がかかる。関わる国が多ければ、とうぜん税も余分にかかる。いきおい遠方の品々は高価になる。
戦争が終わった今、マランタやトルーディアなどとの直接取引を望む声は年々高まってきていたのだ。
しかしながら、諸外国との直接取引の増加を見込んだ港の拡張工事は、顧客を奪われる形になるキルタンサスの猛反発を引き起こした。計画は頓挫したまま、そのあたりの折衝は難航していた。
戦の指揮能力と外交手腕を共に高く評価されるウォル王に欠点があるとすれば、そういった際の積極性であろう。
温厚篤実な君主の下、他国との軋轢を圧してまで、自国の利益を追求する姿勢がデルフィニアにはなかったのだ。
だが、自らの領土のみが世界ではない。
己の敷地内でのんびりと草を食んでいたくとも、隣国の高層建築が日差しを遮るかもしれず、他国が川の上流で流れをせき止めるかもしれなかった。
訪れた平和は文化・技術・経済発展の兆しを見せており、取り残されてはいずれ食い詰めるだろう事は疑いない。それはウォル王の治世ではないかもしれないが、このままでは危険だとブルクスは考えていた。
そうでなくとも、戦がなければ人は増える。単に死なないという事もあるが、働き盛りの男が故郷を離れなければ子が多く産まれる。次の世代、その次の世代には人口が爆発的に増えるだろう。開墾可能な土地はまだ多くあるが、それだけで賄えるものでもない。大地の実りは爆発的に増えるものではないのだ。
ここ数年、ブルクスの再大の懸念はそれだった。
国力に変わりがなく、人が増えれば一人当たりの富は減る。戦に勝利し豊かになると考えている国民は、王家に猜疑を抱くだろう。
かといって、敗戦国からの搾取が過ぎれば、今度はそちらに禍根が残る。民草にとっては戦に負けた事よりも、そういう恨みの方が長く尾を引く。次の戦の種となる。
戦女神としてこの国を勝利に導いた、今はなき王妃――その友人だという少年が天の国からやってきたのは、戦勝国として輝かしい前途を約束されたかに見えるデルフィニアに、そんな影がじんわりとにじみ始めた頃合だった。
そして、今――。
ブルクスはトレニア湾を望む高楼に立ち、再開された港の工事を感慨深く眺めている。
彼の少年ももはやこの国にはなく、便りの一つも届かぬまま幾つかの季節が過ぎようとしていた。
しかしこの場に姿はなくとも、彼がこの工事再開に果たした役割はひどく大きい。
キルタンサスを説き伏せた経済の相乗効果と相互発展の様式は、共和宇宙経済の実例に基づいたものであったのだ。
当然ブルクスは“共和宇宙”などという名称は耳にしていないし、それが実例だという事も知りはしない。
基礎となる数字はもちろんこちらのものだし、少年の視点は経営者のもののようだったから、政治的に組み直す必要もあった。
しかし、双方の利益になる事だという説得力のある説を提示する事が出来たのは、間違いなく彼のおかげだった。
あの広く深い見識を持つ聡明な少年が、折りに触れ口にした経済社会のありようをブルクスは丹念に思い返す。それは今後も、この国の舵取りに大いなる指針となるだろう。
戦女神と違って彼の功績を知る者は少ないが、この地の安寧の為にはなくてはならない人物だった。
天の国が遣わしたもう一人の神――未だこの空のどこかには在るであろう少年に向けて、ブルクスは小さく感謝の言葉を口にした。
―― Fin...2008.12.22
ふと、呼ばれたような気がしてケリーは顔を上げた。
外海の波は浅く静かで、照りつける陽光は甲板の白茶けた木材をますます白く見せている。
ケリーが見習いとして乗り込んだ商船はごく小さなものだったが、航海に必要な知識をひととおり身に付けるには最適だった。
風の読み方、潮の見方、帆の角度や上げ下ろし、船乗りの間で使う符丁、やたらと揺れる嵐の中での身の捌き方――書物だけでは身につかない知識だ。
同じく“船”とは呼ばれても、腰を下ろして操縦する宇宙船とはまったく異なり、これはこれで非常に面白い。
空耳に顔を上げたケリーが、晴れ渡った空のかなたに群雲を見付けた時――どうした坊主、と声がかかった。
「いや……夜には荒れるんじゃねえか?」
雲から目を離して振り向けば、髭面の大男である船長は目を細めて群雲をみやり、風を嗅ぐような仕草をしてから大きく顔を歪めてみせた。とてもそうは見えないが、笑ったのだ。
「まったくたいした坊主だよ、おめぇは。普通は五年も乗ってようやくわかってくるもんなのによ」
指にまで強い毛の生えた大きな手が、わしわしとケリーの髪をかき混ぜる。
「いい船乗りになるぜ」
割れ鐘の鳴るような笑声がガラガラと響いた。
後にケリーは、魔法街と関わる船を手に入れる事となる。なるのだが、外洋型宇宙船は一人でも操縦できるが、外海を行く帆船はそうもいかなかった。
ケリーの船は大きさの割りに人手のかからない船だったが、魔法が動力というわけではもちろんなく、臨時のつもりで雇い入れた数人はいつの間にか居着いたあげくに増殖し、懐かしい呼称が囁かれるに到るのだが――それはまた別の話。