船を降りて――と。
それを言ってしまったら、この夢は終わり。
女は寝台脇に膝をついて、眠っている男の髪をそっと撫でた。
気紛れに訪れ、気紛れに去っていく恋人の端正な顔に、窓から差し込む幽かな灯りがにじんでいる。
場末の宿。
うらぶれた街は深夜を過ぎて、わずかな灯りがともるばかり。
風のない夜に人の声もせず、やたらと多い野良猫の恋の相手を呼ぶ声が、遠く近くに響いていた。
褐色の肌に映る光に触れようとして、けれど女は手を止める。
男の眠りは浅い。いつでも浅かった。
触れてしまえば眠っていたのが嘘のように目を開けるだろうし、今だってもしかしたら眠ったふりかもしれない。
掬い上げた濃紫の髪に口付けを落として、琥珀の瞳を隠した瞼が動かないのを確かめる。
それでも、滑らかな頬には触れない。
女が好きに出来るのは、髪を弄る、ただそれだけ――額に、頬に、唇に触れたら、男はきっと目を開けて笑う。しなやかな腕で女を抱き寄せ、優しい言葉と口付けをくれる。
――いまはもう、形ばかりのそんなものは欲しくなかった。
心がないとは言わない。好かれているのは知っている。ただ、愛されてはいない事も知っていた。
船乗りである彼が立ち寄る港で、彼のおとないを待つ女がどれほどいるのかは知らない。
女とて、恋人が彼だけだと言うつもりはなかった。情熱的に愛を囁く若いのもいるし、店を持たせてやろうというお大尽もいる。
だから、これは望みではない。望んでなどいない。ただの夢。
――戯れ。
「……ケリー」
朝の最初の光がさす前に、女は男の名を呼んだ。
そして言う。
船を降りて――私と一緒になって、と。
叶わない夢を、終わりを招く言葉を――そうと知りながら、口にした。
白かった女の肌はくすみ、豊かな栗色の髪は色褪せ、歳月が刻んだ深い皺に若かった頃の面影は埋もれた。
五十年も前に持った女の店は、高架下の屋台に毛が生えたような小さなもの――五人も入れば満席のバーはその夜、常連客で賑わっていた。
「ばあさん、また注文間違えてるぜ! 俺ぁ“レッド・クラウン”頼んだんだって!」
飴色に光る木材――に見せかけた安素材のカウンターに肘を突いて、作業服の男が声をあげる。八十を超えてなお矍鑠(かくしゃく)とした老女だが、店主は頻繁に注文を取り違えるのだ。
「うるさいね、文句ばっかり一人前かい? 小僧にはそれがお似合いだよ!」
「ばあさーん、俺ぁもう四十だぜ? いいかげん小僧はないだろうよ」
「あたしゃあんたがオムツの頃から知ってるんだ。小僧で充分だよ!」
店主と男のやり取りに常連仲間がどっと笑った。
その時――ギンゴンガラン、と騒々しい音が響き渡った。
年老いた耳に拾いやすいドアベルの音は、常連には慣れっこだが新規の客はたいてい驚く。
扉を開けた男はちょっと足を止めてドアベルを見上げ、わずかに苦笑して歩を進めた。
滅多にない程の長身に鍛えられた体つき、褐色の肌の端正な顔立ち――満席だよと言いかけた店主は、その姿を見て息を呑んだ。まじまじと入ってきた男を眺め、あんた――と小さく呟く。
背後にこれまた恐ろしく大きな女を連れた新たな客は、琥珀の瞳で店内を一瞥し、満席かい? と問うた。
「あ、ああ――いや」
我に返って瞬いた店主は、いま空くよ、と答えて布巾を手に取る。
「ほれあんたら、とっとと帰んな」
ぶっきらぼうに言いながら、常連達のグラスを片付けにかかった。
「おいおい、追い出す気かよ」
「ひでぇじゃねぇか、ばあさん」
口々に言うのには鼻を鳴らして答える。
「ふん! あんたらは追い出したってまた来るだろうが。あたしにゃ新規の客の方が大事だよ。ほれ、しっしっ――」
犬でも追うように手を振られ、常連達は笑いながら席を立った。
いいのかい、と客が言うのに、ばあさん注文間違えるから気ぃつけろ――と陽気な声を投げて行く。
「ツケで飲むようなのは客じゃないからいいんだよ。――さあ、空いた。座っとくれ」
客商売としては乱暴な意見に、新たな客――ケリーとジャスミン――は苦笑しつつ席に着いた。
騒がしい常連がいなくなると、実はずっと流れていたジャズがようやく耳に届いてくる。
落ち着いた雰囲気の内装は高価でこそなかったが、むしろこうして静かに飲むのに向いていた。
店主の目が悪くなるにつれて徐々に増えていった照明は光度が高く、こういった店にしては明る過ぎるほどだったが、効果的に配されている為か気にする客は少ない。
「注文は?」
年老いた店主の無愛想な口調も悪くない――ジャスミンは店内に視線を滑らせながら、ミリタリー・オナーズを、と口にした夫に続いて同じものを頼んだ。
カウンターの中には様々な形のグラスが並び、こんな小さな店には不似合いなほど多種のアルコールが揃っている。
「……?」
店主に目をやって、ジャスミンは首を傾げた。
注文を受けたはずの店主は頷くでも準備を始めるでもなく、何故かいっさいの動きを止めていた。その視線はじっとケリーに注がれている。
老女だろうと少女だろうとケリーに見蕩れる女など珍しくもないが、なにしろ相当な高齢だ。聞こえなかったのかもしれない――そう思ったジャスミンは再度口を開いたが、ケリーの様子が目に入って止めた。
ケリーは僅かに眉を寄せ、何か思い出そうとするような顔つきで店主と視線を合わせている。
見つめ合っているとしか言えない状態にもかかわらず、互いの視線は絡みあってはいなかった。双方共に相手を擦り抜け、遠い何かを眺めている。
「……どうした?」
躊躇いつつ声をかけると、ケリーは瞬いて首を振った。
「いや、なんでもない」
店主は黙したまま背を向けて、グラスの用意を始めている。薄い硝子に氷の触れる澄んだ音がジャズの合間に高く響き、皺深い指が果実を絞って数種類のアルコールを量りながらグラスに注いだ。
ミリタリー・オナーズは、ごく普通のウィスキーである。
店主は明らかに違うものを準備していたが、注文と違う――とは、ケリーもジャスミンも口にしなかった。
ちょっと変わった風合いの綺麗な色のカクテルをカウンターに乗せ、最後にレモンを一切れ添えて、店主が小さく笑みを浮かべる。ジャスミンの前にも同じものを置いて、嫁さんかい? と男に聞いた。
「ああ、そうだ」
ケリーが頷くのにちらと目をやって、店主はまじまじとジャスミンを凝視する。無遠慮に眺めまわしたあげく、いい女だねぇ、と息を吐いた。
「……そうか?」
世間一般の基準ではその範疇に入らないと自覚のあるジャスミンは首を傾げたが、途端、店主は眉を寄せて声を荒げた。
「馬鹿にするんじゃないよ! あたしゃこの商売五十年もやってるんだ。人を見る目は確かだよ!」
「……それは失礼」
生真面目に軽く頭を下げるジャスミンを再度まじまじと観察し、店主はケリーに向かってにやりと笑った。
「あんたみたいな男にゃ似合いだよ」
「そうだろう」
笑みを返してケリーがグラスに口をつける。
賛辞の礼にグラスを掲げて、ジャスミンも酒を口に含んだ。
なんとはなしに立ち寄った小さな街の、思いのほか雰囲気のいい店を肩を並べて後にしたケリーとジャスミンは、しばらく黙ったままで夜の街をそぞろ歩いた。
「……あのカクテル、意外と甘くないんだな」
「――ん?」
首を傾げる夫を横目で見やり、新婚当時を思い出してジャスミンは笑う。自分にとってはたかだか数年前の事だが、夫にとっては数十年も昔の話だ。覚えていなくても無理はない。
「おまえが一度作ってくれたやつだろう。妊娠中に。毒入りだったが」
「ああ、そういやそうだな」
妻の毒殺を示唆されて、グラスに毒を放り込んだのはケリー自身である。毒入りの酒を勧められた妻が大笑いしたのを思い出し、ケリーの口元に笑みが浮かんだ。
「私が出された酒を飲まなかったのはあの時だけだからな、飲めて良かった。――女に教わったと言っていたな?」
「まあな」
「いい女だったか?」
「それはもう」
微笑したまま深く頷き、ふと悪戯心をおこして聞いてみる。
「妬いたか?」
いや――と答えかけたジャスミンは、思い直して口を噤むとにやりと笑って胸を張った。
「当然だ。妻の前で昔の女と見つめ合うとは何事だ」
そういう台詞をふんぞり返って言われても、全然かわいくないのだが。
ケリーは小さく吹き出して、そりゃ悪かった、と一応詫びた。
「お詫びに、そうさな――どうして欲しい?」
「ふむ。では、またあのカクテルを作ってくれ。今度は毒抜きで、レモンも添えて」
「了解」
短く答えたケリーはジャスミンの腰を抱き、謝罪の意を込めてこめかみに口付けた。女性に対して昔はよくやった行為を実践してみたわけだが、規格外の妻はとことん規格外であった。
頬を染めたり拗ねてみせたりといった“普通の”反応はもちろん見せず、ジャスミンは胡乱な目付きで美貌の夫をねめつけたあげく、ホストみたいな真似はよせ、と言い放ったのだ。
「似合いすぎて洒落にならん」
溜息と共に首を振られて、ケリーが爆笑したのは言うまでもない。
―― Fin...2009.02.02
《パラス・アテナ》にはホーム・バーなどない。
寛ぐ時は居間と呼んでいる部屋で、頼めばダイアナがなんでも持って来てくれるのだが、船長夫妻はこの時キッチンに陣取ってグラスを前にしていた。
ケリーが作った綺麗な色のカクテルに手をかけて、ジャスミンがじっと夫を見つめる。
「……なんだ?」
自分の分を手にして椅子にかけようとしていたケリーは、その視線に気付いて首を傾げた。
「いや、つくづくいい男だと思ってな。見蕩れていた」
大真面目に言う妻の姿に笑いを噛み殺し、そりゃどうも、とケリーが答える。
「どんな女とも長続きしなかったとダイアナが言っていたが、女から別れを切り出された事などないんだろう。この色男」
からかう調子でジャスミンが言うのに、ちょっと考えてからケリーは首を振った。
「いんや、あるぜ」
船を降りて、私と一緒になって――彼女のあれは別れの台詞だったと、今なら分かる。
「そうか? ――まあ、こんな神経の配線のおかしい男には、そうそう付き合ってもいられないのかもしれないな」
嘆息するジャスミンに、あんた他人のこと言えるのか――と言いかけてやめた。そりゃ有り難いね、と真顔で言う。
「――ん?」
「そんな難しい男に付き合ってくれてる訳だろう、あんたは」
にやりと笑ってグラスを掲げた。
意外な反応に目を見張っていたジャスミンも、破顔してグラスを持ち上げる。
チン、と澄んだ音が響いた。