炎熱の刻 上
Written by Shia Akino
「あちぃ……」
 大華三国の一、デルフィニアの首都コーラル――白亜城とも呼ばれる壮麗な宮殿の一角で、一人の少年がぼそりとそう呟いた。
 空は抜けるような青、整えられた庭園は燃えるような緑、純白の外壁は陽光に輝き、テラスを覆う庇の影の外側は目に痛い程に眩い。
 夏、である。
 石造りのベンチにべったりと張り付いた少年――ケリーは、もう一度暑いと呟いて力尽きたように目を閉じた。
 ――暑い。
 北に面したテラスは夏向けの設えで、風通しは悪くない。目の届くところに噴水があり、人の手で作られた小川が涼しげな音をたてているが、それにしたって暑いものは暑い。
 明け方の雨が不快指数を跳ね上げた原因であることは分かっていた。ただ暑いだけならばここまで消耗していない。蒸し風呂のごとく潤んだ空気はじっとりと肌に張り付き、息をするたび肺に水の溜まるような錯覚さえ覚える。溺れそうだ。
「うぉーい、生きてるかぁ」
 こちらもうんざりといった調子の知己の声に、溺死寸前のケリーはうっすらと目を開けて声の主を一瞥した。
「……あんたは馬鹿か、なんだその格好は。見るだけで暑苦しいから寄るんじゃねえ」
 吐き捨ててまた顔を伏せる。
 なぜに黒。この暑いのになんだって黒装束。
 素材そのものは涼しげで見た目ほど暑くはないのだろうが、見た目が暑い。嫌がらせか。
 黒衣の独立騎兵隊長は不服そうに鼻を鳴らし、飲み物を持ってきてやったんだが? と居丈高に言い放った。
 カラリ、と小川などよりずっと涼しげな音がした。



 ケリーが元居た世界では氷など珍しくなんともなかったが、ここデルフィニアにおいて夏場に氷を口に出来る者は、王侯貴族と富裕な商人くらいのものである。
 その王侯貴族の長たる後見人の好意を、ケリーはありがたく受け取った。
 冬の間に切り出して氷室に貯蔵した氷を浮かべた果実酒は、どんな珍味よりも美味かった。
「おまえ、ほんとに暑いの駄目なんだな」
 見るだけで暑苦しい独立騎兵隊長が、自身もやっぱり暑そうに己のグラスに口を寄せた。
「リィより弱いんじゃないか、もしかして」
「ああ……かもな」
 リィも暑いのは苦手だと言うが、寒いのよりは、という注釈がつく。そしてリィの寒さに対する耐性は、北の大地に暮らす狼に匹敵するのだ。暑さに対しても常人よりは強いかもしれない。
「科学技術の恩恵がいかに偉大だったか思い知ったぜ……」
 空調設備に慣れきった身にこの暑さはきつい。
 今日はまた特別暑いが、時期が時期だけにこのところ毎日が猛暑である。寝ても覚めても起きても倒れても暑い。縦になっても横になっても暑いものは暑い。
 とはいえ、街中の一般家庭などに比べれば王宮内部は存外涼しかったりするのだが。分厚い石材は優秀な断熱材だし、全体に天井が高く、広い空間を抱え込んだその内部を蒸し風呂と化すには、いかに真夏の太陽だとて力不足である。
 問題はケリーが快適な環境に慣れきっている事だろうか。バカンスならば話は別だし、熱帯の密林でサバイバルな日々を送ったこともあるが、日常としてのひと夏は長い。
 生き延びる事に意識を向ければ暑さなど気にしている余裕はないが、命の危機でもなければ訓練中でもなく、逃げ込める空調の効いた建物も宇宙船も存在しないこの地でのひと夏は、あまりにも長かった。考えただけでうんざりする。
「今すぐ空調設備を整えてくれるなら、全財産払ってもいい……」
 半ば本気でケリーはぼやいた。
 クーア財閥元総帥の全財産は、最初に妻に押し付けられた全株式の2%――ルウに押し付けた分目減りしているが――贅沢な人生を3度くらい送れる額である。売らなければ配当だけで食べていけるから、クーアが破産しない限り金の卵を産み続ける雌鶏も同じだ。喉から手が出るほど欲しい者は大勢いるだろうが、ここに空調を設置出来る者は一人もいない。いるわけがない。
 果実酒を飲み干したケリーはまたぐったりとベンチに横たわり、あろうことか空のグラスを額に乗せた。かなり間の抜けた格好である。
「馬鹿っぽいぞ、それ」
「うるせえよ。年寄りは暑さに弱いんだ、ほっとけ」
 皺のひとつもない肌をして何が年寄りなのか意味不明だが、締め上げて揺さぶるほどの気力はイヴンにもない。なにしろ暑い。
 イヴンは残った氷をケリーのグラスに投入して頬杖を突き、汗をかいたグラスから転がり落ちた水滴が形のいい額の上を滑っていく様をぼんやりと眺めた。涼しげではあるが珍妙な眺めだ。
 昼を回ったこの時刻、太陽はますます意気軒昂。わずかな風は温んだ空気をかき回すだけで役には立たず、鳥の影すら見えない空に蝉の声だけが響き渡る。
 べったりとベンチに臥した少年が腐りかけの溺死体に見えてきて、イヴンはようやく腰を上げた。額からグラスを取り上げつつ、西離宮でも行くか、と提案してみる。
「西離宮?」
「ああ、リィの住居だ。もともと避暑のための建物らしいからな、ここよりゃ多少涼しいぜ」
 年中快適なダイアナの中では死語と化している言葉が、なんと甘美に響く事か。
「避暑……避暑か」
 呟いた次の瞬間、ケリーはろくな予備動作も見せずに立ち上がった。額の水滴を無造作に拭い、がしりとイヴンの肩を掴まえる。
「案内してもらおうじゃねぇか」
 底光りする目に見据えられて、独立騎兵隊長を務める壮年の男は思わず一歩退いていた。




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―― ...2010.07.18
ありがとうございました。ブラウザを閉じてお戻りください。
ごめんなさい暑くて死にそうなのは私です。
ケリーなら自分で体感温度調節出来そうな気もする。
そして黒装束も私です。
半袖のTシャツが見事に黒だらけで笑える。
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