息が――止まるかと思った。
「ギンっ!?」
山神の森。封印された鳥居の前で、石段に腰を下ろして俯いている少年を目にしたとき、竹川蛍は本当に息の根が止まるような思いを味わった。
蛍の突然の大声に驚いて顔をあげた少年は、あの人にはまるで似ていなかったけれど。
「あ……ごめんなさい、人違い……」
ごまかすように笑った蛍に軽く会釈を返し、少年はまた視線を落とす。夏休みの時期だから私服だが、高校生くらいだろうか。文庫本を手にしていた。
たしかにここは本を読むには良い環境だろう。折り重なる木々の合間を吹きぬける風はさわやかだし、滅多に人は近寄らない。
俯いたときの背の角度がやっぱり少しあの人に似ていて、蛍は額に手をやった。
木漏れ日がちらちらと目蓋の奥で踊っている。光と影の明滅に眩暈がする。
ひらりひらりとひるがえるひかり。
あの頃――石段に腰かけたあの人がこちらに気付く瞬間が、蛍はとても好きだった。
笑ってくれたと気配で分かる。
踊りまわる木漏れ日が狐の面まで笑って見せて、それでもやっぱり笑顔が見たくて、面をとってと何度もせがんだ。
ひらりひらりとひるがえるひかり。
まぶしい――。
「あの、何か御用ですか?」
訝しげな声に我に返れば、少年はわずかに眉を顰めて蛍を見ていた。不審というほどではないが、怪訝そうではある。
いい年をした女が高校生の男の子を眺めてぼんやりしていれば、それはもう怪しさ満点というものだろう。
「ああああの! そう、お願いがあるの!」
慌てた蛍は慌てて弁解を試みた。
「これを奥のお社に置いてきたいのだけど、付き合ってくれないかしら――って、イキナリそれも怪しいわよね」
手にした紙袋を掲げて見せて、あまりの胡散くささに肩を落とす。
立ちあがりかけた少年を押し止めるように石段を上がれば、パンプスのかかとがあの頃とは違う音を立てた。
「――話、聞いてくれる?」
信じてくれなくていい。忘れてしまってもいいから、“人間”にあの人の話をしてみたかった。
見知らぬ相手からの唐突な申し出だ。逃げ出してもおかしくはないのに、はい、と答えて少年は座り直す。
「え、いいの?」
意表を突かれて蛍は瞬いた。
「だって、聞いて欲しいんでしょう?」
少年が促すように首を傾げたので、蛍は笑ってありがとうと告げる。
隣に腰を下ろして、紙袋から面を取り出した。狐にしては目の丸い、猿公に似たそれをそっと撫でる。
「私が初めて彼に会ったのは――」
もうずいぶんと遠い昔。
夏の間だけの秘密の友達はいつしか好きな人になって、触れる事の出来ない恋はそれでもとても楽しかった。
楽しくて、愛しくて、哀しかった。
蛍は目を細め、面を見つめてあの夏を想う。
俯いた肩からは長く伸びた髪がこぼれて、膝に乗せた面にかかっていた。鳥居も森も夏の日差しも何も変わっていないけれど、桃色に染めた爪や長い髪が時の経過を教えていた。
数えてみれば、あの人と過ごした夏よりも、失ってからの夏の方がもう多い。
最後の夏の出来事も、この腕の中で溶けて消えたぬくもりも、鮮明に覚えているけれど。
「だから、触れたのはそれが最初で最後」
ぽつりと、呟くように言って口を閉ざす。
本当は少し嬉しかったのだ――と、蛍は目を閉じてそう思った。
あの夏はどちらにしろ最後だと、分かっていたから。
抱きしめて自分だけのものにしてしまえた事が、本当は少しだけ嬉しかった。
――だけど。
二度と会えないことよりも、もうどこにも居ないことの方が何十倍も哀しくて。
夏が来るたび、幾度も泣いた。
その頃の想いだって昨日の事のように覚えているのに、最後に泣いたのがいつだったかは分からなくなってしまっている。
胸の痛みもゆっくりと薄れて、あとはもう、甘く切ない懐かしさばかり。
「私ね、今度結婚するの」
顔を上げて少年に笑いかけ、狐の面を掲げてみせた。
「ギンの事は絶対一生忘れないけど、これは返しておこうと思って」
触れれば痛んだ柔らかな想いは、小さな硬い結晶になって、この胸の内にあるから。
だからもう、あのぬくもりの記憶だけでいい。
「さ、じゃあ付き合って!」
ガシッとシャツの裾を握ってそのまま立ち上がれば、捲れ上がるシャツにつられて少年も立ち上がった。
「わ、あの、ちょっと……」
慌てた風の少年の声は無視して、封印された鳥居の脇をすり抜ける。
境内は風の温度が違った。じゃりじゃりと喚く蝉の声が遠くなる。
ひやりとまとわりつく風が夏の森特有の様々な匂いを満たし、じっとりと蛍を取り囲んだ。
木々の落とす濃い色の影が招くようにさわさわと蠢き、参道に猥雑な模様を描く。
左右から差し交わす枝が空を塞いで、木立の向こう側にきらきらと陽射しが踊っていた。
真白い光の差し込む杜に、今も彼らはいるだろうか――ギンを愛したあのモノ達は、今の自分を許してくれるだろうか。
小走りになっていた足を社の前で止め、蛍は息を整えて中空を睨む。
「私、結婚することにしたから! これ返すわ!」
叩きつけるような言葉とは裏腹に、面を置く手は震えていた。
その時――ざ、と風が吹きつけた。形さえ具えたような突風だ。
よろめいて後ずさり、空いた片手で髪を押さえて目を細めたその隙に、面が忽然と消え失せている。
息を呑んだ直後――森が、ざらりと鳴った。
おめでとう
……おめでとう
ギンもきっと喜ぶ……
幸せになぁ……
幾重にも重なった葉擦れの音がそんな言葉に聞こえたけれど、定かではない。
むかし蛍を脅かしたあのモノも、愛しげにギンを見ていたあのモノも、何も。
姿は見えない。
ただ優しい気配だけが伝わって来て、蛍は目を閉じて空を仰いだ。
木漏れ日がちらちらと目蓋の奥で踊っている。光と影の明滅に眩暈がする。だから――おめでとう、と耳元に囁いていったナニかの声は、もしかしたら幻なのかもしれない。
ひらりひらりとひるがえるひかり。
木漏れ日のような温もりに、目尻から一粒だけ涙がこぼれる。
震える息を吐き出して俯くと、シャツを握っていた手が柔らかく引き剥がされて、そのままそっと指先を引かれた。
目を開ければ、少年は後ろ手に手を引いて鳥居の方へと歩き出している。
「……ごめんなさい。一人で行くのは怖かったの」
引かれるままに歩き出しながらぽつりと言うと、ふ、と笑ったような気配があった。
そんなときの肩の線がやっぱりちょっとあの人に似ていて、蛍はそっと微笑んだ。
「ありがとう……」
少年と、ギンと、七つ森に住まうすべてのモノに心からの感謝を告げて、蛍は一度だけ振り返る。
夏の最中の山神の森は、光の白と陰の黒とに染め分けられて、ただ深々と静まっていた。
―― Fin...2008.07.24