冬に惑う
Written by Shia Akino
 その山には静寂が満ちていた。
 常緑樹の暗い緑は雪に覆われ、葉を落とした枝は白く凍り付いて、僅かな動きも見せようとしない。雪を踏む人の足音ですら、なにかに阻まれたように遠く響いた。
「吽でも巣食ってんのかね……」
 白い息を吐いて山道を行く男が呟く。雪に紛れる白髪、翠の隻眼――ギンコはちょっと足を止めて梢ごしに空を見上げた。
 山裾の里には春の兆しも見えていたが、山中は厳冬の装いだ。雲のない空は梢の先に薄青の色を見せてはいたが、日の光に温度がない。
 襟巻きを巻き直し、背に負った木箱を揺すり上げて、ギンコは黙々と歩を進める。
 天候には恵まれたものの、西に連なる山々のせいでこの辺りは日暮れが早い。夜闇の降りる前に落ち着ける場所を見つけるべきだった。夜目は利くが、火を焚かないとさすがに寒い。
 ふと――氷のような陽光がぼやけて見えて、足を止めた。
 霧が出始めている。
 木々の合間を流れる靄は薄絹を重ねるように濃くなっていき、梢の先が白く霞む。足を速めて先を急いだが、気付けば質量さえ備えたようなこっくりと重い白に取り囲まれていた。
「まいったね、こりゃ」
 ぐるりを見渡してつい漏らす。
 “一寸先は闇”という言葉があるが、これはまさに白き闇だ。さすがに一寸という事はないものの、一間も先は全き白である。
 朧に滲んで見える影は木々の姿か、獣か蟲か――たゆたう白と薄墨色の濃淡は、傾いた日射しを乱反射してぼんやり金に光って見えた。
 濃霧の中を闇雲に歩き回るのは危険に過ぎる。
 木箱を下ろしてそれに腰掛けたギンコは、蟲煙草を取り出して火をつけた。煙と共に息を吐き、さてどうするか、と白い空を見上げる。
 咥えた煙草がほとんど灰になった頃、さくりと雪を踏む音が響いた。
 急速に霧が薄まって、どういう加減か頭上ばかりがぽかりと晴れる。
 夕闇の蒼さを映した空は三間ほどの円を描いて、その中心に、女が立っていた。
「まあ……あなたも迷ったの?」
 困った霧よねぇ、と頬に手をあてて溜息を吐く女――年のころは二十をいくつか過ぎたあたりか。気の強そうな顔立ちに、茫漠とした表情と口調が似つかわしくない。
「そりゃ困っちゃいるが……」
 無表情に答えながら、ギンコは女を観察した。意外なところで意外なモノに遭遇した時、無意識に観察する癖がついている。蟲師としての職業病だ。
 女は毛織の着物をまとっているだけで、綿入れもなければ雪沓も履いていなかった。里でなら普通の姿ともいえるろうが、冬山に登ろうという格好ではない。
「あんた、一体いつから迷ってるんだ?」
「――いつ? ……いつかしら。木の実を拾いに来たの。冬が来るから」
 ならばそれは秋だ。里ではもうすぐ春である。
 一冬を迷いっぱなしの女は、雲を踏むような足取りで歩んだ。音もなく霧が動く。
 女を中心に三間ほどは空気も澄んで、暮れかけた空もはっきり見えた。その先は相も変わらず白い闇に沈んで、僅かに木々の影が滲むばかりだ。
 深い霧と頭上にだけ広がる空――高所から見下ろせば、凝った白に穴の開いたように見えるだろう。
(円環状の霧……聞いた事あんな)
 新たに咥えた蟲煙草の吸い口を噛み、ギンコは眉を寄せた。
「フユマドイ、か――?」
 翠の隻眼に見据えられた女は、怯えるでもなく首を傾げた。



 冬惑い、と呼ばれる蟲がいる。
 霧をまとって厳冬の山々を巡り、光酒を呼ぶと言われている蟲――。
 冬にだけ現れるその蟲が三年続けて現れた一帯は、数年の内に光酒が流れ込んで光脈筋となるという。それが呼ぶのか先触れなのかは定かではないが、因果関係がある事は確からしい。
 その生態はほとんど不明だ。
 フユマドイは常に霧をまとう。風に吹き散らされる事のない、時には風上へも移動する円環状の深い霧――その中心に蟲がいる事は分かっても、調べる術がない故に生態どころが姿形すら分からないというのが現状だった。
 遠目には明らかに異質な霧でも、まかれてしまえば普通の霧と変わりないのだ。中心がどこかなぞ分かるわけもないし、まして厳冬期の山地の事――直接の害はないというが、方角を失って命を落とした者もあると聞く。
 人に憑いた例はなかったはずだが、相手は蟲だ。なにが起きても不思議はない。
 女と共に少し歩いて岩室を見つけたギンコは、木箱を下ろして火を熾した。急速に暮れていく空に星が凍てつき、周りを囲む霧をほのかな銀に光らせている。
「……暖めりゃいいってもんでもないらしいな」
 平気な顔で火に当たる女を見やって独りごちる。常雪蟲なら痛みに堪えて暖まれば治るのだが、事はそう単純でもないらしい。
 女は霧のように薄ぼんやりとして、呼び掛けに答えない事すらあった。蟲の影響を祓う薬を煎じて与えてみたものの、変な味、とこぼしただけで顔色も変えない。相当珍妙な味がするはずなのだが。
 パチ、と薪がはぜた。
 それが合図ででもあったように、女は突然歌を歌う。
 呟くようなそれは、恋歌だった。
 歌の終わりにまた薪がはぜ、火の粉を散らして炎が揺らめく。立ち昇る煙に蟲煙草の煙が混じり、晴れた夜空に吸い込まれて行った。
  「……あんた、寂しくはなかったか」
 たゆたう白。
 揺らぐ影。
 冬山に独り、霧の中――。
 白の闇に閉ざされた小さな世界が、女にとっては全てなのだ。
 女は答えず、火の粉を追って空を見上げた。



 朝が訪れても霧が晴れることはもちろんなかったが、丸く拓けた空は昨日よりは温かみのある青だった。
「今日はずいぶん暖かいのね」
 変わらずぼんやりとした口調で言って、女が丸い空を仰ぐ。
 霧の中から突き出した枝は白く凍って光っているが、昼には溶け出してきそうだった。
「――ん?」
 女の頬に、ぽつりと銀の光が浮いた。砂のようなそれは小さく震え、女から離れて空へと昇っていく。
 その日、女の肌にはぽつりぽつりと銀砂が浮いて、ふわりふわりと宙を舞った。
 一つを捕らえて拡大鏡で見てみれば、どうやら蟲だ。一般的な雪蟲よりもずっと小さく、水晶のような姿をしている。
「そうか……上空の冷たい空気の層で他の季節を過ごすのか」
 特に処置を施さなくても、春になれば自然に抜けるのだろう。
 銀砂の幾つかを嬉々として収集瓶に閉じ込め、ギンコは女を追う事に決めた。急ぐ旅でもないし、山の春は訪れてしまえば歩みは速い。里には春が兆していたから、厳冬を装う山中も十日もすれば春めいてくるはずだ。
 ふわふわと頼りない足取りながら、女の歩みに危な気はなかった。何処へ向かうというわけでもなく、ただふらふらと山を巡る。
 ともすれば連れの存在を忘れる女の後を、地図と磁石でおおよその位置を測りながらギンコは追った。稜線を当てに出来ない分、こまめに道のりを点検する。帳面にあれこれ書き付けて筆記具の尻で頭を掻いた。
「目的があるわけじゃないのか……」
 女は寒さを感じていないようで、それも蟲の影響だろう。
 それでも夜には火を熾し、呼べばその場に腰を下ろした。空腹も感じていないようだったが、食べ物を与えれば黙念と食べる。
 そんな風にして、十日余りを過ごした。
 春めいて暖かな日には女の周りを銀砂が舞う。
 周囲を取り巻く白い闇に、ぽかりと青く晴れた空。きらきらと煌めき、踊るように上下しながら昇って行く細かな光――天と地を結ぶ流れはこの世ならざる美しさで、どこか光酒の流れるさまにも似ていた。
 そうして蟲が減るごとに霧は少しずつ薄れていき、格段に見通しは良くなった。女はぼんやりしたままだったが、辿り着いた高台から里の様子を見下ろしている。
 遠く眼下で春霞に煙り、うらうらとまどろむような里のそこここに紅い色が散っていた。
 無彩色の濃淡に慣れた視界には、紅梅の色が目に痛いほど鮮やかに映える。
「……ねえ」
 小さな声がして、地図を広げていたギンコは顔を上げた。
「あんた……だれ」
 疑念を滲ませた声だった。最前までの茫漠としたものとは違い、はっきりとした響きを持っている。
「お、全部抜けたのか」
 ばさばさと地図を畳みながら上空を見やれば、最後の光が蒼穹にまぎれるところだった。
「俺は蟲師のギンコってんだが――なにも覚えてないのか?」
 訝しげな女の様子に首を傾げる。
 覚えていないのだとしたら、女の記憶は一冬がすっぽり抜け落ちている事になる。
「覚えてって……」
 右を見て、左を見て、梅の花咲く里を見下ろし――女は叫んだ。
「ちょっと待ってよ何よこれーっ!!」
 元気一杯だ。
「ちょ、ちょっとあんた笑ってないで説明しなさいよ! なになになんなの? なんで春なの!? あたし確か――」
「そいつぁ里に戻ってからだな。調査の礼に神隠しのカラクリくらいは説明してやる」
 言いながらギンコは蟲煙草に火をつけた。
「あんたも、男と逃げたって思われっぱなしじゃ困るだろう」
「――は?」
 宿を乞うた里でそんな話を聞いた。町から嫁いで来た妻は鄙びた里を嫌っていて、秋の終わりにとうとう姿を消した――と、気弱そうな夫が寂しげに笑っていた。
 自身にかけられた不名誉な嫌疑に、拳を握って女が唸る。
「……あぁあんっのボケ亭主〜っ!!」
 ぼんやりした表情よりも怒りにきらめく瞳の方が、気の強そうな顔立ちにはよく似合った。



 その日の内にギンコは女と山を下りた。
 小さな家の小さな土間で一心に縄をなっていた女の亭主は、戸口に立った妻の姿にぽかんと大きく口を開けた。
 要領よく纏めたギンコの話に、気弱そうな亭主は柔和な顔立ちを困惑に歪める。
「在り方の、異なる生命――? じゃあ、あの行商人は……」
 女と同時期に里を後にした外の者がいるという。
「偶然だとは考えなかったわけ?」
 地を這うような女の声。
「いやその……」
「あたしが! あんたを置いて出ていく訳がないでしょう!!」
 悲鳴のように叫んで、女は亭主の胸倉を掴み上げた。
「で、でも、町で暮らしたいって、ずっと」
「あんたがいなきゃ意味なんてないわよっ!」
 がくがくと夫を揺さぶって、女は声を張り上げる。涙声だし涙目だ。
 何事かと集まってきた近隣住民の間を抜けて、ギンコは戸口から外へ出た。咥え煙草をちょっと揺らして空を仰ぐ。
 高く遠く深いところで、何かがきらきら光った気がした。
「おまえらのせいなんだぜ?」
 背後では、わめく声やら宥める声やら事情を問う声やら、なんだか大騒ぎになっている。
「まあ、おかげ――とも言えるかね」
 人だかりの隙間から、しっかり抱き合った夫婦の姿が垣間見えた。
 田畑を覆う雪は陽に溶けて潤み、どこからか水の流れる音が響いている。
 靄を通しては目立たなかった白梅が雪の代わりに花弁を散らし、ほのかな香りを振り撒いて草木の目覚めを誘っていた。
 つたない鳥の啼き声が風となって、足元の水仙を揺らしている。
 春の盛りは、まだこれから。


―― Fin...2009.03.19
ありがとうございました。ブラウザを閉じてお戻りください。
 ストーカーギンコ(笑)
 雪山の景色を書きたいだけだったりしましたゴメンナサイ。(でも霧に負けた……)
 一間はだいたい二メートル弱。音を喰う蟲は本当は口偏に云うの《ウン》だけど、表示されなかったので代替漢字。
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