―― 幸福な祈り
Written by Shia Akino
 それは、七月の半ば――長引いた梅雨が終わって、本格的な夏の到来を感じさせるジリジリと暑い日だった。
 末息子の夫婦がこの町に居を構え、引越しの片付けも済んだからと招待を受けた。長男夫婦と暮らす町からは少々遠いが、行き来の難しい距離でもない。
 バス停まで迎えにいくからとの言に従って、日傘は開いたがその場を動かずにいた。蝉の声がうるさいほどに響いて、アスファルトには陽炎が立っている。
「夏目ぇ〜!」
 背後からそんな声が聞こえて、高校生くらいの少年が二人、傍らを駆け抜けて行った。
 呼びかけに振り向いた少年の顔を目にして、息を飲む。
 あの子だ――と、思った。
 間違いなかった。教師時代の苦い思い出の中に棲む、あの哀しい目をした男の子だ。



 嘘つきだという噂は、彼が転校してきて割とすぐに立ったように記憶している。担任ではなかったが、問題児だということで注意するようにと教師全員に通達があった。
 生い立ちを聞けば、なるほど寂しかろうと思う。
 けれど、構って欲しくて嘘をついているのとは違う気がした。
 脅かして楽しんでいるようには見えなかったし、構って貰いたいのならあれでは逆効果だろう。子供は意外と狡猾なものだ。それが分からぬはずもない。
 そして私は、見てしまった。
 夕暮れ時、川沿いの道を歩いていた時のことだ。
「う……わっ」
 焦ったような声に目をやれば、見覚えのある小さな背中が草むらから身を起こすところだった。
「ちょ……やめろっ。――来るなってば!」
 何かから逃れるように身をよじり、払いのけるような仕草をして、つんのめるようにして駆けだして行く。
 私は土手の上にいたし、それなりに距離もあった。あの子は、私が見ていることなど気付いていなかったと断言できる。
 そして、あの子の不審な言動に目を留めたものなど、私以外には誰一人いなかった。
 誰も見ていないところで嘘をつく?
 ありえない。
 あの子には、見えていたのだ。寂しい子供が心の中で作り上げた、幻影が。
 それは秘密の友達のような優しいものではなく、なにか恐ろしいものの形を取ってしまったのだろう。暗がりに怯える子供の悪夢――それが彼には現実なのだ。
 その年大学に入った末の息子の、怖い夢を見たと言って泣きついてきた幼い頃に、あの子は少し似ている気がした。
 あの子は泣きはしなかったけれど、いつも探しているように見えた。
 抱きしめてくれる腕を。
 慰めてくれる人を。
 ――私はけれど、一介の教師に過ぎなかった。
 バランスを崩した子供の心は精神科の領分だろうと、幾度か保護者にかけあったけれど、外聞が悪いと突っぱねられて終わりだった。
 そこには何もいないのだと、怖い事などないのだと、分からせてあげたかったけれど駄目だった。
 ――たぶん、私は方法を間違えたのだ。
 頑なに俯くばかりになってしまったあの子は、それからしばらくして別の親戚に引き取られ、転校してしまった。
 十年近くも前の話だ。
 それでも時折思い出していた。どうしているだろうと。
 それが――。



「大丈夫ですか?」
 ふと我に返ると、すぐ目の前に心配そうなあの子の顔があった。
 大きくなった、とぼんやり考えて、改めてハッとする。
「あ、ええ。大丈夫よ、ごめんなさい。ちょっとぼぅっとしてしまって」
「今日は暑いですからね」
 優しく笑うその笑みに、強い既視感を覚える。
 あれも、そう――こんな風に暑い日だった。

 校庭の端の水場の脇で、ランドセルを引っ掻きまわしている彼を見かけた。
 見つけ出したハンカチにたっぷり水を含ませて駆け出すのを見て、誰か倒れでもしたのかと、慌てて後を追ったのだ。
 子供の足は早い。
 見失ってしまった私の耳に届いたのは、笑みを含んだ優しい声音だった。
「今日は暑いからなぁ」
 誰も見たことがないだろう優しい顔で、あの子が綺麗に微笑んで見せた相手は、ブロック塀にへばりついたカタツムリだった。
 干からびかけていたらしいそれに、彼はハンカチに含ませた水をかけ、慎重に塀から引き剥がして紫陽花の葉の上に置いた。
「気をつけろよ?」
 指先でちょいと葉を揺らして駆け去って行く後ろ姿を、物悲しい気分で見送ったのを覚えている。
 優しい子なのに、あんな顔も出来るのに、と。



「あの……本当に大丈夫ですか?」
「え? ええ、すぐに息子が迎えにくるから」
 それなら良かったと笑う顔は、あの時と何も変わらない。
 ああ――良かった、と思った。
 彼はもう、物言わぬ生き物相手でなくとも、こんな顔を見せる事が出来るのだ。
「そうだ、これ。さっきそこの福引で当たったんです。まだ開けてないので、よろしければどうぞ」
 差し出されたペットボトルのお茶を受け取り、ありがとう、と告げる。
 間違えてしまった私も、少しだけ許されたような気がしたから。
 優しいままで居てくれたこの子に。
 笑えるようにしてくれた誰かに。
「本当に、ありがとう。……どうか、貴方に幸多からん事を」
 彼はちょっと驚いたように瞬き、また柔らかく笑んだ。
「ありがとうございます。――貴女も」
 軽く頭を下げて、友人らしい二人の元へ駆けて行く背中を見送る。
 どうかあなたのこれからに、たくさんの幸せが訪れますよう――。
 幸福な気分で、そう祈った。

―― Fin...2007.11.05
ありがとうございました。ブラウザを閉じてお戻りください。
 夏目子供時代に関わった人間すべてが、気味悪いとだけ思ってた訳ではないですきっと。
 心配していた人もいただろうし、保護者の中にも懐かない夏目に苛立っていただけの人もいたのではなかろうかと。
 勘違いはしたままで、理解は出来ないかもしれないけど、それでも想ってない訳ではない、という話のつもり。
 あの独特の雰囲気をぶち壊してそうで怖いのだが、再読した勢いでつい……。

  元拍手おまけSS↓

「ごめん、ちょっと先行ってて」
 突然そう言って駆け戻って行った夏目貴志の友人二人は、顔を見合わせてちょっと笑った。
「夏目ってさぁ、変わってるよな」
「ああ」
「そして行動が唐突だ」
「だな」
 その変わった友人は、バス停のそばに立つ日傘の女性になにやら話かけている。白い日傘が目に鮮やかな、上品そうな初老のご婦人だ。
 戻ってきた夏目に知り合いだったのかと聞けば、いや、と否定が返った。
「様子が変だったから、具合でも悪いのかと思って」
「大丈夫なのか?」
「うん、すぐ息子さんが来るんだってさ――ああ、来たみたいだ」
 自転車を漕いで来た小太りの男と二言三言言葉を交わし、老婦人はもう一度こちらを見て、背筋を伸ばしたまま丁寧に礼をした。
「綺麗な所作だなぁ」
 感嘆の口調で夏目が言うのに、友人達は苦笑する。
「所作っておまえ……」
「あんまり使わないぞ、普通。……どうかしたのか?」
 歩み去る二人の背中を目で追いながら、夏目が怪訝な顔で首を捻っていた。
「うん……なんか、会ったことある……かも?」
「なんだ、やっぱり知り合いか?」
「いや……うーん……ずいぶん前に同じ事を思った記憶があるようなないような……」
 唸る夏目の耳に、すぐ脇の石塀の上から物騒な声が響いた。
「思い出させてやろう」
 ゴスッ
「――――っ!!」
「おお、ブサイク猫」
「やるなぁ」
 頭でっかちの招き猫に頭突きをくらわされた夏目は、しゃがみ込んで頭を抱え唸っていたかと思うと、
「――っのぉ!」
 ガバッと身体を起こし、叫んだ。
「記憶喪失になったらどうしてくれるんだーっ!!」
 こらまて、と飼い猫を追いまわし始めた夏目を放って歩き出しながら、友人二人は顔を見合わせてやっぱりちょっと笑った。
「やっぱ夏目って変わってるよなー」
「だな」
「おもしれぇ」
「ああ」
 そんな平和な夏の日の午後。
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