―― 天(そら)の川、時の流れ
みちのくの小京都、角館――町並みは夏の熱気ごと雨に洗われ、くっきりとした景色に涼やかな風が吹いていた。
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イベントで訪れたこの町で、ヒカルはついでとばかりに個人宅の指導碁を依頼された。他の面々は東京に戻り、一人でもう一泊することになっている。 指導碁を打ちながら雨の音を聞き、ホテルまで送りますという申し出を断って、夕立の上がったばかりの道を歩くことにした。観光がしたいわけではないけど、小京都と呼ばれる町並みは素直に美しいと思うから。 殊更にゆっくりと歩くのは、体が利かないからではない。事故の後遺症は残らなかった。――身体的には。 復帰してもう結構経つけれど、目に映る景色や耳を打つ物音に、ふいに胸は痛くなる。――未だに。 のしかかるような重い雲がゆっくりと流れ、西の空が明るんでくる。西から朝が来るようだと、ヒカルは少しおかしくなった。 東京に比べると、ここは格段に緑が多い。夏の最中に特有の、燃えるような鮮やかな木々が梢を揺らして、さらさらと涼しげな音を立てた。通り過ぎていった雨はそこかしこに水たまりを残していて、葉から滴る水滴がぽつぽつと波紋を描いている。 ふと、何かが目についてヒカルは足を止めた。何が気になったのか自分でも分からなくて、雨に濡れた通りを見渡す。 軒を連ねる店々は、小京都の名に相応しく静かな佇まいを見せている。 少し先の小さな店の、ショーウィンドウに螺鈿の碁盤。 既視感に襲われて、ヒカルは背後を振り返った。あの時は夜で、真白い光が視界を染めた。 いまはただ、穏やかな雨上がりの景色が広がっている。 あの時の――そしてその後幾度となく打った、佐為の碁盤だ。 …………たぶん。 車は真っ直ぐ店へと突っ込んできたように見えたから、壊れてしまったのだろうとヒカルは無意識に思い込んでいた。もしかしたら別物かもしれないと思いながら、けれど心の奥底で間違いないと確信している。 ふらふらと、引き寄せられるようにしてガラスに手をついた。どこをどう巡ってこんなところに収まっているのか。小京都とは言われるが、ここは京都ではないのに。 「いらっしゃ……進藤先生!?」 店に一歩を踏み入れた途端、素っ頓狂に跳ね上がった店主の声にヒカルは苦笑した。 「ああ。打つんだ、碁」 「ええまあ、遊びですけどね。いやぁ、ファンなんですよ。ご活躍は常々。先だっての棋聖戦は残念でしたねぇ。でもお見事でした」 放っておくといつまでも続きそうな店主のお喋りを遮り、あれを見せて、とショーウィンドウを指す。やっぱり碁打ちですねぇ、と笑いながら、店主はよいしょと声をかけて螺鈿の碁盤を降ろした。 黒漆の地に、虹色に輝く鳳凰の図柄。 「これ、いつ頃の?」 「平安時代ですわ」 「本当に? レプリカとかじゃなく?」 「はは。まあ、詳しいことは分からんのですがね。どこだかのお屋敷から出てきたとか。平安の頃によく使われた型ではありますが」 なんにせよ古いことは確かです、と言う店主に生返事を返して、ヒカルは盤面の十九路に指を這わせた。 ――あの時は触れることが出来なかったから、同じ感触かどうかは分からない。 「まあ、レプリカかもしれませんが、モノは良いですよ。個人的に気に入ってもいるんですわ」 「……なんで?」 店主はにやりと笑みを浮かべ、碁盤に手をかけて慎重に裏返した。 裏には、星空が広がっていた。 虹色の小さな光の粒が、黒漆の艶やかな闇に散りばめられている。 「天の川ですわ。どうもこれは後から付け加えたものらしくて。それでよけい年代が分からなくなってるんですが」 「そんなこと出来るんだ?」 「螺鈿っちゅうのは、綺麗な貝の裏側なんかを漆に塗り込めて、余分な漆を磨き落として作るんですね。重ね塗りも出来なくはない」 へぇ、と返して改めて目をやる。碁盤の裏側を目にすることなどそうそうないから、あの時もこれがあったのかどうかは分からない。 「天の川、好きなんだ?」 千年も前の夜空は、今と違って天の川もくっきりと見えていた。仄かに輝く帯のような光を思い出してヒカルが言うと、店主はえ、と驚いたような声を上げた。 「ああ、いえいえ。ここ――わかります?」 十九路と同じ大きさの宇宙の隅に、文字が彫りつけてあるのが見て取れた。黒漆の凹凸はほんのわずかで、そうと分かって見るのでなければ気付かなかったかもしれない。 店主は笑みを含んだ声で、ゆっくりとその歌を詠みあげた。意外に綺麗に響く声が、埃っぽい店の空気に揺らいで消える。 「光り輝く時は遠く離れてしまったけれど、私はまだ打っている。時の川の流れを越えて、いつかまた共に打とう――と、そういう歌ですね。七夕になぞらえてあるんですわ」 店主の声を聞いているのかいないのか、ヒカルは呆然とその歌に見入っている。 「遠くへいっちまった碁敵に宛てた歌でしょう。私はこれが好きでねぇ。“碁敵は 憎さも憎し 懐かしし”と言いますからね」 どこかしみじみとそう言って、店主は小さく笑みを浮かべた。彼にもきっと、遠くへいってしまった碁敵がいるのだろう。 ヒカルは、ミミズがのたくったようにしか見えない文字の連なりの、辛うじて自分にも読みとれるその部分に目を奪われていた。 “光り輝く時”などと、難しく解釈する必要はない。これは名前だ――ヒカルの。 彫り込まれた“ヒカル”が片仮名である理由など、店主は知らないのだから仕方ないけれど。 ねえ、ヒカル――と、佐為が笑ったような気がした。 共に過ごした日々は、遠くなってしまったけれど。今は離れて逢えずにいるけど。 天(そら)の川を渡り、時の流れを越える術を、私達は持っているから。 打って、打って、打ち続けて。『神の一手』へと繋がる橋の上で、また逢おうと。 ――……また、打とうと。 「っ…………はっ! あははっ」 唐突に笑い出したヒカルに、店主はぎょっとしたように足を引いた。 「イヤ、この歌詠んだヤツ、好きなのな、碁。すげぇ好きなのな」 けたけたと笑いながら言うヒカルに、はあまあそうですね――と引きつりながら店主が応える。 「あーもー涙出ちゃった」 袖口で乱暴に目元を拭い、ヒカルは掌に顔を埋めた。笑いの発作が治まらないのか、時折肩が震えている。そんなに大笑いするような代物だろうかと、店主はヒカルの不可解な反応に首をひねった。 しばらくそのまま顔を覆っていたヒカルは、はあ、と大きく息をついて手を下ろした。黒漆の夜空に流れる虹色の川をしばし眺め、これ貰うよ、と噛み締めるようにそっと言う。 「あ、でも高い? もしかしてすげぇ高い?」 慌てたように声を高くして言い募るのに、店主は困惑げに頭を掻いた。 「はあまあ……古いことは古いし、モノは良いからそれなりに。ただこの歌がね。私は好きなんだけど、どうも素人が彫りつけたらしくて……」 難しい顔で首をひねり、店主はふう、と息を吐いた。 「そうですねぇ……プロの手元にあった方がコイツも幸せでしょうし。他ならぬ進藤先生のためだ、サインくれたら勉強しますよ」 「ホント!? サンキュー! ……って、いや。助かります、ありがとう」 今更ながら年上に対する敬意を取り繕うヒカルに、店主は一瞬目を丸くしてから大笑した。 家まで届けてくれるように手配して店を出ると、外は綺麗に晴れていた。東の彼方に黒っぽい雲がわだかまっていたけれど、西に傾いた日が辺りを明るく照らしていた。 濡れた木々も屋根も道も、何もかもがきらきらと光って見える。水気を含んだ空気までもが、うっすらと光っているようだった。 ヒカルは深く息を吸い、大きく吐き出して目を閉じた。笑いが込み上げてきて仕方がない。 無性に塔矢に会いたかった。 碁盤が届いたら家に呼んで、見せてやろうと思った。 あの事故を思い出して嫌な顔をするかもしれないが、この歌を見ればきっと笑うだろう。 ――そうしたら、今度こそ、佐為のことを話せるかもしれない。 いやに明るい空を見上げて、ヒカルはそんな事を思った。 ―― Fin...2005.05.26
読み応えのある長編を最後まで一気に読み進み、勢い余って書いた話。
佐為の出生に関する裏設定話なんて、秀逸でもう言葉もありません。 大変に楽しませていただきました。月城茜サマ、ありがとうございました。 おまけがあります。↓
おまけ。
「だからぁ、素直に詠めば良いんだって、素直に」 「この上なく素直に詠んでるじゃないか。解釈に迷うほど複雑な歌じゃないぞ」 「バッカだなぁ! なんだって“輝ける時”なんて出て来るんだよ。そんなこと書いてないだろ!?」 「馬鹿なのは君だ! ライバルと打ち合っていた時は、という意味だろう。そのくらいの喩えも分からないのか!?」 「そりゃまあ……それだって間違ってないけど! でもそのまま詠めば良いんだって!」 「だからそのまま詠んでいる!」 もったいぶって何の説明もせず、碁盤だけを見せたあげくに、こんな言い争いがあったとかなかったとか。 文章、画像の無断転載、転用、複写禁止
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