―― 寂光
[無題の書庫]ミナコさまの作品です。
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「どうか、お戻りください」

 抑揚に乏しい彼の声が、平時より一層抑えこんだように冷たく響いた。彼女の耳にはその声が、恐ろしいほど暗い何かのように思える。それを拒絶したくて、幼子がそうするように、彼女は貌を伏せたままで頭を振った。

 青年の言葉が冷たいのは、もしかすると季節のせいかもしれなかった。

 秋の乾いた涼気もとうに過ぎ去って、既に広がる園林のそこかしこに忍び寄る冬の足音さえ聞こえそうだ。風は冷気を含んで重く、そして鋭く冷たい――その麒麟の声色のように。だからかもしれない。そうでなければ、この青年がこれほど怜悧な語調で女に語りかけよう筈が無い――何故なら、彼らは互いに掛替えの無い半身同士の筈なのだから。

 広く果ての無い初冬の雲海は、薄い空の色とは裏腹に、くすんだ藍色を呈していた。その潮の真下には分厚い雲が這い広がって下界を覆い隠している。その波間に点在する諸島、それらは渡り橋で数珠のように繋がれて、各々の島に巨大な宮殿が佇んでいた。それらを総じて金波宮、点在する島は堯天山が雲を貫いて貌を出した、頂である。

 その広大な敷地の一郭にある、やはり広大で豪奢な園林だった。冬枯れ無い木々が針葉を蒼穹に伸ばし、寒風に負けじと枝葉もまた空を見上げているようだ。その合間を駈け抜ける冬場の寒気が、その場に佇む青年の金髪を激しく散らした。青年はけれど、それに一向に頓着しない様子で、呆然と目前に蹲る背中を凝視している。

 蹲った者は女だった。その身を包む豪奢な襦裙の裾には園林の土がこびり付いて居たけれど、それを女も青年も、気に止めた様子は見られなかった。普段ならそれを見かねた女官でも駆けつけてこようものだが、そもそも人払いされた燕朝に響く足音は最小限、閑散としたその園林にさえ、彼らを慮る府吏の影すら無い。



「主上、どうか。」

 青年が幾度も根気強くそう声掛けて、漸く彼の主はその眼差しをこちらに向けた。どこか茫洋とした瞳が彼を見据えた。物憂げな彼女の表情に急かされて、彼は用件を出来る限り手短に告げた。

「建州北部の党城が、積雪で倒壊したそうです。内殿へお戻り下さい」

 治水を行うにも、法令を発布するにも王の存在は欠かせない。罹災した民を救出する為、そして崩れた城壁を建て直すには、主の裁可は不可欠なのだ――彼女無しで、事態の収拾は図れない。

「地官が主上を待ちかねております――主上」

 再度促す。ところが、戻るように、と彼がそう訴えた言葉には、是と応じる声はなかった。かわりに女は、折角振り返った首をもとの方向に戻してしまう。こうなっては、彼からは主の表情を窺い知れない。景麒は静かに息を落とす。――このままではよくないと、彼の胸中で警鐘が鳴った。

 王が居ない、と官に訴えられ、内殿から姿を隠した主を追ってきてみれば、園林の整えられた木々の合間に子供のように坐りこんでいる彼女が居た。また政務を放擲したのかと、溜息をついて傍に駆け寄ったが、案の定、火急の裁可を要する奏上を教えても、彼女は至って無関心な態度である。頑としてその場を動こうとする意志が見えない。

 主が執務を時たま放棄するようになって、一体どれほど経つだろうか。事有るごとに正殿を逃げ出しては、宮殿内の何処かに身を潜めてしまうようになっていた。主の居所が判るのは彼しかいないので、困惑した官はその度に、血相を変えて仁重殿に駈け込んで来て、そうして彼は主を見つける度に請うて戻るよう促す――今日のように。最近はそれが日常茶飯事になりつつある。

――いったい、どうしたと言うのだろう。

 彼は呆然と、主の背中を眺めた。蹲る女の背は小さかった。もともとが大柄な人物ではないが、だからといって彼女の背中は、これほど小さく儚げだったろうか、とふと思う。それとも蹲っているから、普段よりも頼りなげに見えるだけだろうか。

 主が執務を厭い始めた、そのきっかけは景麒も知らない。最近は特に職務に忙殺されて、満足に主と会話する機会さえも損なわれるほどなのだ。あまりに困難で煩雑な政務に嫌気が差したのだろうか、と思うときも在るが、彼女の内気だが几帳面で律儀な気性を思えば、面倒臭いからという理由で国政を放棄するなど、在り得ないようにも思える。だからきっと、理由は他にあるのだろう――それが何なのかは、見当もつかないけれど。

 景麒は軽く目を伏せた。なぜこのような憂うべき事態に陥っているのか、彼にはとんと理解できない。

 様々な官が彼女の事を、玉座を侮る無能な王だ、と言っては、こうした軽々しい所業を責め立てたが、舒覚は決して、一般的に言う『無能』などではなかった。登極したからと言って奢侈に耽溺する事もなく、横暴を厭って、その気性どおり、概ね穏やかな治世を目指していた。事実、だからこそ酷法が断行される事も無く、民の生活にも無理な改革が強いられない。彼の選定は決して間違いでは無い筈だ。その筈なのに。

 薄縹の空を見上げた。幾度となく迎えてきた例年の空と、今頭上に広がる色味は何ら変わらないように思える。

 彼にとって信じ難いことに、慶の運気の歯車は既に狂い始めているようだった。景麒はそれを刺されるような焦燥感とともに受け止めている。今回の建州の件だけではない。国府からあがって来る書状はどれもが下界の困苦を語っている。実際、今夏の旱魃で干上がった大地は、この秋、実りを産み落とす事が出来なかった。先だっては乾いた土壌を大量の豪雨が押し流し、大河の堤が幾箇所も決壊して複数の廬が呑まれている。

 そして、と彼は縮こまる背中を眺める。不安定に揺らぐ天運の狭間に紛れるようにして、最近、主の気配に些細な変化が起こっていた。それは実にさり気無い変化のように思えたが、気のせいだと見過ごすにはあまりに顕著だった。そう、強いて言えば、無気力、と形容できようか。

 何をしようという気概さえ既に失われたのか、昨今の彼女は、余りに下界の事に無頓着になっているように見えた。何をするわけでもなく、ただ全てに対して消極的になり、国政を悉く放置している。そしてその事が、天からの信義を失いつつある――そのように、彼は思う。それが数ヶ月前の旱魃であり、豪雨であり、今回の異常な寒波なのではないだろうか。

 それが天の決済の一つなのだと断言する事は彼には出来ない。事実、諸官諸侯が訴える事項の中に、妖魔が現れたなどという文章は見なかったのだ。なのでそれは、単なる仮説でしかなかったけれども、それでも、その仮説が間違っていないとするなら、確実に荒廃は足音を忍ばせて、彼らのすぐ傍まで近寄りつつあるのでは。

 主がいっそ暴君に転じてくれれば、すんなりと納得できるのに、と思う時があった。民を殺し、その骸の山を笑って数えるような暴挙に耽ってくれれば、或いは国庫を蕩尽するほど奢侈に溺れてくれれば、昨今の乱れた天運についても得心がいくだろうし、例えその結果王朝が瓦解する事になっても、彼自身の中で何かを諦める事が出来るだろう。周囲が目を背けるほどに道理を失い、民からも官からも信を失って見放されるなら、天が彼女を見限る道理も理解できるだろうけれど。

――今の彼女は、少なくとも非道ではない。

 王は相変わらず内気で、控え目で慎ましく、思慮深かった。それは登極して五年を経た今に至るまで、寸分違わない。ならば、こんな中途半端で天に見捨てられるなどあってはならない。

 景麒は拳を握る。非道でないのなら、彼女は民を救う事が出来る筈だと、彼は信じていた。彼女は唯一無二の彼の主で、慶の国主である。彼女以外に景王は在り得ないし、彼女以上に玉座が似合う者もまた、いない。

「…主上、民を救い得る事が出来るのは、貴女しかいらっしゃらないのですよ。民の困窮を御判りください」

「…貴女はそればかりね」

 顔を背けられたまま、それでも漸く応じた主の返事は冷たい。こんな時はいつも、どうやって主に言葉を投げれば良いのか、分からなくなる。あまりに儚げで頼りないその背中に、一体どんな言葉が届くのだろう。登極当初のような、不器用であってもひたむきに目前の問題に挑もうとした、あの頃の主をどうすれば取り戻せるのだろうか。

 彼女は彼にとって突出して特別な存在で、同時に国にとっても民にとっても掛替えない――それを上手く伝えたいけれど、彼女がいかに稀有な者なのか、彼はそれを言葉に出来なかった。そもそも彼にとって彼女が特別であるのは、彼が麒麟であることと同じくらい当然のことで、それを言葉にしようとしても、相応しい単語を彼は知らない。

「――主上…」

「私は、主上なんて名前じゃない!!」

 女は立ち上がり、そして彼を睨み据えて唐突に叫んだ。悲鳴にも似た突然のその声に気圧されて、彼は半歩退きそうになる足を気力で留める。

――しまった。

 主の機嫌を損ねるような一言を、また言ってしまったらしい。それが彼にはなんだったのか分からなかったが、少なくとも彼の一言で彼女が傷付いた、それは確かだった。尚も怒りを彼にぶつける女に、それを詫びようと顔を上げ――彼は愕然とした。

 改めて対峙した主の、その顔色。午下に降り注ぐ陽脚は冬と言えども明るく、それが彼女の顔色の悪さを際立たせた。こけた頬の陰影、窪んだ目許の暗色、やつれた肌。普段物静かな彼女に怒鳴られている事よりも、彼が気付かぬ間に主が激しく消耗しているその事実に、寧ろ衝撃を受けた。主がこれほどまでに疲弊しているのは尋常ではない。彼は息を呑んだ。

――彼女もまた、苦しんでいる。

 この憔悴の仕方は何だろう。いつの間に彼女はこんな風貌になってしまったのか。まるで寝食さえ許されずに追いまわされたような、切迫した顔色。激しい何かが、彼女を追い込んでいるのだ。彼が州務に没頭し、責務に忙殺されて主から目を離してしまった隙に、彼女もまた別個の何かと闘っている。――何故、今まで主のこの疲弊に気付かなかった。

「しゅ…」

「――やめて!」

 再度女が絶叫する。景麒は再びびくりと立ち竦んだ。彼が差し出そうとした掌を拒絶するように、彼女は耳を塞ぎ、頭を振った。

「二度と私を主上なんて呼ばないで!一体、私は何なの。私は主上なんて生き物じゃない、私は……」

 女の言葉の最後は嗚咽で濁り、明瞭に聞き取れなかった。そのまま泣き崩れた彼女は、地面に膝を突き、その儚い両掌で顔を覆う。しっとりと潤った、美しく結い上げられた髪が僅かに解れて肩を流れた。彼はその足元に突っ伏した主に対して、跪く事さえも忘れて、伏せる主を呆然と見下ろした。ただただその流れる髪が、美しい、と思った。それは彼の目には、河のように見えた。河のせせらぎを思わせる流水そのものだ。それが主の頭から、金銀の簪釵と伴に彩って流れ、足元に落ちて散る。その美しさは、登極当初となんら変わらない。

――そうだ。何一つ、変わられてなどいない。

「主上は、主上です…」

 それ以外に在り得ない。彼は答えて、跪いた。極力穏やかに、そして脅えさせぬようゆっくりと、語りかける。これほど稚い存在の彼女は、ふとした衝撃で割れてしまう波璃で出来た小さな置物のようだ。

「…貴女は、天帝にさえ認められた類無き者。何も迷われる事は無いのですよ。貴女ほどの御方は、この世に居よう筈もないのです。」

 違う、と貌を覆ったまま女が頭を振った。それに景麒は眉を顰める。何が違うと言うのか、と訊ねたかったけれども、蹲って震えるその肩が余りに小さく哀れで、それをする事は躊躇われた。なので、代わりに一つ、大きく息を吸う。初冬の繊細な寒さがその喉を通り過ぎた。それを押し戻すように吐き出すと、吐息は寒風にさらされて白濁する。冬を迎えたこの国は、北方の国ではないにしろ、やはり寒風吹き荒ぶこの場所はあまりに寒すぎた。

――ともかくも、こんな場所にずっと主を居させるわけにはいかない。

「御風邪を召しますよ……寒いですから」

 そう言って、言外にここを離れよう、と次げる。こんな吹き曝しの場所にずっと居て、身体に良くないわけが無い。彼女が幾重にも纏った襦裙は、その身を守るように豪華で、傍目にも暖かそうだったけれど、それでさえ、この寒さをどれだけ防ぎきれるか知れないのだ。ならば、主をこんな場所に放置しておく事など、彼には出来ない。

 どうか、と重ねて声掛けると、漸く納得したのだろうか、彼女が貌を上げた。泣き腫らしたその目元が何かに驚いたように瞠目して――そしてくしゃりと笑む。その目尻から流れ落ちた珠のような雫が、酷く切なく見えた。

 ほんの僅かに瞠目する彼を尻目に、彼女はようよう立ち上がる。その裾に付着した泥を小さく払い、その袖で涙を拭った。拭われた涙がその裾布に滲んで消えるそのさまに、ふと彼は、勿体無さを感じた。景麒は殆ど、涙を知らない。民を慮れば辛く、国府から上がってくる痛々しい書状の内容に目を通せば、そのたびに胸を槍で貫かれるような痛みを思うが、どうすれば涙が零れるのか、それを彼は知らなかった。その稀有な雫を頓着無く拭い去ってしまえる主を、少し羨ましいと思った。

「…戻ります」

 気丈な言葉が在る。振り仰ぐと、憔悴の隠せない貌に、それでも凛とした表情が浮んでいた。

「――それが、あなたの望みなのでしょう?景麒」

「…私の望みは、主上の治世の繁栄でございます」

 景麒は即答して、頷いた。彼にとってそれは至極当然のことだった。

 彼女がずっと玉座に居て、自分はその傍らに控えて補佐する。なんの憂いもなく、なんの悼みも無い、それが彼にとっての理想郷なのだし、それを実現させる為だけに彼は生まれたのだと思っている。そして、それを実現出来るのは彼女しか居なかった。彼の思い描く理想の世界に、彼女の不在は想像出来ない。彼女のない自分は無意味でしかないし、自分を欠いた彼女がその理想郷を創造する事も出来ない。まさに半身、である。

「……そう」

 泣き腫らした目許もそのままに頷いた彼女は、微かに笑う。くるりと踵を返した。淀みない足取りに安堵しつつ、景麒は、彼女が園林を縦断する廻廊の方角に途絶えるまで見送る。彼は小さく息を吐きながら、なんとか彼女が、先日罹災した民を救ってくれる事を、その背に向かって願った。そして主の姿が見えなくなると、彼は思い出したように空を仰ぎ、身を翻して州府へ向かう。まだ雑事が残っていた。

 休む間などない。慶には救済を求める民の声がいまだに溢れているのだから。

―― Up...2004.06.07
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