―― 光風 コウフウ
Written by Shia Akino
 雁州国首都関弓――関弓山に抱かれる玄英宮掌客殿の一室に落ち着き、景麒は深々と溜息をついた。
 王命による極秘裏の弔問は、命を下された翌日には出発という恐ろしい迅速さでもって実行に移された。
 ほとんど叩き出されるようにして慶国を発ち、重い足を引きずるような気分で辿り付いてみれば、延麒六太は現在外遊中だという。
 雁国においてはさほど珍しいことでもないが、天官長太宰の言うには、夕刻には戻られる、とのことである。あの主従の気まぐれな外遊について、帰還の頃合を官が正確に把握出来るはずもない以上、つまりは王を探しに出たのだと景麒は思う。
 息苦しいような気がして、繊細な透かし彫りを施された木枠の窓を押し開けた。慶よりは幾分かひんやりとした風が、傍らをそっと通りすぎていく。
 早々に人払いをした室内はいやにからんと空虚で、そのくせひどく重苦しく胸を塞いだ。
 気のせいだろうとは思う。
 垣間見た玄英宮の様子は、いつもとそう変わりはなかった。さすがによくよく見れば、高官は一様に精彩を欠いているように見えないこともない。者によってはぎこちない硬さを見せてもいたが、それだけだった。

 ――何かの間違いだ、という気になってくる。
 間違いならば――どんなにいいか。

 何度目になるか分からない溜息を落とした時、唐突に扉が開いた。先触れも遣わせず、他国の宰輔が居る部屋に躊躇なく踏み込んできたのは、案の定小柄な麒麟だった。
 驚いて顔を上げた景麒と、延麒の視線が合った。
 そうしてその瞬間、景麒は分かってしまった。
 決して覆せない事実を、絶望的なまでに明確に、認識してしまった。
 ――もとより知っていた事ではあるのだけれど。
「……なんて顔してんだ、景麒」
 延麒はちょっと苦笑して、まあ座れ、と榻(ながいす)を指す。
「延台輔……」
 景麒の声は喉に絡んだ。いつものように笑ってみせる延麒の姿は、景麒には痛々しく見えてならなかった。
 それは同族であるからというより、半身を亡くした事のある麒麟だからこそ、分かる事かもしれなかった。
「今ちょっとバタバタしてるから、あんまり相手も出来ないんだけど――」
「延台輔!」
 早口に紡がれる台詞を、景麒は強い口調で遮る。延麒はぴたりと口をつぐんで、僅か逡巡したように視線を泳がせた。
「ああ……景麒に聞けば分かるのかな」
 少しだけ頼りない、小さな声。
「一人目の王を忘れるには、どうしたらいいんだ?」
 微かに笑って目を伏せる。あの馬鹿を忘れるなんて出来そうにないんだ――囁くようにそう言って。
 景麒は強く拳を握り、唇をかみしめて俯いた。
「忘れる……事など……」
 出来ません、と絞り出すように告げる。
 新しい主を選んでも。どれだけ時が経っても。――何故止められなかったのかと己を責め、どうして置いていったのかと相手を責めて、いつまでも――いつまでも、苦しい。
「あは……そっか。やっぱな」
 とってつけたように明るい延麒の声に顔を上げ、けれど結局何も言えずに視線を逸らした。
(……お恨み申し上げます、主上)
 かける言葉などあるはずがない。たったの六年余りを共に過ごした人ですら、思い起こせばこんなにも苦しいのに。
 居たたまれなくて、苦し紛れに窓へと視線を逃せば、そこは穏やかに春だった。
 傾いた日差しはわずかに色味を増して、昼日中よりも目に暖かい。蒼天は未だ青いまま、どこか遠くから微かに潮騒が耳に届いた。
 園林(ていえん)の木々の葉はまだ若く、浅い緑は光を浴びて細く金色に縁取られている。花の香りを含んだ空気が、窓の辺りで躊躇うように揺らいでいた。

 景麒にとっての一人目の王は、この春のような人だった。

 退位間際の底冷えのするような視線より、穏やかに笑んでいた記憶ばかりが印象に強い。
 穏やかな笑みと、柔らかな響きの優しい言葉。民が幸せであるように、と――そんな暖かい想いも、彼の人は確かに持っていたのだ。
 それは今思えば、いずれ冬に呑まれる小春日和のようなものだったのかもしれないけれど。

 懐かしく、慕わしく――苦しくて。
 景麒はそっと目を伏せた。

 そうして、どれほどの時間を無言のままに過ごしたのだろう。重く息苦しい沈黙は、けれど時が経つにつれて穏やかなものになっていく。
 ――まるで、春に侵されたかのように。
「……景麒」
 静かな声に呼ばれて景麒は顔を上げた。
「来てくれてありがとな」
 そう言って、延麒は柔らかく笑んでみせる。
 それは常のように明るい笑みではなかったけれど、痛ましいようなものでもなくて、景麒は返す言葉に迷った。
 幼い姿や軽薄な態度に惑わされがちだけれど、彼は間違いなくこの雁州国を――他に類を見ない大王朝を――支えてきた宰輔なのだ。
 五百年の歳月の差は、言葉で言うほど簡単なものではない。
 倣うことの出来ない強さに、敵わないと心から思う。
「そうそう。饅頭食べねぇ?」
 この場にはあまりにも不似合いな台詞を口にして、延麒は手にした紙包みをがさごそと開いた。
「最近凝っててさ。関弓に美味い饅頭屋が出来たんだ。『饅珠沙華』っつーんだけど」
 ほら、と薄茶の塊をひとつ差し出す。市井の少年が友人に、気に入りの菓子を勧めているわけではない。一国の宰輔の、これまた一国の宰輔に向けた言葉である。
 景麒はしばし呆然として、それから眉間にしわを寄せた。常態に戻った、とも言える。
 得意の溜息をついてから居住まいを正し、軽く供手の礼をとった。
「延台輔御自らご購入くださった菓子とお見受けいたしますれば、有り難く頂戴いたしたく存じますが」
「おまえその言い方、朱衡そっくり……」
 顔を引きつらせた延麒を、あえて無視して続ける。
「まずは主上のお言葉をお伝え申し上げてもよろしいでしょうか」
 幾分引きつったまま延麒が頷いたのを確認し、景麒は丁寧に、殊更にはっきりとした発音で陽子の言葉を繰り返した。
「『出来ることがあれば何でもするから、遠慮なく言ってくれ』――との事です」
 悼むでも気遣うでもない簡素な言葉は、聞いたときには無礼とも思いはしたが、こんな時にはむしろ似合いだ。
「陽子は王様の見本みたいなヤツだからな。いい手本になるだろう。――助かるよ」
 見本にも手本にもなれない王のことを言外に匂わせて、延麒はまた柔らかく笑んだ。


 翌早朝、景麒は早々と出立を決めた。
 ほとんどとんぼ返りだが、そもそも退位直後の王宮に他国の麒麟がいること自体がおかしいのだ。秘されているとはいえ、こんな時に長々と逗留したところで邪魔なだけだろう。
 大仰な見送りは断ったため、禁門で景麒に向き合うのは朱衡という名の高官だけだ。
「景台輔。ありがとうございました」
 深々と頭を下げた朱衡に、景麒は眉根を寄せて首を振る。
「いえ。主上のお言葉を伝えただけで……。私は、なにも」
 実際、主の言葉を伝えた他はただ黙っていただけで、ろくに言葉も交わしていない。わざわざ一国の宰補が来た意味はあるのだろうかと、今更ながらに思った。
 大王朝の初めから国を支え続けてきた高官は、眉間の皺を深くした景麒に意味ありげに微笑んでみせた。
「言葉ばかりが慰めではございますまい」
 静かな言葉に更なる否定も出来ず、景麒は少し迷ってから目礼だけを返す。
 なにかを成したつもりはまったくなかったが、もしも僅かばかりでも慰めになったように見えるのなら、来た甲斐はあったのかもしれない。
 そこにバタバタと足音が響いて、延麒が焦ったように駆け込んできた。
「ああ良かった、間に合った」
 屈託なく笑い、お構いも出来ませんで、などと戯けて言ってみせる。その様子に何とはなしに安堵して、いいから行けと強く命じた主を想う。
 来て良かったと、初めて思った。
「陽子によろしくな」
 手を振る延麒に頷いてから、景麒は使令を飛翔させる。
 空位となっても何も変わらず、眼下に広がる国土は春の光に満ちていた。清しい風が蒼空を吹き渡っていく。
 見送る人影に会釈を返し、少しばかり後ろめたい気分で目を逸らした。
 己の主は、この光風の先にいる。
 ――居てくれる。
 早く会いたいと、そう思った。

―― Fin...2007.12.12
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ありがとうございました。ブラウザを閉じてお戻りください。
光風:晴れあがった春の日にさわやかに吹く風。また、雨あがりに、草木の間を吹き渡る風。
 これでこのシリーズは終了です(たぶん)
 延麒を元気づけたかったはずなのに、むしろ景麒が元気づけられておりますね。さすがだな、六太。
 ちなみにこれ、「いつの話か」という点はずっとぼかして書いてます。
 陽子即位から何年後かは――三百年でも五百年でも千年でも――お好きなようにお考えください。

  元拍手おまけSS↓ なんだか朱衡がいいところを掻っ攫った感が……。

 景麒の姿が蒼天に紛れたところで、朱衡がふと六太を見下ろした。
「台輔」
「ん?」
 目を細めて遠くを見やったまま、六太は上の空で答える。
「拙めは本日休暇をいただいておりますが」
「うん」
「最近ご贔屓の饅頭屋にご案内いただけますか」
「え、だって……」
 六太は驚いて朱衡の顔を振り仰いだ。
 臣下が休日であろうと、宰補がそうとは限らない。ましてこの非常時だ。王を探して数日留守にしたから、今日は政務のはずである。
「馬鹿言うな。今日はこれからお仕事なの! 知ってんだろ?」
「今更なにを仰います。台輔が一日二日怠けたところで、どうにかなる我が国ではございません」
 つんと澄ましてそんな事を言い放つ朱衡を目を丸くして見つめてから、六太は思い切り吹き出した。
 らしくもなく、肩肘張っていた事に気付かされる。
「は、初めてだよな、もしかして。朱衡に出奔勧められるとは……っ!!」
 腹を抱えて爆笑する六太は、どうなさいます、と問われて大きく頷いた。
「もちろん。行こう!」
 こうして、回りくどい気遣いを見せてくれる人もいる。
 率直に手を差し伸べてくれる人も、痛みを共有できる相手もいる。
 ――大丈夫。
 この国はまだ、明るく在れる。
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