―― 夜光 ヤコウ
Written by Shia Akino
 慶東国首都堯天――金波宮。壮麗な宮殿の主は、三日程前から正寝に閉じこもり朝議にも出席していない。
 体調不良との理由を信じる官は少なかったが、景王の懐刀とも言われる有能な高官は淡々と政務をこなしている。どこに行ったにしろ、諒解は得ているものと誰もが思っていた。
 市街に降りたか雁にでも向かったか――そう思われていることは知っていたが、浩瀚はあえて訂正しなかった。訂正したところで、ではどうしたのかと問われれば今のところは誤魔化さねばならない。それではあまりに無意味であるし、ひどく面倒でもあった。

 三日前――鳳が延王崩御を鳴いた。

 その報せを耳にした者は極少数であったが、皆一様に愕然とした。延麒失道の報などなく、瓦解を窺わせる兆候すら何一つ見当たらなかったのだ。
 どうでも玄英宮に行くのだと言って聞かない主を、浩瀚はほとんど脅迫するような手段でもって引き留めた。玄英宮で何が起きたのか分からない以上、危険かもしれないところに主を向かわせるなど言語道断である。
 ――以来、主は正寝から出てこない。
 無理もない、と思う。
 長きに渡り、なにくれとなく力になってくれた相手だ。恩義云々以前に、親しい相手でもある。訃報に接して冷静でいろと言う方に無理があるだろう。なにしろあまりにも突然だった。
 浩瀚は書記官に気付かれないよう、小さく溜息を落とした。
 以前主から聞き及んだ『電話』なるものが此方にあれば、こんな風に何日も対応を決めかねるような事はあるまいに、と思う。
 止まっていた筆を改めて動かし、ないものを望んだところで致し方ないと思い直す。
 彼の国の朝廷が機能していれば、そろそろ報せが届く頃合いだろう。不測の事態があって機能しなくなっているのならば、事は王宮内のみにおさめられるものではない。関弓に出入りする商人などから、やはり噂なりとも届くだろう。
 そう考えたところで、執務室の扉が叩かれた。待ち望んでいた報せが届いたとの報告だった。



 浩瀚が景麒を伴って正寝を訪れると、いくらか憔悴した風の景王陽子は、榻(ながいす)に座ってぼんやりと園林(にわ)を眺めていた。窓の外が暖かな春の光に満ちているせいか、室内はいやに薄暗く寒々しく感じられる。
 浩瀚は殊更に事務的な口調で、雁州国宰輔より青鳥(しらせ)が参りました、と告げた。宰輔より、の部分で反応を示した陽子に青鳥(せいちょう)の運んできた文を手渡す。
「…………禅譲……内密に?」
 眉間にしわを寄せた陽子に浩瀚は頷く。
「禅譲であろうと無かろうと、王朝の終焉時には他国の援助が必要な状況になっているのが普通です。隣国にとっては荒民に対する備えも不可欠ですが、そういった動きを見せてくれるな、との事でしょう。――賢明な判断だと思われます」
 一度言葉を切り、浩瀚は沈痛な表情を浮かべて目を伏せた。
「彼の国の安寧はあまりにも長うございました。国の傾いでいくただ中にあれば、民とていくらかの心構えも出来ましょうが、これでは……」
 どれほどの混乱が巻き起こるか、想像に難くない。
 陽子は改めて文に目を落とし、そうか、と呟いた。
「禅譲ということは、六太くんは残されたんだ。新王が起つのにさほど時間はかからない……」
「はい。それ故の措置でしょう」
 しばらくの間にしろ隠すのならば、差し迫って成すべき事は、この三日の間で密かに整えた対処の準備を凍結させることだけだ。
 眉間に皺を寄せたまま何か考えこんでいる主に、浩瀚は辞去の意を告げる。
 平素に比べると幾らか青い顔をした無表情の麒麟は、黙したまま硬い動きで拱手をする。
 踵を返す前に掛けられた言葉は、完全に意想外だった。
「景麒。雁へ行ってくれ」
 珍しく虚を衝かれて、二人共が動きを止めた。王が身罷ったばかりの国に麒麟を向かわせるなど、非常識というにも程がある。
「主上――」
「なにも危ないことはないだろう。延台輔だっているんだし」
 浩瀚の苦言は、言葉にする前にあっさり切って捨てられた。
「ですが……内密に、とのことなのでしょう」
 困惑を隠さずに景麒が言えば、幸い延王とは親交がある、と苦く笑う。
「こうなると親しかったかは疑問だが、まあどうとでも言い訳はつくだろう。延台輔に言付けを頼みたい」
 眉根を寄せた景麒を見やり、改めて陽子に視線を向けて、浩瀚は苦笑を浮かべてみせた。
「どうしても行くんだ、と言い張った方の台詞とは思えませんね」
「……三日も閉じこもってれば頭も冷えるよ」
 ため息と共に陽子は言って、少しのあいだ目を閉じる。

 もう充分に泣いた。
 たくさん並べた恨み言は、届かないと知っている。

 泣き出しそうな笑みを見せて、私が行ったって何の役にもたたないから、と陽子は呟いた。
「それは私だって同じです!」
 景麒の声の悲痛な響きには頓着せず、居住まいを正した陽子は強い眼差しで景麒を射抜く。
「いいから行くんだ。必ず延台輔に会って、直接伝えてくれ。――人払いをして、二人きりで」
 有無を言わせない声音で、勅命だ、と断ずる。
 ――それ以上の反論は許されなかった。



 悲嘆と不満と嫌忌を綯い交ぜにして景麒が雁国へ立ったその日、景王陽子は三日ぶりに執務室へ収まって真面目に政務に励んでいた。
 丸々三日も塞いでいたにしては、捌かなければならない書類が少ない。優秀な官吏が――特に浩瀚が――気を使ってくれたのだろう。
 急ぎの事案があるからとわざわざ足を運んできた浩瀚と話を詰め、署名をして御璽を捺す。
 書面を確認した浩瀚はすぐに退室せず、ひとつ伺ってもよろしいでしょうか、と切り出した。
「構わない。何だ?」
「なぜわざわざ、台輔を雁へ向かわせたのです?」
 国として弔意を表すならば、秘すべき時期が過ぎたあと正式に使者を立てればいい。私的な弔問なら、陽子は何をおいても自身で出向くだろう。
 浩瀚の疑問はもっともだった。ただの言付けと様子見なら、景麒である必要はない。むしろ景麒ではない方が自然だろう。
「私は王なんだ」
 言わずもがなの台詞に、存じておりますが、と訝しげな答えが返った。
「私は王だから、麒麟のことは分からない。まして王を失った麒麟の気持ちなど、王を失ったことのある麒麟にしか分からないだろうと思う」
「では……景台輔に延台輔をお慰めいただこうと、そういうことですか?」
 釈然としない風の浩瀚の問いに、陽子は思わず失笑した。
「景麒にそんな事は期待してないよ。絶対無理」
 釈然としないのも当然だ。慶の麒麟は性格上、慰めごとにはとんと向かない。言葉を尽くして慰めるような真似は、景麒には決して出来はしまい。
「でもね、同じ気持ちを知っているって思える人がいると、それだけで慰められる…………訳じゃないけど、安心するっていうか……落ち着く、のかな。うまく言えないけど」
 延麒への言付けなど、ただの方便だ。
 ただ景麒に、延麒と会って来て欲しかった。
「主上にもそのような方がいらっしゃるのですか?」
「それは……まあ……」
 言葉を濁して窓の外を見やる。
 春の光はきららかで、美しく整えられた庭院は僅かな翳りも見られず、心中とは裏腹に愁いとは無縁のようだ。
 この暖かな光のように、その存在だけで心を穏やかにしてくれる人――陽子にとって、それは他ならぬ雁国の王だった。
 王朝が一つ終わるたび、迫ってくる闇がある。
 この圧迫感は、きっと王にしか分からないと思う。
(それに――)
 延王尚隆は胎果だった。陽子と同じく。
 いつだったか、延王が漏らしたことがある。守ってやれなかった領民のことを、未だに考えることがある――と。
 詳しいことは何も知らないけれど、胎果の王が心の一部をあちらに残したままであることは分かった。
 陽子もそうだ。今もまだ、両親や友人達のことを考えることがある。
 どれだけの時が過ぎても、知人の誰一人として生きてはいないだけの時間が経っても、忘れられるものではなかった。
 彼と自分では事情が違い、立場が違う。抱く想いも違うだろう。
 それでも、分かってくれると信じられた。
 決して叶うことのない望みを、叶えるつもりとてないまま、それでもなお想ってしまう痛みを。
 国を負い、暗闇の中に立ち、退くことの出来ない永い時の重さを。
 分かってくれると、信じられたのだ。
(延王は――)
 忘れることが出来たのだろうか。それとも疲れてしまったのだろうか。
(……もう五百年頑張れば、分かるかもしれないな)
 小さく笑って、陽子は書類に目を落とした。
 未来はいつも、いつまでも暗夜の中にある。
 手探りで進むその先を、月のように確かに、蛍のように気まぐれに、照らしてくれた先達はもういない。
 それでも、遺されたものは確かにあった。
 少なくともあと五百年は頑張ろうと、陽子はひっそりとそう思う。
 幽かな光を抱きしめるように。

―― Fin...2007.11.20
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夜光:月の異名・ほたるの異名・夜光る玉・夜暗いところで発する光
 「晴空」「空夜」と来たから、夜から始まる二文字タイトルにしたかった。
 タイトルに合わせて書き直してたら、何が書きたかったのか分からなくなった。
 とりあえず尚隆は鬼畜。普通に道を外すよりタチが悪いかもしれない。
 長くなりすぎて分割したので、そのうちもう一編続く予定。

  元拍手おまけSS↓

 明日からきちんと執務を執るからと告げ、まだ何か言いたげな臣下二人を退室させて、陽子は長椅子から立ち上がり窓を押し開いた。
 春たけなわの庭園は花の香りに満ち、暖かな風がやんわりと吹いている。
 薄水の空を見上げると、室内の暗さに慣れた目が眩んだ。上向いたままで目を閉じ、彼の人を思う。
 何も知らされず、勝手に逝かれた恨みはあった。暗夜に取り残されたような心細さはもちろんあるし、親しいと思っていたのはこちらだけだったのか、とも考えた。どうして、との思いはきっと消えない。
 だが、所詮他国の事情だ。
 当然の距離感だと、今は思う。
 だからもし、伝えることが出来るのなら。

 ――ありがとう、と言いたい。

 三日の間に、枯れたと思った涙が頬を伝った。
 
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