―― 晴空 セイクウ
Written by Shia Akino
うららかな春の日だった。
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晴れ渡った空は染み一つない澄んだ青で、最上級の絹織物もかくやという肌触りの柔らかな風が吹いている。足元を見ればそこは雲海で、広々と広がる視界の隅に凌雲山の一峰が映った。 雁州国、首都関弓。雲海の上のそこを玄英宮といった。 「まったく……おれは尚隆探知機じゃないっての!」 王の住まう場所に相応しい美しく整えられた園林を抜けて、一人の少年が軽やかに駆けている。街の子供が着るような粗末な袍が奇異に映るが、咎める者のいよう筈もない。 翻る髪は陽光のような明るい金――延麒六太、この国の宰輔だ。関弓から戻ったところを官吏に捕まり、王の探索を要請された。雁州国では日常茶飯事のやり取りである。 探し人は、雲海を見下ろす四阿でのんべんだらりと酒を呑んでいた。険しい顔の六太に、おう、といい加減に声をかけ、軽く杯を上げてみせる。 「尚隆、おまえな〜」 「そう怒るな。おまえだってその格好、街に降りていたのだろうが」 まあそうだけど、と曖昧に言って杯を取り上げ、ひょいと飲み干す。こらこら、と笑った尚隆は伏せてあったもう一つの杯に酒を注いだ。六太が来ると分かっていて、もとより二人で呑む気だったらしい。 「まったくあいつらも。このような上天気に仕事仕事と無粋なことを」 「降れば降ったでやる気が削がれるとか言うくせに」 「曇りならばそれはそれで眠気を誘われるわけだが」 真顔で言ってにやりと笑う。六太は呆れたように息を吐いて、きららかな光に満ちた雲海を見やった。 「まあ……春だもんな」 諦めて床几に座り、頬杖をついて酒を含む。 「うむ。春だからな」 年中似たようなことを言っている主従二人は、幽かに届く潮騒に耳を傾けて同時にほう、と息を吐いた。 雲海の水は空の色を映しはしない。凪いだ海面が時折ちらちらと光るばかりで、山裾に打ち寄せる波だけがほんの僅かに白かった。 春の陽は雲海を透過して下界へ注ぎ、山野の緑と街の喧噪を包み込んでいる。 「ほんっとに好い天気だよなぁ」 「……そうだな」 心地いいはずの沈黙に何故か居心地の悪さを感じて、六太はことさらに言葉を紡ぐ。 「なぁなぁ、関弓に『饅珠沙華』って饅頭屋出来たの知ってるか? 屋号は駄洒落だけどすっげぇ美味いぜ」 「そうか、良かったな」 返答はいずれも短く、尚隆はだらしなく崩れた姿勢のまま時折酒杯を口に運ぶ。いつもとそう変わりない態度だというのに、六太の指先は冷えていく。 尚隆の視線は雲海の彼方に据えられたまま、先刻から動く気配もない。 「六太」 呼びかけられて、六太はびくりと肩を揺らした。 「昔おまえに貰ったものを返したい。受け取ってくれるか」 「おれ、尚隆に何かやったっけ?」 平静を装った声は、けれども少し上擦っていた。 「くれたぞ。――この国をな」 瞬間、鳴き交わす鳥の声も風の音も、すべてが絶えたように六太には思えた。対峙する相手の名を口にしても、それは唇を震わすばかりでまるで声にならない。 尚隆は六太を見ないまま杯を傾け、どこか楽しそうに続けた。 「おまえがいらんと言うなら、俺がこの手で滅ぼすぞ。俺は自分のものを黙って他人にくれてやる程、お人好しではないからな」 俺ならいいのか、と返した声は囁きのように微かで。 尚隆は手元へ視線を落とし、僅かばかり残った酒を眺めて薄く笑う。 「おまえは俺の半身だろう。もともとおまえがくれたものだしな」 なにも俺と一緒に死ぬことはなかろうよ――そう言って杯を干す。 「――どうする? いらんのなら、この場で首をはね斬ってやるぞ。雁が滅ぶところなぞ見たくはあるまい」 あくまでも淡々とした声に、六太はそっと目を伏せた。 この男は、やると言ったらやるだろう。今までもそうだったように、こうと決めたことに躊躇はすまい。 断れば雁は焦土と化す。民の苦吟を思えば、麒麟である六太に否と言うことは出来ない。 「もう――決めたのか」 震えるだろうと思っていた声は、いやに落ち着いた静かな音として耳に届いた。ああ、と答えた尚隆の声も、いつもに増して穏やかで深い。 「……そうか」 終わりにすると決めたのなら、尚隆にとっても選べる道は二つに一つだ。 麒麟を残して一人で逝くか、国を荒らして麒麟を殺すか。 あえて滅ぼす必要はないが、そのくらいの自由は尚隆の権利というものだろう。何にせよ、麒麟を失道させるには国を荒らすより他にない。 ――彼は、真っ先に自分を殺してくれるという。 失道の病に陥るを待たず、荒廃を見せることなくその手で殺してくれるという。 断れないよう追いつめておきながら、なんて事を言うのだ、と思う。 (……何も言わずに、そうしてくれれば良かったんだ) 何も知らないまま、たった一人の半身の手に掛かって。 一緒に逝ければ良かったのに。 (そうしてくれれば良かったのに……) 六太は涙が出そうになって、強く強く目を閉じた。 麒麟の本性が王を慕い、同じ本性が民を哀れむ。二つに裂かれるような痛みに拳で胸を押さえて、それでもどうしても否とは言えない。 (……永遠に続く王朝なんて、ない) 痛くて苦しくて、けれども尚隆を恨む気にはなれなかった。 これほど長く続いた王朝を、六太は他に知らない。永遠を錯覚するほどの、それは本当に夢のように長い王朝だったのだ。 だから、尚隆が望むなら、解き放ってやるのが六太に出来る唯一のことだった。 どれほど苦しくても。 認めなければならなかった。 永遠に続く王朝などない――そんなことは分かっている。いつかこんな日が来ることも、六太はちゃんと知っていたのだから。 「……わかった。もらってやる」 押し殺した低い声で言った六太に、尚隆はようやく視線を向ける。 すまんな、と言う声があんまり穏やかで。 張りつめていた何かが音を立てて弾けた気がした。 「あやまんなっ!」 反射的に叫んでしまったら、後はもう止まらなかった。 「どうしていきなりっ……何で今なんだよっ!」 言っても詮無いことだ。何を言ってももう遅い。泣いても喚いても引き留められないのは分かっていて、だからせめて『行くな』とだけは言うまいと思う。 「どうして……っ!」 吐き出す調子の問いに困ったように肩を竦めて、尚隆は持っていた杯を石案に置いた。 「いつ言い出しても同じ事だと思うがな。あえて言うなら……そうさな、いい天気だから、だな」 穏やかに笑って、彼は海へと視線を移す。南西の彼方――蓬山のある方角へ。 「全っ然理由になってねぇ! だいたいおまえはいつまで経っても馬鹿殿でっ! この……馬鹿っ」 駄々っ子のように喚きながら、六太は酒杯を手にとって投げつけた。なんなく受け止めた尚隆に今度は酒瓶を投げつける。 残っていた酒が、きらきらと光りながらあたりに散った。 「馬鹿野郎……」 涙混じりに呟やいてうずくまる。背を丸めて膝を抱えて膝の間に顔を埋めて。――縋り付いてしまわないように。 嗚咽をこらえると面白いように身体が震えた。 そうして目を閉じてしまったから、その時尚隆がどんな表情をしていたか、六太は知らない。 ただ、大きな暖かい掌が、六太の頭をそっと叩いて離れていった。 庭院に面した回廊をひやりとした風が吹き抜けていく。春だとはいえ、日が昇ってそう経たないこの時刻、空気は夜の名残のようにしっとりと冷たい。 朝議に向かう途中、朱衡が回廊から庭院に出てみたのは、ほんのちょっとした気まぐれだった。澄んだ空が高くて、日溜まりが明るく光っていたからだ。 やわやわと纏わり付く陽光と戯れるようにしながら途を辿る。 「……台輔?」 合歓の大樹の足下に寝転がっている人影を見付けた。木漏れ日に光を弾く金の鬣――延麒六太だ。 「こんなところにいらしたんですね」 迎えに行った官からは、部屋にはいないと報告を受けていた。またか、と思っただけだったのだが。 力無く投げ出された手足に、少しどきりとする。 「朝議が始まりますが……具合でも?」 どこか憔悴した風の六太にいぶかしげに眉を寄せると、彼は大儀そうに片手をあげ、何でもないというようにひらひらと振って見せた。 「ちょっと寝不足……」 「何をしてらしたんです?」 「んー。月が綺麗だったからさぁ」 そういう六太の目元が赤い。寝不足だと言うからそのせいだろう、と朱衡は思う。 わざとらしく溜息をついて、朝議はどうなさいますか、と聞いた。 「朝議ねぇ……」 いやそうに顔をしかめる六太に、今度は本気で溜息が漏れた。 「尚隆は?」 更に大きな溜息をついて、いらっしゃいません、と答える。 朝議は普通毎朝開かれるものだが、延王が参加するのは月に五回もあればいい方だ。宰輔である六太も同様で、二人が揃う日となると更に少ない。 本来ならば、王の居場所が分からないなど大問題である。――が、ここ雁州国では恐ろしいことに日常茶飯事とさえいえた。いいかげん官も慣れている。 いまさらどうこう言う気はありません、と苦笑して、朱衡は厩舎のある方へ視線を向けた。 「たまがいなくなってましたから、今度はちょっと長いかもしれませんね」 王の騎獣はさすがに目立つ。関弓に降りる程度なら身一つで気軽に出かけてしまうから、たまがいない今回は遠出なのだろう。 何かあったらどうするのだ――とは、ここ数百年口にしていない。言っても無駄だからだ。 言っても無駄なのは六太も同じで、その六太は幹を背に座り直し、ぼんやりと宙を見つめていた。 「長い――か……」 小さく呟いて瞑目する。 そう、尚隆の不在は長くなる――とても、ながく。 六太には分かっていた。王は蓬山まで退位を請いに行ったのだ。早ければ明日――たぶん明後日には白雉が落ちる。 出来ることなら、この世で一番早いという己の足で駆けていって、行かないでくれと縋りたかった。 ――本当に、駆けていきたかったけれど。 (でもそれは、出来ない。……絶対に) よっ、と声をかけて立ち上がり、眠気を覚ますふりをして頬を叩く。本当は眠くなどなくて、昨日からひどい吐き気がするだけだった。黄医の領分ではないと分かっていたので言わずにおく。 「よし、行くぞ!」 「どこへです?」 気負いを挫かれてがくりと膝が崩れた。 「……朝議だろ?」 「おやおや。私はまた、関弓の饅頭屋にでも行くのかと思いましたよ。最近のお気に入りは……『饅珠沙華』、でしたか」 「…………なんで知ってんの」 それはそれは疑わしそうな六太に極上の笑みを浮かべて見せて、朱衡は「内緒です」と言い切った。 治安維持のため街なかに配置される衛士の任務には、王と宰輔の密かな警護――監視とも言う――が含まれることをご存じないらしい――朱衡は思って、遠出されると意味がないんですけどねぇとため息をつく。何か問いたげな六太の口を笑顔で封じ、参りましょう、と促した。 早くも夜の名残は払拭されて、あたりはただひたすらに明るい。春の日差しに暖められた風がふんわりと通り過ぎていき、柔らかな合歓の葉が音もなく揺れた。 花にはまだ少し早い。 夜には閉じる葉がいっぱいに開いて光を受けているのを見上げ、六太は肩の力を抜いた。 木陰から出ると眩しさに眩暈がする。 ひどく暖かくて、しつこい吐き気が少し薄れた。 「お顔の色がすぐれませんが……大丈夫ですか?」 珍しく気遣わしげな朱衡に向かって、六太はにっと笑ってみせる。いつも通りに笑えたと思う。 「だから寝不足だって言ってんだろ。全然へーき。大丈夫」 そう――大丈夫だ。尚隆は約束を守ってくれた。豊かで平和な国を六太にくれた。 (だから……今度はおれが約束する) 晴れ渡った空を見上げて、誓いのように思う。 (おまえがくれたこの国を、おれはずっと大事にする) 晴空の下、この国のすべてがいつまでも明るく有れるように。 きっとずっと大事にするから――そう胸の内で呟いて、六太は朱衡の後を追った。 ―― Fin...2004.07.23
[空夜]
晴空:晴れた空。
明るめな雁州国小松王朝の終焉でした。終焉の話で、こういう雰囲気のものは少ないんじゃないかと思う。 でも尚隆は鬼畜(笑) ほとんど脅迫してますよね。もう少し他の言い様はなかったのか。 実は、自分が終焉ものを書くとは思ってもみませんでした。まったく想像が出来ないからです。そのくせ、尚隆は六太を連れていくという強固な思いこみがあったらしく。 『CRIATE.JOKER』の10万打記念小説「最後の贈り物」を読んだとき、残していくのもアリなのね、と目から鱗状態。(ネタバレですね……すみません) なので、これは「最後の贈り物」のエピソード1といったところなのです。個人的に。気持ちの上では。 銀月さま、勝手にスミマセン。ありがとうございました。 文章、画像の無断転載、転用、複写禁止
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