―― 空夜 クウヤ
Written by Shia Akino
 玄英宮は、重苦しい闇に包まれている。
 心理的なものだというのはもちろん分かっていた。実際はいつもと変わりなく各所に灯りが入っているし、月も明るい。
 だというのに、この暗さはどうだろう――朱衡は目を細めてあたりを見渡し、苦い息をついた。
 園林のどこかで、夜に啼く鳥がもの哀しい声をたてている。宵闇には花の香が混じってはいたが、春を思わせるそれもひんやりと冴えた空気に掻き消されがちだった。
 昼の暖かさがまるで幻のようだ。
 日が落ちれば冷えるのはこの季節には当たり前のことで――けれどもその落差が、今は恐ろしい事のように思えてならない。
 外殿の走廊に人影はなかった。自分の足音ばかりがいやに耳について、変に静かな夜だと朱衡は思う。――それともこれも心理的なものなのだろうか。
 そうして鬱々と歩を進めていると、どこからか軽い足音が近づいて来た。角を曲がって来る人影に光のような金の鬣をみとめて、朱衡はひそかにため息をつく。自らの立場もわきまえず、一人ふらふらと出歩かれては小臣(ごえい)の立つ瀬がない。――特に今は。
 ともかくも官服の裾を払い、膝を折って叩頭した。実のところ朱衡には叩頭する義務などなかったし、実際ここ数百年、改まった席でもなければ軽く拱手するだけで済ませてきたけれど。
 それはとうに失せたはずの、自国の宰輔に対する敬意だった。



 この日の朝はとりたてて切迫した問題もなく、いつも通りに過ぎていくかと思われた。
 二日ほど前から王の姿が見えないが、今更その程度のことで騒ぎ立てる官など雁にはいない。主と同じくさぼり癖のある宰輔が、三日連続で朝議に参加している事の方が、騒ぐに値する珍事だった。
 雁国の朝議は少々――というか、かなり――他国と趣を異にする。なにしろ、王も宰輔も滅多に姿を見せないのである。自然、議事を奏上して指示を仰ぐというより、三公六官そろっての情報交換といった様相を呈してくる。自嘲を込めて『井戸端会議』などと言う者もあるくらいだ。
 そんな朝議の席に、その報せは転がり込んできた。

 白雉末声――延王崩御。

 これほどの重大事を、梧桐宮の管理官とはいえ大卜(だいぼく)にすぎない者が奏上するに至ったのは、大宗伯も小宗伯も朝議に出席中で、春官府にいなかった為である。
 大卜は文字通り転がるように朝議の間に駆け込んできて、宰輔の前で平伏した。
「恐れながら、も、申し上げます」
 上擦って震えた声は聞き取るのも難儀なほどで、あまりの狼狽ぶりに諸官は不安げに顔を見合わせる。ただ一人、壇上の宰輔だけが落ち着き払って、静かに大卜へと声をかけた。
「……白雉が落ちたか」
 冢宰以下、三公六官の全員が唖然とした。凍り付いたような沈黙の中、大卜の声がそれを肯定する。
「け、検分の準備を指示してまいりました。取り急ぎ、まずはご報告をと」
 震えながら続ける大卜は、もはや半分泣いていた。諸官はようやく事態を呑み込み、そうして改めて驚愕した。そんな、とか、まさか、という声が其処此処であがる。
「とりあえず検分はいい。後で行く。急ぎ戻って関わった者に口外無用といい含めるんだ」
「しかし、台輔!?」
「雁の民は安寧に慣れている。いま怖いのは妖魔でも天候でもない。動揺した民が自暴自棄になることだ。――葬儀は後でいい。白旗も揚げるな」
 延麒の手が堅く握りしめられ、細かく震えているのに気付く者はなかった。
 幼い容姿には不似合いな毅然とした声で、強い視線で宰輔は指示を下す。
「秋官長、各国に青鳥を。事情を説明してしばらく伏せておくよう頼むんだ。報せる相手はよく吟味し、必要最低限に絞れ。皆も、いいな。この事――決して雲海の下に持ち出すな」
 厳しく言い渡す様子には、普段の愛嬌など欠片もなかった。鋭い目で見据えられ、誰一人として言葉もない。――未だ耳にしたことを信じられず、信じたくもなく、呆然としていたというのが正しいかもしれない。
 ふいに宰輔がにっと笑った。虚をつかれた官が瞬くと、少年の姿の麒麟は芝居がかった仕草で両手を広げ、大仰に肩を竦めてみせる。
「噂ってのは怖いぞー。勝手におれまで殺されちゃうかも。――なんたって純情可憐で賢く気高い台輔様だからな」
 賢いのは本当だけど、などとあっけらかんと言うのに、思わずといった体で失笑が漏れた。
 それを確認してふっと息をつき、雁国の麒麟は一人一人と目を合わせるようにその場を見渡す。そうしてゆっくり口を開き、殊更にはっきりと告げた。
「長くは待たせない。おれがまだここにいる――その意味はわかるだろう」
 あちこちで息を呑む音が響いた。

 ――それは、すぐに新しい王がたつということだ。

 延果が孵るのを、麒麟が育つのを待つ必要がない。あまりにも突然の小松三郎尚隆の退位は、誰一人予想だにしなかった事からも国情とは無縁だと分かる。だからこその措置だった。
 延王は国を荒らして退位したのではない。雁はこれから傾き始める――その差は大きい。
 ――呆けている場合ではなかった。
 まったくもって呆けている場合ではない。
 我に返った諸官が改めて壇上を見やると、半身を失ったばかりの麒麟は毅然と一人立っていた。座る者のない玉座の脇で、昂然と顔を上げて前を見つめている。――雁国の未来を。

 申し合わせたように皆が形を改め、心からの敬意をもって深々と頭を下げた。



 この幼い少年の姿をした麒麟が自国の麒麟であって良かったと、本当に心から誇らしく思ったのは、もしかしたら初めてのことかもしれない。
 叩頭した姿勢のまま、朱衡はそんなことを考えている。
 好意はあった。もちろん信頼もしていたし、時には感心させられる事もありはしたが、頼もしく思ったことなどなかった気がする。
 こんな時にしかそう思えないのなら、そんな機会はない方が良かった――そうも思う。
「……朱衡?」
 珍しいことするなぁ、と頭上で笑う気配がした。
「台輔。お疲れ様でございました」
「うん……さすがに疲れたかな」
 苦笑気味に答える声は、やはり憔悴を隠し切れてはいない。
 促されて立ち上がると、いつも通りに笑う延麒を見下ろす形になった。顔色が悪く見えるのは月明かりのせいばかりではないだろう。
「疲れもするよな、やっぱ。こんなに働いたの、すっげぇ久しぶりだもん」
「普段から真面目に政務に励まれていれば、多少忙しくなったからといってそれほど疲れはしないでしょう」
 ほとんど反射で返した台詞に、延麒は両手で耳をふさいで、聞こえねぇ聞こえねぇなーんも聞こえねぇ、などと言っている。
 あまりにもいつも通りな延麒の態度に、強い方だ、と朱衡は思う。
 王を失った麒麟が辛くないはずがない。誰よりも一番辛いのは、この姿ばかり幼い麒麟だろうに。
「それにしても、意外だったなー」
 くすりと笑んで、延麒が朱衡を見上げる。
「……なにが、でございますか」
「普段からいないことも多かった奴なのに、いざ本当にいなくなると皆慌てるんだな、と思って。おまえのあんな顔、初めて見たかも」
 くすくすと笑われて、朱衡は憮然とした。間抜けな顔を晒していた自覚はあるので反論も出来ない。
「本当に……人の意表を突くのがお好きな方で」
 責める響きの溜息が自然と口をついて出た。何を言っても一向に改める様子のない主に向かい、長きにわたって幾度となく繰り返された溜息は、もはや習い性の感さえある。
 思い返せば、共にあった長い長い年月の中、いったいどれだけ破天荒な主に振り回されてきたことだろう。なかでも今回のことは、意表を突くなどという言葉ではとても足りるものではなかった。

 実を言うと、己の一部がいまだに呆然としている事を朱衡は自覚している。

 ふいに姿が見えなくなるのはよくある事で、だから今度もいつものように、視察と称して出掛けているだけのような気がしてならない。いずれひょっこり戻ってきて、冗談だ、と太い笑みを見せるのだとしか思えない。
 それでも、最初の衝撃が過ぎてしまえば、そこは有能と名高い雁の官吏である。為すべき事を為し、当面の方針に沿って何事もなかったかのように振る舞うのも出来ぬ事ではなかった。
 もとより雁は王の不在に慣れている。玉座に王がいなくても、国政は動くように出来ているのだ。無断で外遊を繰り返した王のために、そうならざるを得なかったと言った方が正しいかもしれないが。
 ある種危険なこの風潮が、大きな混乱もないままに王なき朝を支えている。

 この時のために、そのための朝を、王は整えていたのだろうか。

 物思いに沈み込んでいた朱衡は、名を呼ばれてびくりと肩を震わせた。意外なほど近くから、大きな瞳が苦笑の色を浮かべて朱衡を見上げている。
「なぁ、朱衡。あいつの考えなんて、悩むだけ無駄だぜ。今度のことにしたって――なんて言ってたと思う?」
 黙って首を傾げると、延麒は笑って小さく肩を竦めてみせた。
 一瞬だけ、泣きたそうに睫毛が震えた。
「いい天気だから、ってさ」
「いい天気だから、ですか……」
 あまりと言えばあまりな理由に、朱衡は思わず苦笑を漏らす。
 いい天気だから、という理由で遊山に赴くことはよくあった。そのほとんどが官吏に無断の出奔で、散々文句を並べたものだが――同じ理由で退位するなど、もはや怒ればいいのか悲しめばいいのか、それすらももう分からない。
「主上らしいと申しましょうか……。空模様が相手では、恨み事も申し上げられないですね」
 恨み言も言えない――後悔も、出来ない。
 王でいることに飽いたというなら、王らしくあるよう散々説いた己を、朱衡は許せなかったかもしれない。
 長すぎる生が耐えがたかったのなら、ほぼ同じだけの時間を官吏として過ごしている自分は、いったいなんだというのだろう。
 ――空模様ばかりはどうにも出来ない。
 それが残される者への気遣いなのか本音なのか、即位当時から仕えてきた朱衡にも分かりはしない。良くも悪くも、それが朱衡の主だった。

 本人がこの場にいたら決して口にはしないだろうけれど。
 いい王だった、と朱衡は思う。いい主人だったかはともかく。
 民の目線を知っていた。それでいて間違いなく王だった。さんざん文句も言ったけれど、あれほど民の傍近くに在った王など他にはいまい。
 本当にいい王だったのだ――そう思って、過去形で考えている事に気付き愕然とする。
 愕然として息を呑み、凝然としていたのは一瞬。朱衡は肩を落とし、呑んだ息をそっと吐き出す。
 今度の溜息は諦めに似ていた。それは寂寥かもしれないし、哀惜だったのかもしれない。

 ――もう、あの王はいないのだ。

 一度目を閉じて開くと、延麒が真顔で朱衡を見上げていた。
「明日から王を探しに行く」
 きっぱりと言うのに、強い方だ、と改めて思う。
「我々も負けてはおりません。出来得る限り平穏な国を、新しい王にお渡しできるよう努めましょう」
「――頼む」
 真摯な目線に礼を返して、朱衡はそっと目を伏せた。
 蓬莱には、通夜という風習があるという。故人を偲び、語らいながら夜を明かすとか。
 今夜はだから帷湍でも誘って、かの王が好きだった酒でも飲もう――そんな事を考えながら、内殿に向かう延麒の姿が角を曲がって消えるまで、そのままそこで目を伏せていた。

 足音すら絶えて静寂が訪れても、朱衡は長いこと動かずにいた。

―― Fin...2004.10.07
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 空夜:静かな夜。さびしい夜。
 もともとこれは、「禅譲だから遺言があるわね!」とか思って書き始めたものでした。
 ――が、途中で尚隆が言いそうな事が浮かんできてしまって、あえなく撃沈。遺言前後のあれこれをざっくり削除して出来上がりです(笑) 白沢さんとか出てくる予定だったんですけどね……。
 通夜は十二国にもあるのかもしれませんが、そこはそれ。
 この頃にはすでに帷湍はいない気がするが、そこもそれ。

 朱衡は尚隆のことを実は大好きなんだと思います。
 新王が即位して朝廷が整ったら、辞めてしまうのではないでしょうか。そんな気がします。
 + おまけ +

 ――蓬山にて。
「そなたの天命は未だ尽きておらぬ。本当に――よろしいのか」
「顔を見るなりなんだ、それは」
 思わず、といった体で尚隆は笑みを浮かべ、もう決めた、と気負いもなく答えた。
「ならばせめて遺言なりとも――」
 重ねて言い募るのに皮肉な笑みを返し、国を捨てる王が今更何を言えるというのだ、と口元を歪める。
「後を頼む、とでも? 人に頼むくらいなら己でやるわ」
「ならば――」
「くどい。もう決めたと言っている」
 断ち切るように言い放ち、せっかく好い日和なのだ、と穏やかに笑む。
「良い気分なのだから、あまりごちゃごちゃ言わんでくれ」
 そうして、稀代の名君と謳われた雁国の王は、懐かしいものを見るような眼差しで自国の方角を眺めやった。
 あとはもう何を言うでもなく――ただそっと、目線だけで礼を送った。
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