―― 戴天 タイテン
Written by Shia Akino
手のひらほどの紙に写しとられた、それは春の景色だった。
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穏やかに晴れた浅い色の空。さほど広くもない庭に萌え始めた緑。門脇に枝垂れ咲く雪柳。 そして、並んで微笑む三つの人影。 両脇の男女は夫婦者であろう。母親らしき女性は眩しそうに目を細め、父親であろう男性は慣れない風に硬い笑みを浮かべている。赤茶の髪をきっちりと編んだ中央の少女は、どこか落ち着かなげに佇んでいた。 少女の真新しい制服の裾が、僅かに翻っている。風さえ目に見える程に細密な絵画――いや、写真。 それを受け取り、少女は泣いた。 穏やかに晴れた浅い色の空の下で、声を立てずに。 こちらにもあちらにも、雲の上にも天はある。 天を戴いて在ることに、変わりはないから。 その日、金波宮は長楽殿を訪れた延麒六太は、開口一番こう言った。 「陽子、両親に手紙を書け。一度だけ俺が届けてやる」 前置きも何もなくそう告げられた景王赤子が、ぽかんと口を開けて固まってしまったのも無理のない事といえよう。 「――は?」 「両親のことが気になるんだろう? 景麒から聞いた」 「なんで景麒が…………」 呆然と呟き、思い出す。数日前のことだ。 その日、蘭桂が妻を娶った。 彼が少学に通いたいと言い出したのが、もう十四年も前――彼が十二の年である。王宮から通うのもおかしなものなので、養い親を探して手放した。お世話になりました、と頭を下げる少年はひどく大人びて見えて、もう桂桂とは呼べないな、と陽子は思ったものだった。 頻々と顔を出し、折に触れ人をやって様子を伺い、けれどそれもだんだんと間遠になって。 学校を辞めたと聞いたころには、直接会うのは年に数度となっていた。申し訳ないけど一生の仕事を見つけたんだと、彼は晴れやかに笑った。細工師の、徒弟になるのだと。 良かったね、と言うしかなかった。いつか何か作ってくれと笑うと、景王に献上できるものを作れるようになるのはいつ頃かなぁと、困ったように答えた。 それから彼は年に一度、新年の祝いに内輪で行う宴の席へ顔を出すだけになり、訪ねて行っても忙しそうでろくに話も出来ず、会うたびにょきにょきと背が伸びて、そうして今に到る。 招かれた披露の宴を早々に辞して、陽子は良家の子女風に装った衣装のまま、一人雲海を眺めた。 雲上から見下ろす下界は、まるで急流だと思う。 幼かった少年はとうに陽子の外見年齢を追い越し、立派な青年となって妻を娶り、子を願い、養って年を重ねていく。 彼の世界は、もう雲の上にはないのだ。 「……そうか、十七年になるんだ」 何がです、と答えた声は半身のもの。王宮の庭の片隅の、庭師すら来ないこんな場所で王を見つける事が出来るのは、半身である麒麟だけだ。 陽子は振り返らず、言葉だけを返す。 「私がこちらに来てから、さ――十七年も経ったんだなぁと思って」 それは、決して短い年月ではない。 「桂桂も大きくなるわけだよね。ああ、花嫁さん綺麗だったよ。幸せそうだった」 身分を隠しての参列に渋い顔をしていた堅物は、そうですか、とだけ答えて黙した。 この鉄面皮にも、もう慣れた。 故国を思うとき、“日本”ではなく“蓬莱”という語が先に浮かぶ。 あちらで過ごしたときと、こちらで過ごしたときが同じ長さになってしまったのだと思って、陽子はふいに泣きたくなった。 物心ついてからなら、あちらの方がすでに短い。 「……お父さんとお母さんはどうしているかな、って考えてたんだ」 自分も半身もあの頃の姿のまま在るけれど、彼らは年老いているだろう。 「あちらを思い出すことはあっても、考えないようにはしていたみたいだって、気付いてしまって」 蘭桂も花嫁もその両親も、幸せそうに笑っていた。孫の顔を見るのが楽しみだと相好を崩す夫婦を目にして、両親を想った。ただ懐かしさだけで思い返すには、もう少し時間が必要だけれど。 「孫の顔を見せてやれなくて悪かったな、元気でいるかな、って……」 ようやく、そんな事を思えるようになった。 「あれか。景麒の奴……」 呟いて、陽子は溜息を吐いた。気にしてくれたのを嬉しく思うべきか、余計なことをと怒るべきか。 「ありがたいけど、そういうわけにはいかないよ。海客は私だけじゃないんだ。王だからって、そんな……」 「王だからで何が悪い」 言葉尻を遮るようにきっぱりと言い放たれて、陽子はぎょっと上体を引いた。特権を振りかざすような言い様がらしくなくて、なんだか二の句が告げない。 「あのな、陽子。いったいどれくらいの数の卵果が、あちらに流されてると思う? そのほとんどが、何も知らずにあちらで生涯を終えるんだ。陽子が、望んだわけでもないのにこちらに戻されたのは、王だからだ」 小さな麒麟は腕を組み、先程と同じ台詞を同じ口調で繰り返した。 「王だからで何が悪い。――手紙の一度くらい許されてもいいだろう」 でも、と陽子は首を振る。 「……海客だって、望んで流されるわけじゃない」 「それはそうだ。けど、蝕は天災だからな」 延麒は大きく頷いて、たとえば、と声を高くした。 「嵐で家を失った者すべてに、新しく家を建てられる程の補償をするか? 無理だろう。けど、道路を拡げるとか、事情があって立ち退いてもらうときには、それなりの対価を払うもんだ。違うか?」 覗き込むように見上げられて、陽子は返事が出来ない。何か違うような気も、正論のような気もした。 「……陽子、いまいくつだ」 混乱しかけたのを救うように、延麒が調子を変えて問う。 「ええと、三十四、かな」 「友達でも恋人でもだれでもいい。親しい人と死に別れたことがあるか」 問われて陽子は言葉に詰まった。 こちらに来てから出来た友人と呼べる者達は、今ほとんどが仙である。 あちらでは、“死”そのものに接する機会が少なかった。 ――両親は元気でいるだろうか。 ――――後どれくらい、元気でいてくれるだろうか。 強張ってしまった陽子の腕を、延麒がそっと優しく叩く。 「なあ陽子。死んでしまった人相手には、もう何をしてやることも出来ないんだぞ?」 強がる幼子を宥めるような、深い声音だ。こんなとき、彼の過ごしてきた五百数十年という歳月の深さを思う。 「こっちのことは気にすんな。どうせついでだ。近々行こうと思ってたし」 軽く言うのに、でも、と陽子はなおも迷う。 隣国の宰補に使い走りをさせるわけにはいかない――そう言いかけた所で、延麒が先に口を開いた。 「言っとくけど、一度だけだぞ。文通をさせるつもりはない。無事を知らせるだけだって、いくらか気は済むだろう」 一度だけだといわれてしまえば、迷惑だからとは強く言えない。 「……でも、私の家、知らないでしょう?」 代わりにそう問うと、住所は覚えてるだろ、と即答された。 「景麒には無理だけど、俺なら住所で場所が分かる。まあ、引っ越してるって可能性もあるから、必ず届けるとはいえないけどさ」 すでに亡いという可能性に触れないのは、延麒の優しさなのだろう。 「別に今すぐでなくていいけどな。考えといて」 延麒はちらりと笑みを浮かべ、ひらりと手を振って出て行った。入れ替わるように祥瓊が顔をのぞかせ、茶器を掲げて入ってくるなり、ごめんなさい、と頭を下げる。 「聞いちゃったわ。入るに入れなくて、つい――」 生返事を返し、気にしなくていいと素振りで伝えて、陽子は物思いにふける。 ありがたい事のはずなのに、どう言って断ろうかと考えている自分が不思議だ。 「……ねえ、陽子。両親のことなんて、今更どうでもいいと思ってるの?」 「っ! そんなことない!」 そっと伺うような祥瓊の言葉を慌てて否定して、目を伏せる。 「どうでもいいなんてことは、ないけど」 「じゃあ絶対書くべきよ。伝えたいことも、伝える手段もあるんでしょう? やらないでどうするの」 ゆっくりと茶器を並べる祥瓊の指先を目で追い、ためらうように間を置いてから、でも、と陽子は小さく呟く。 「でも、もう十七年も経つんだし……それこそ今更だよ。思い出させるのも悪いじゃないか」 茶器に湯を注ぐ微かな音が、小さな声を覆うように響いた。 その声音がどこか言い訳じみていることに、陽子は気付いていないのだろう。 鮮やかな翠色の液体を茶碗に注いでから、祥瓊は陽子の目線を捕らえる。 「本当に、そう思うの? 陽子のご両親は、陽子のことなんてもう思い出すのも嫌だろうって、本当にそう思うの?」 逃げるように目を伏せて、陽子は小さく首を振る。 「そうじゃなくて…………どうせもう、会えないんだし。死んだとか思ってるなら、その方がいいかな、って」 小さく小さく、途切れがちに言葉を紡ぐ陽子の前に、湯気の立つ茶碗を少し乱暴に置いてから祥瓊は大きくため息をついた。 「………………馬鹿?」 「――っ!」 反射的に顔を上げた主を呆れたように見やり、祥瓊は続ける。 「たとえば――たとえばの話よ? 蘭桂が行方不明になって、何年も音信不通で、もしかしたらもう死んでるかもしれないってところに、会えないけど生きてるって知らせがあったら貴女どう思う? どうせ会えないなら知らない方が良かったと思うの?」 「それは――」 「ただ気になるだけで伝えたいことなんかないなら、延台補のお手を煩わせることはないわ。水禺刀を覗いてみればいいのよ。ちょうどうまく見えるかもしれないじゃない」 ほとんど一息で言い放ち、祥瓊は許しも得ずに向かいの席へ腰を下ろした。 「私はね、陽子。お父様にごめんなさいって伝えたいわ。でももう、伝える手段がないの……」 静かな痛みに陽子は言葉を失い、視線を落とした。白磁の茶碗の中で翠色の液体が揺らぎ、波紋を描く。 冷たい雨の中、広がる波紋と共に浮かび上がった幻を思い出す。騙されていたと泣いた母親は、今も陽子を恨んでいるだろうか。それとも忘れてしまったろうか。 こちらで生きる事を選んだのは間違いなく自分で、それはもう取り返しがつかない。あの時に戻れたとしてもきっと同じ選択をするし、間違っていたとも思わない。だから、許しが欲しいわけではない。 けれど、幼い頃の懐かしい思い出は、あの人たちと共に在るから――伝えたい言葉は、ある。 ごめんなさいと、ありがとうと、それから――。 「さよならを、言わなきゃいけないね……」 震える声で呟いた陽子に、祥瓊の胸も痛んだ。 とうに明らかだったとしても、改めて別離を明確にするのは辛いだろう。躊躇っていた理由はきっとそれだ。 けれど、訣別を告げたところで繋がりが絶たれるわけではないと、祥瓊は知っている。 「……お茶、冷めるわよ」 白磁の茶碗を示してそれだけを言葉にした。注がれているのは、この十数年ですっかり見慣れた翠色の緑茶だ。 お茶といえば、こちらでは普通半発酵の青茶を指す。けれど陽子は不発酵の緑茶を好んだ。懐かしい味がするのだと目を細める様を、幾度目にした事だろう。 離別は断絶を意味するわけではない。故郷の味も、近しい人も、忘れられるものではないのだから。 手の届かない場所に在っても。声の届かない距離に居ても。 こちらにもあちらにも、雲の上にも天はある。 天を戴いて在ることに、変わりはないから。 ―― Fin...2008.01.24
[天意]
戴天:天をいただくこと。この世に生きてあること。
陽子に関わった者、みんながみんな官吏を目指すとは限らないではないか――そう思って、蘭桂を下界で結婚させてやる! と思ったのが始まりでした。 それなのにこれはいったい……(苦笑) 陽子の手紙の話はずっと書きたいとは思っていたけども、こんな風に形になるとは思ってもみなかった。 蓬莱側の話と一対になります。 元拍手おまけSS↓(二つあります) 「――事情があって立ち退いてもらうときには、それなりの対価を払うもんだ。違うか?」 我ながら立派な詭弁だなぁと、六太は内心で苦笑した。 久々に遊びに来て、陽子に会う前に景麒に捕まったのは僥倖だったのか不幸だったのか。俺もつくづく甘いよなぁと、自嘲してみたところで虚しい。 両親を想う主に何かしてやりたいのだと、景麒は六太にそう告げた。 私はあちらに詳しくないので、と目を伏せる様子は、六太にはどこか幼く見えた。 手紙を書かせたら、と提案したのは六太だ。届けるくらいならやってやる、とも言った。それがどうして陽子を説得する役までやる破目になったのか――。 途方にくれた子供のような目で、私には自信がないのです、などと言われてしまったからだ。 ろくな説明もせず、無理矢理に連れて来たという話は聞いている。陽子が未だに恨んでいるとは思わないが、心残りではあるだろう。景麒の方には負い目がある。何とかしてやりたいと、思ってしまった。 これは“胎果の誼”でも“大国の余裕”でも“同族の誼”でもなく、六太の性分なのだろう。少しばかり己が恨めしい。 自分が頼んだことは話さないでくれ、と景麒には言われている。 だが、半身の不甲斐ない葛藤ぶりは、折を見て必ず伝えてやろうと思う。
細密すぎるほどに細密な一枚の絵――写真というらしいそれを景麒に託し、渡すかどうかは任せると言い置いて延国の麒麟は帰って行った。
写っているのは三人の男女だ。中央の少女に見覚えがある。迎えに行ったとき一度だけ目にした、あちらでの主の姿だ。 今の主を思い浮かべ、あまりの変化に景麒は心底ぞっとした。 姿かたちだけではない。雰囲気が違う。覇気が違う。心のありようがまったく違う。 慶国にとっては良い方への変化だと断言できる。けれど、そうならざるを得なかった主にとっては、どれほどの苦しみだっただろう。 渡すかどうかは正直迷った。渡したら泣かれて、ひどく困った。ありがとう、けいき――と、そういう口調が幼子のようで、胸が痛んだ。 申し訳ありませんと思わず口にして、ようやく気付く。 ずっと、謝りたかったのだと。 取り返しのつくことではない。間違っていたとも思わない。許しが欲しいわけでもない。けれど、謝りたかったのだと。 主は驚いたように顔を上げ、そして、笑った。 なんだかひどく優しい笑みで、だから――ありがとうございますと、そう言った。これも意図せず出て来た言葉だったけれど。 この方が王だと示した天に。変わってくれた主に。その笑みに。 意味が分からないよと尚も笑う主に、景麒はもう一度、噛み締めるように礼を言った。 文章、画像の無断転載、転用、複写禁止
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