―― 天意 テンイ
Written by Shia Akino
 お父さん、お母さん。陽子です。今更こんな手紙を出してごめんなさい。あのときの事情とか、連絡できなかった言い訳とか、いま私が何をしているかとか、書きたいことが多すぎてずいぶん紙を無駄にしました。きりがないので、これを最後と決めています。分かりにくいかもしれないけど、許してください。
 十七年前、突然姿を消したのは私の意志ではありませんでした。でも、帰らなかったのは私の意志です。長くなるので事情は省きますが、私にはこちらでやる事がある。なすべきことがあるんです。だから、帰ることは出来ません。
 帰れないことは納得していたけど、受け入れるまでずいぶん時間がかかりました。連絡できなかったのはそのせいもあります。帰りたくなるのが怖かった。だからずっと、考えないようにしていました。
 そちらで過ごした時間と同じだけの時が過ぎて、最近ようやく、お父さんとお母さんはどうしているだろうかと、考えることが出来るようになりました。
 お父さんもお母さんも、お元気でしょうか?
 私は元気です。大変なこともたくさんあるけど、いい友人も大勢いて、助けてもらっています。この手紙も、友人達の強い勧めと協力があって書くことができました。今更だとも思ったけど、あの頃のことは、もっと話し合えばよかった、もっといろいろ頑張れば良かったって、後悔したから。
 親不孝な娘でごめんなさい。育ててくれてありがとう。どうしてもそれを伝えたかったから、迷惑かもしれないけど、これを書いてます。本当にありがとう。いい娘でなくてごめんなさい。本当に。
 私は帰れません。帰りません。手紙も一度きりという約束で、大恩ある方に多大なご迷惑をおかけして届けてもらうことになっています。だから、これが最後です。
 本当にごめんなさい。何度書いても伝えきれない気がするけど、ごめんなさい。ありがとう。
 どうか、お元気で。
 さようなら。

 上質の和紙に綴られた文には、幾度も手を止めた跡があった。
 見慣れない筆文字には、見覚えのある書き癖があって。
 最後の言葉は、震えていた。


 日本にだって神はいる。
 だからこれは――天の采配。




 律子は知っていた。陽子は決して帰って来ないと、夫も親族もそう思っていることを。だから、無理矢理にでも笑ってみせる。
 孫の誕生を報告に来た義妹が、陽子ちゃんがいればねぇ、などと眉を寄せて笑った。彼女は気の毒そうな表情のつもりなのだろうが、律子には笑っているようにしか見えない。だから、無理矢理にでも笑ってみせる。
 そうね、早く帰って来ないかしら。
 もしかしたら、もうお母さんになってるかもしれないわ。
 もうすぐ帰ってくるような気がするのよ。会えるのが楽しみ。
 そんな風に言うと、誰も彼もが判で捺したように同じ事を言う。そうだと良いねぇ、と。眉を寄せて笑いながら。
 そうかもしれないね、が、そうだと良いね、になって。十数年も同じやりとりを繰り返して、それでも陽子は帰ってこない。
 単なる家出だったのなら、連絡くらいあるだろう。そう思う。
 事件に巻き込まれたなら、もう命はないだろう――当時夫に言われた台詞が、頭を離れたことはない。
 その通りかもしれないとは思う。だから、失踪宣告を請求できる七年を機に、ずっとそのままにしてあった陽子の部屋を片付けた。けれども請求はしていない。望みが消えない。叶うはずはないと分かっていても、それでもなお想ってしまう。
 きっと、帰ってくる――自分に言い聞かせるようにつぶやくと、義妹はまた眉を寄せて笑った。
 帰宅する義妹を見送りに玄関を出て、遠ざかる背中が角を曲がるまで見送る。それから踵を返し、ドアを開けた。
 いつもなら後ろ手に閉めてそのまま上がる。ふと振り返ったのが何故かは分からない。カタン、と音がしてポストに何かが落ちたのと、何気ない風に歩く少年が門前を離れるのが同時だった。
「待ってっ!」
 思わず呼び止めたのが何故かも、分からない。つんのめるようにして門を出ると、大きな瞳がきょとんとこちらを見上げていた。
「なに、おばさん」
 首をかしげたのは、ごく普通の少年だ。髪を長く伸ばしているのと、ちょっと変わった異国風の服装をしているのを除けば、どこにでもいそうな12、3歳の男の子だ。
「いま、ポストに何を入れたの?」
 少年は驚いたように少し目を見張って見せる。
「見てみればいいじゃん」
「あなたが入れたんじゃないの?」
「だから、見てみれば、って」
 否定が返ってこない。知らないと言わない。それは何故だ。
 この少年を見失ってはいけないと、何故だか強く強く思った。一瞬でも目を離したら消えてしまいそうで怖い。気ばかり焦ってうまく言葉が出てこない。
 その時、空気が流れた。
 少年の髪を揺らしてから律子に届いた微風は、海の匂いがした。
 そう――海の匂いがするのだ。
 陽子を連れ去ったという不審な男からも、海の匂いがしたという話を聞いた。
 それだけだ。
 他に共通点などなにもない。
 海の匂いなど、さして珍しいものでもない。
 それなのに。
「陽子は……元気なの」
 気がついたら問うていた。戸惑いはすぐに消えた。少年が、今度こそ本当に驚きをあらわにしたからだ。
 それからふと、彼は笑んだ。面白がっているような、感心した、とでもいうような不思議な笑みだ。ごく幼いころ、何かが巧く出来ると、祖父がこんな笑みを向けてくれたのを思い出す。
「母親ってすごいなぁ」
 どこか嬉しそうな、感嘆の台詞。
「さすが腹を痛めて生んだ子の――って、こればっかりはあっちでは通じないんだよな」
 少年は軽く肩をすくめてから、ニッと笑ってみせた。
「いいぜ。母親ってモノに敬意を表して、俺に答えられることなら全部答えてやる。信じる信じないは勝手だけど」
 ちなみに陽子は元気だ、と告げた少年の顔が滲む。陽子のことで泣いたのは何年ぶりだろう――律子は思って、海の匂いを届けてくれた風に感謝した。

 日本にだって神はいる。
 だからこれは、天の采配。



―― Fin...2008.02.07
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天意:天の心。自然の道理。
 陽子に手紙を書かせて六太に届けさせたかったのは、六太が時々蓬莱に出向いてると知ったときからだから、もうずいぶん前になります。
 陽子がものすごく大変な目にあって、今は王様で、頑張ってるんだってことを両親に知らせたかったのですが。
 陽子は事細かに苦労話を書いたりは絶対しないだろうって、それが分かっていたので書けませんでした。「元気です。ありがとう。ごめんなさい。さようなら」だけしか伝わらないんじゃ(私の趣味的に)届ける意味がない!
 六太に喋らせようって案も前からあったのですが、頼まれもしないのに自らぺらぺら喋ることはあるまいと、それも分かっていたのです。
 しかぁし! 親になっていてもおかしくない年齢になって(親じゃないけど)母親視点に立ったら、書けるじゃないですか。
 “その年齢じゃないと書けない話”ってのはあるんだなぁと、実感した一作でした。

  元拍手おまけSS↓

 六太と名乗った少年の荒唐無稽な話の全てを、律子は丸ごと信じたわけではない。信じられるような話ではなかった。
 それでも、分かったことはある。
 ――もう、どれほど待っても娘は帰って来ない。
 帰っては、来ないのだ。
 こちらを偲ぶ物のひとつくらいあってもいいんじゃないかと、そう言う少年に写真を渡した。
 高校の入学式の朝に撮った、揃って写った最後の写真だ。
 ただのお節介だし他国の事だから、必ず渡すとは言えないけど――と、そんな前置きがあったけれど、気にしない事にした。
 ――国、なんて。
 少年の服は絹のようだったし、この年頃には有り得ないほど長い髪をしていたけど。
 ――王、なんて。
 そんな事はどうでも良かった。どこにいてもなにをしていても良かった。
 ただ、幸せでいてくれればそれでいい。
 それでいいと、思う事に決めた。
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