―― 家族の休日
Written by Shia Akino
 ジェームス・マクスウェルには“おばあちゃん”がいない。
 血縁上の祖母なら一人いるが、間違っても“おばあちゃん”とは呼べないのだ。
 もし仮に面と向かって“おばあちゃん”などと呼ぼうものなら――その時の事を考えただけで、ジェームスは冷や汗が出てしまう。
 そんな時の彼女はたいてい、その美しい顔で優しく微笑んだ。そして柔らかくジェームスの名を呼ぶ。
 ――怖い。
 もの凄く怖い。
 その話を友達にすると――もちろん祖母の名前は秘密にしてだが――何が怖いのか分からない、と誰もが言った。
 目が笑ってないとか? と聞かれた事もあるが、目は笑っているのだ。さすが女優というべきか、完璧なまでに優しく美しい微笑みなのである。
 それが怖い。何だか分からないがとにかく怖い。直視できない。
 あの恐怖は体験した者にしか分からないだろうと思う。
 そんな訳で、ジェームスは祖母が苦手だった。
 決して嫌いなわけではない。実は尊敬もしている。だが苦手だ。
 だから、この週末にジンジャー主演の話題の舞台『ブライトカーマイン』を観に行こうと父親に言われた時、ついこう言った。
「それ……断れないの?」
 この父親が、わざわざ自分でチケットを買ってまでジンジャーの舞台を観に行こうとする人ではないと、知っているからこその台詞だった。人気チケットの出所はジンジャーに違いない。
「断ってもいいが、おまえが行きたがらなかったと正直に言うぞ?」
「父さん!!」
 ジェームスは蒼褪めて悲鳴を上げた。そんな事を知られたら、何を言われるか分からないではないか。
 安心しろ、と父は笑った。
「食事の誘いはなかった。チケットだけだ」
 それを聞いてようやく胸を撫で下ろす。
 終わった後に食事でも――という話になると生きた心地がしないが、観劇だけならむしろ嬉しい。
 十三歳の男の子としては悲恋モノというのが頂けないが、話題の作品を観に行った事は友達に自慢できるだろう。

 舞台の幕が上がれば、そこにいるのはジンジャー・ブレッドではない。
 彼女の演技を観ている間は、それが自分の祖母だという事をいつも忘れる。

 そうしてそれなりに楽しんで、親子水入らずで食事をして、ホテルに泊まった。
 ダン・マクスウェルはそこそこ高名な船乗りだから、ホテルの部屋もそこそこ上のランクだ。寝室と居間とに分かれていて、バスルームも完備している。
 先に休んだジェームスが寝室で目を覚ますと、そこには誰もいなかった。隣のベッドには使われた形跡がなく、伝言の類も見当たらない。
「父さん?」
 訝しく思いながら居間へ通じる扉を開くと、ソファで寛いでいた大きな人がにこりと笑った。
「よう、ジェームス」
「ミスタ・クーア!?」
「おはよう、ジェームス。今日は遊園地に行くんだろう? そろそろ起こそうと思っていたところだ」
「ミズ・クーア! え、なんで?」
 目を白黒させるジェームスに、父の友人だという二人は軽く笑った。



 時間は少し遡る。
 マーショネスの裏社会に関わるごたごたを片付けて、ケリーとジャスミンが食事を終えたのは、深夜をとうに過ぎた頃合だった。
 肩を並べて店を出た二人はそれでも少々飲み足りず、明け方までやっているバーにでも繰り出そうかと話し合っていたのだが、そこに通信が入ったのである。
「デートの最中にごめんなさいね」
 にっこり笑ったのはダイアナだ。二人に合わせたのか、きらきらしいドレスを纏っている。
「ジンジャーから伝言を預かってるの。デートの邪魔をしちゃ悪いから食事が終わってからでいいって言われているんだけど、もういいわよね?」
「ああ、いいぜ」
 ケリーが頷くと、記録された映像が端末に映しだされた。
「今日は本当にありがとう」
 相も変わらず輝くばかりに美しい女性は、既に部屋着に着替えて寛いでいたようである。豪勢なホテルの内装を背景に従えて、いくらか飲んでいるのか、上気した頬で笑った。
「あのね、ジェム。いろいろあってすっかり忘れていたのだけど、今日の舞台、ダンとジェームスも招待していたのよ。明日も学校は休みでしょう? たぶんレオニアホテルに泊まっているから、せっかくだしその格好、あの子にも見せたらどうかしら」
 きっと喜ぶわ、じゃあね――そう言って映像が途切れる直前、見覚えのある青年の姿がちらりと画面に映り込んだが、ケリーもジャスミンも特に何も言わなかった。
 顔を見合わせてちょっと笑う。
「きっと喜ぶ? そうかな?」
「あんただけなら喜ぶんじゃないか?」
 男の正装は見たって楽しくないが――と、ケリーは妻の姿をしげしげと眺めた。
「まあジャスミン。喜ぶに決まってるじゃないの」
 ダイアナが割り込む。
「若くて綺麗なお母さんは子供の自慢になるはずだわ。小説で読んだもの」
 若くて綺麗なお母さんが授業参観にでも来れば自慢にもなるだろうが、四十を過ぎた男が十以上も年下の母親を自慢にするかどうかは疑わしい。若いのにも限度があるだろう。
 だが、そんな普通の感覚とは無縁の三人であった。
 ダイアナはさっそくそのホテルにマクスウェル親子が泊まっている事を確認すると、急遽最上階のロイヤルスイートを押さえた。
 レオニアホテルはホテル・パレスよりランクは落ちるが、悪くないホテルである。正装のまま車を乗りつけてもおかしくはない。
 ケリーとジャスミンはそのままの格好でマクスウェル親子の部屋を急襲し、息子を拉致したのだった。



「夕べはたまたま俺達もジンジャーの舞台を観に来ててな」
「船長も来ているという話を聞いたんで、一杯付き合って貰おうと思ったんだ」
「時間も遅かったし、少しだけのつもりだったんだが」
「思いがけず話が弾んで、つい飲み過ぎてしまったようなんだ」
 大型夫婦によって口々になされた説明によると、つまり父は酔い潰れたという事らしい。二人の取った部屋で寝ているという。
 それをジェームスは意外に思った。
 ダンはそれほど酒に弱くないし、そもそもあまり無茶な飲み方はしない。翌日に約束があるとなればなおさらだ。
 ブラウニーの家でピグマリオンの乗組員が集まった時などに、ほろ酔いの父親を見た事はあった。
 仲間内で飲むと酔いが回る、と言っていたのを覚えていたジェームスは、この二人と父親はよっぽど仲が良いんだろうと思った。
 ――ダンにしてみれば恐ろしい誤解である。
 ジャスミンが口にした“話が弾んで”という理由は、少しばかり事実と異なっていた。
 確かに話は弾んだが、ダンの心境としては“ヤケ酒”というのが一番近い。
 だがもちろん、ジェームスにそんな事が分かるはずもなかった。遊園地は無理そうだ、と溜息をつく。
 そこでケリーが口を開いた。
「遊園地に行く約束をしてたんだろう? 俺達じゃ不満かもしれんが、嫌じゃなければ一緒に行こうかと思ってな」
 酔い潰しちまったから代役だ、と言う。
「でも、お二人とも寝てないんじゃないですか?」
 ジェームスが先に休んだのは深夜に近い時刻だった。その後で飲み初めて酔い潰れるまで飲んだとなれば、寝ている時間はないような気がする。
「いや? 二時間くらいは寝たと思うぜ」
 それって寝たうちに入るのだろうかとジェームスは思ったが、顔色も悪くないし無理をしている風でもない。
 こざっぱりと動きやすそうな服装で、すぐにでも出掛けられそうな二人の様子に、ジェームスはすっかり嬉しくなった。
「嫌だなんてとんでもない!」
 笑って言えば、ジャスミンも嬉しそうに破顔する。では決まりだ、と弾んだ声を合図に、ジェームスは急いで準備に掛かった。



 ロイヤルスイートの巨大なベッドで昼過ぎに目を覚ましたダンは、枕元に置かれていた置き手紙を読んでから、もう一度枕に顔を埋めた。
(すまん、ジェームス……)
 息子を生贄に差し出したような気分である。
 酷い眩暈と頭痛がした。
 このところ精神的な頭痛の種には事欠かないが、今回のこれは身体的なものだ。ここまで酷い二日酔いは、若い頃にも数えるほどしか経験がない。とても起きられない。
 昨夜――今から行くから、という音声通信は一方的で、異議を唱える間がなかった。
 訪問を知らせるノックの音に、文句を言ってやろうと扉を開けたら、そこには女王様が立っていた。
「…………お、かあさん……」
 呆気にとられてそれだけしか言えなかった。
 一歩間違えれば下品と言われてしまいそうな黄金色のドレス。
 色とりどりの色石を嵌め込んだ艶やかな装身具。
 そもそもが大きいのにかかとの高い靴を履いて、髪を高く結っている。
 まさしく、威風堂々というにふさわしい。
「やあ、ダニエル。上に部屋をとったんだが、少し飲んでいかないか?」
 にっこり笑ったその顔には、珍しく化粧が施されていた。
 眉は整えられ、睫毛は綺麗にカールし、唇は赤く染められて、意外なほどに女らしい。
 だが、間近にすれば政府高官であろうともその存在感に圧倒されるに違いなかった。きらびやかに装っているだけに大変な迫力だ。
 総帥時代の記録映像では大人しげな淑女に見えたものだが、今は間違っても淑女には見えない。まぎれもない女王の風格である。
 呆然としている間に、ダンはロイヤルスイートに連れ込まれてしまった。
 そこではこれまた正装の美丈夫が、手ずから酒肴の用意をしている。
「よう、ちびすけ」
「ちびすけは止してください!」
 反射的に叫んでから、ダンはつい顔をしかめた。
 この若い男が正装しているのをダンは初めて目にしたわけだが、どこのモデルですかと言いたくなるくらい完璧に決まっている。
 いや、モデルにしては迫力がありすぎるか。
 見惚れてしまいそうになる己を内心大声で叱咤したが、無駄な努力というものだった。この二人が並ぶと迫力がもう異様である。
 ――駄目だ。とても逃げられない。
 軽く肩を落としたのに気付いたのかどうか、急に誘って悪かったな、とジャスミンが言った。
「久々に着飾ったんで、おまえにも見せようと思ったんだ。どう思う、この格好」
 ちょっと両手を広げてその場でくるりと回ってみせる。
 少女のような仕草に、ダンは少し笑いを漏らした。
「――よく、お似合いです」
 正直な感想だった。普通に考えれば派手すぎるのだが、ジャスミンにはとてもよく映えている。
 上から下までを改めて眺めて頷いた。
「前の時は精一杯おとなしめに作っていたんですね」
 記録映像の淑女と同一人物とはとても思えない。
 ジャスミンは嬉しそうに笑うと、悪戯っぽく目を光らせてケリーを見やった。
「やっぱり親子だな。言う事が同じだ」
 ダンが思い切り顔をしかめたのは言うまでもない。



 出された酒は聞いた事のない銘柄だったが、やけに口当たりが良かった。
 飲み過ぎたのはそのせいもある。
 夕刻近くになってようやく起き出したダンは、よろよろと自分の部屋に向かった。
 チェックアウトを遅らせる手続きは済んでいると置き手紙にあったし、帰りの便に間に合うように戻ってくるとも書いてあった。気付いてみればロイヤルスイートの大きな窓には分厚いカーテンが引かれていたし、枕元には水差しが用意してあった。
 なんだかもういたれりつくせりである。
 ――だがまあ、責任は向こうにある。
 半ば無理矢理そう思い込む事にした。
 なにしろ、酒の肴として俎上に乗せられたのは、ダン自身の過去だったのである。
 もちろんジャスミンは眠っていたわけだから、ダンの人生の大半を知らない。
 ケリーが口にしたダンの過去は、学生時代の逸話から会社を興してからの話から、どこで見てたんだと言いたくなるくらい詳しかった。
「……まさか四六時中監視していたんじゃないでしょうね」
 いくらか調べさせたのは知っていたが、つい聞きたくなったのは仕方がない。
 気に掛けてくれていたのを少し嬉しいと感じる事は、絶対に認めるつもりはなかったが。
「俺だってそれほど暇じゃねぇよ」
 ケリーはあっさり言って肩を竦め、最後には本人も覚えていない幼い頃の初恋話まで持ち出した。
 もう飲む以外にどうしろというのか。
 ぐらぐらする頭を騙し騙し身支度を整え、荷物をまとめて待っていると、頬を赤くしたジェームスが目をキラキラさせて駆け込んできた。
「父さん、ただいま!」
「おかえり、ジェームス。一緒に行けなくて悪かった。楽しかったか?」
「うん、凄く!」
 こくこくと頷く息子の肩に手を置いて、送ってきた大型夫婦と挨拶を交わす。
 ――ごく当たり前の会話が、何故こうも白々しく響くのか。
 すっかり打ち解けたらしいジェームスは、ありがとう、と手を振って二人を見送った。
 ダンは引き揚げていく二人の背中に恨めしげな一瞥を投げ、まだ時間があることを確かめてソファに座りなおす。
 そして、気を引き締めた。
 親としては子供の話を聞かない訳にもいかない。何を聞かされるか、何を言いたくなるか、分かっていてもだ。
「でね、ケリーもジャスミンも凄いんだ! 自動二輪はプロ級だし、ロッドも凄い、ほんとに強くて!」
 案の定、興奮してまくし立てるジェームスの様子はダンが危惧した通りのもので、口を開かずにいるには多大な努力を要した。
 あんな人外生物に憧れるんじゃない、と言いたい。ものすごく。
 ――気持ちは、分からないでもなのだが。
 あの若い人たちが実の両親でさえなければ、ダンも恐らく惹かれていた。
 ――いや、実はすでに惹かれている。
 ただ関わりたくないだけで。
「ルウと暮らしてる男なんかより、断然かっこいいんだ! 二人とも!」
 弾んだ声の息子の台詞に頭を抱えたくなった。
 いや片方とは同一人物だから、とはまさか言えない。
 その“男なんか”が実は女で、実の祖母で、さっきの若い夫婦の片割れだなどとは、断じて言えない。
 言えないが。
「時間があったらまた稽古つけてくれるって!」
 喜色満面の息子に全てをぶちまけ、もう金輪際関わるなと叫んでしまいたい衝動にかられたダンは、どうにか治まっていた頭痛の再発に小さく呻いた。



おまけへ
―― Fin...2008.09.13
ありがとうございました。ブラウザを閉じてお戻りください。
 ダンフィーバー中に出た新刊にダンが出てこなかったので、勝手に出してみた。
 やっぱり不憫な事になるダン……(笑)

  元拍手おまけSS↓

「へえ、ケリーとジャスミンが?」
「楽しそうですね」
 休日の騒動などおくびにも出さず、金銀天使はジェームスの話に笑みを浮かべた。
 孫と遊べたジャスミンは、きっとすごく喜んだに違いない。なかなか微笑ましい――ダンには異論があるだろうが――家族の休日である。
「そういや、おまえらって前からあの人たちと知り合いなのか?」
 ジェームスの問いに、私たちがお会いしたのは最近ですけど、とシェラが答える。
「ケリーはルーファと長い付き合いだからな。向こうは前から俺の事を知ってたらしい」
 へえ、と返したジェームスは、少し考えてから真顔でリィに向き直った。
「なあ、ヴィッキー」
「なんだ?」
「ジャスミンはかっこいいよ。付き合いたいってのは正直分からないけど、かっこいいと思う。ただ、望みはないと思うぜ?」
 目を見張ったリィに、ジェームスは慌てて言葉を継いだ。
「いやほら、ケリーがさ。おれの目から見てもお似合いだと思うし、だからその、」
「知ってる」
 付き合いたい女の子の話題にジャスミンの名前を出した金色の天使は、心配するな、とにっこり笑った。
「俺はケリーの事も同じくらい好きなんだ」
 ジェームスには、これは訳が分からない。分からないが本気らしい。
 理解する事は諦めて、ならいいんだ、とちょっと笑った。
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