ヴェルナール校の操縦過程で学ぶジェームス・マクスウェルはその日、自身が所属するフォンダム寮の前で意外な人物と顔を合わせた。
まず目に入ったのは金と銀の天使達で、同寮の彼等は別に意外でもなんでもない。
その天使達が左右から顔を覗き込み、心配そうに声を掛けている少女――それが意外な人物だった。
「……リジー?」
初等教育を受けたブラウニーで同級だった少女である。
現在はログ・セール大陸にある中・高等学校に通っているはずで、入学以降顔を合わせた事は一度もなかった。
男女の違いからか次第に疎遠にはなっていたが、家が割合近かった事もあって、もっとずっと幼い頃には互いの家に泊まったりするほど仲の良かった相手である。
「どうしたんだよ、久しぶり――」
懐かしさに笑みを浮かべながら掛けた声は、途中で途切れた。
ジェームスに気付いた少女が俯かせていた顔を上げ、そのあまりの顔色の悪さに驚いたのだ。
「ジェームス――!」
少女はよろめきながらジェームスに駆け寄ると、体当たりするような勢いで胸元に縋り付いた。
「お願い、お父さんに――マクスウェル船長に会わせて! わたし帰らなきゃ……ママが……ママが……お願い――っ!!」
その声の悲嘆の色に、ジェームスは情けなくも硬直してしまった。
興奮して混乱している少女から、曲がりなりにも筋道立った話を引き出したのは、言うまでもなく金銀天使である。
ブラウニーのとあるホテルが爆発炎上した、という速報が流れたらしいのだ。
事故か事件かはまだ分かっていないが、相当数の死傷者が出ているらしく、その死傷者の中に母親がいる可能性が高いという。
「毎週その時間は……そのホテルで習い事してて……だからわたし、早く帰らなきゃ……」
早く帰らなきゃ――と、少女はうわごとのように繰り返す。
「ちょっと待ってください。巻き込まれたと決まった訳ではないんですね?」
銀の天使が眉を寄せた。
「まずはそこをはっきりさせるべきだな。――ジェームス。船長は今日、事務室にいるのか?」
「う――うん」
「じゃあ行こう。あそこなら恒星間通信も出来る」
金の天使が踵を返し、少女の背を押して銀の天使が続く。
二人がいてくれて良かったと、ジェームスは心底そう思った。
非常勤講師ダン・マクスェルの事務室で、事情を聞いたダンは即座に続報を検索した。
大規模な爆発、それに続く炎上――事態は未だ収束しておらず、現場は相当な混乱状態にあるようで、それは断片的な情報からも窺い知る事ができた。
少女が告げた連絡先への恒星間通信は、応答なし。
これだけでは、単に留守なのか巻き込まれたのか判然としない。
現場が混乱し、情報が錯綜している状態で、一個人の安否を確認するのは骨の折れる作業である――が、今回に限っては更に二回、回線を繋ぐだけで事足りた。
一度目は、少女の所属寮の寮監――恒星間通信に規制のある中学生が外部からの連絡を受ける際、必ず情報を得る立場の人物である。
寮監は深刻な表情で、探していたのだ、と口にした。
少女が携帯端末を置き忘れて来たらしい事に、ダンはそこでようやく気付いた。
二度目は、ブラウニーの病院――寮監がここにかけろと言った先に、少女の父親が居たのだった。
血の気の失せた父親の端正な顔立ちには覚えがあった。
七、八年も前だろうか。ジェームスと二人ではしゃぎまわって、眠り込んでしまった少女を迎えに来たのが、この父親だった。ダンが辺境最速と言われるピグマリオンの船長だと聞かされてきたのだろう――握手を求められた事を覚えている。
通信相手がダンだと知って、彼は恐縮して頭を下げた。
「そんな事は構いません。ではやはり、巻き込まれて――?」
無意識のうちに声を落としてそう問うたが、通信先とその顔色で答えは知れる。
「いま処置が終わったところです。――もって……三日だと……」
「――っ!!」
声のない悲鳴が背後で響き、ダンは固く目をつぶった。
「どんなに急いでも五日はかかる……」
喰いしばった歯の間から呻くように漏らす。
再生装置は――とは言わなかった。再生装置を使用した治療は高価だし、普通は保険も適用されない。特約をつければ話は別だが、警官など危険性の高い職種でもない限りそこまではしないのが一般的だった。
ましてやこれだけの大惨事である。そもそも装置の数が足りていないと見るべきだろう。
「ええ、分かっています。ご迷惑はおかけしません」
気丈な父親は蒼白な顔に笑みらしきものを浮かべ、震えている娘に声をかけた。
「リジー、ちゃんと定期船で帰ってきなさい。こういう事情だから、予約がなくても何とかしてくれるだろう。すぐに荷物を纏めて――いいね?」
どうせ間に合わないから、などとは言えるものではないが、そういう事だと誰もが分かった。
通話を終えて病院の騒然とした空気から切り離されると、身じろぎひとつも出来ないような重い沈黙がその場に満ちる。
――ダンも昔、妻を失った。
やはり死に目には間に合わず、ダンが着いた時にはもう、ミアの華奢な肢体は静謐に包み込まれて、どんな言葉も届かなくなっていた。
意識がなくても命があれば、声の一つもかけただろう。けれど――。
あの侵しがたい静謐を、ダンは未だに覚えている。
言葉も涙も封じられて、ただひたすらに空虚だった。
間に合わないとは、そういう事だ。
だから――。
「……待ちなさい」
呆然と目を見開いて、それでもぎこちなく頭を下げて出て行こうとした少女を、ダンは意を決して呼び止めた。
これが普通の仕事なら、胸を痛めながらも黙って見送っていただろう。
だが、大切な人を失おうとしているのは息子の友人で、死にかけているのはその母親だった。ましてや知らぬ仲でもない。
持ち直すかもしれないなどと、気休めを言うつもりはなかった。
急げば間に合うかもしれないなどと、楽観もしない。
人には出来る事と出来ない事があって、玄人(プロ)であるダンはその境界を知っていた。
それでも僅かな可能性に賭けるというなら出来るだけの事はしただろうが、それを決めるのはダンではない。
ただ――間に合う可能性の高い手段を、ダンは一つ知っていたのだ。
「心当たりを当たってみる。待ちなさい」
硬い声で言って通信機に向き直る。脳裏には古い記憶がよみがえっている。
ショウドライヴを駆使し、最高速度でここから十八時間ほどの宙点に、ゲートがあるのだ。安定性の悪いゲートで駅も設置されなかったが、突出先からブラウニーまでは約二十時間――。
「どうした、船長」
華やかな美貌が通信画面に映り、ダンを見て笑った。
キング・オブ・パイレーツ――あの華々しい噂話の半分でも本当なら、恐らく間に合うはずだった。
「ケリー……」
ダンは拳を握り、一度大きく息をしてから切り出した。
「頼みがあります」
使えるものなら何でも使う。たとえそれが、存在しないはずの父親のゾンビであっても。
己の心中の複雑さなど、黙殺すべき時だった。
「――分かった。二時間もあればそっちにつくから、宙港で待ってろ」
《パラス・アテナ》の操縦席で通信を終えようとしたケリーは、割り込んできた声に手を止めた。
「俺も行く!」
「ジェームス」
「俺だって小母さんが心配だ! それに――」
言い淀んだ言葉の先は、運んで欲しいという女の子を気遣うものだろう。
こちらを窺う様子のダンに、分かったと言う代わりに頷いて、ケリーは通信を切った。
「というわけで、行き先変更だ――ダイアン」
「了解。もう向かってるわ」
優秀な相棒は、いつの間にかアドミラルのタクシー運転手の格好になっている。
「あなたが生き返ってから、ずいぶん賑やかになったわね」
白手袋の腕を組んでくすりと笑った。
《パラス・アテナ》は今までずっと、ケリーとダイアナ、二人だけの船だった。
《パラス・アテナ》になる前からずっと二人でやってきたのに、ケリーが戻ってきた途端、ジャスミンのみならず三天使にゾンビ達にデモンにダニエル、今度はジェームスに見知らぬ女の子までが乗船する。
「悪いな」
「いいのよ。ダンの頼みですものね。――ジェームスが来るなら、私は出て行かない方がいいかしら?」
ダイアナは見るからに普通ではない存在だ。こんなものが感応頭脳を名乗って目の前に現れたら、ジェームスは目を回してしまうだろう。
それに、ダイアナ・イレブンス――クレイジー・ダイアンの名は、海賊王の船として一部では有名な話なのだ。ジェームスも恐らく知っている。
「ああ、そうだな。悪い」
「だから、いいのよ。貴方の息子の頼みですもの」
副操縦席に収まっていたジャスミンは、ここでようやく口を開いた。
「海賊――顔がにやけてるぞ?」
言うほど変化はない上に、状況を考えれば不謹慎でもあったが、なんとなくそんな気がしたのだ。
「そうか?」
驚いたように目を見張り、ケリーが掌で顔を撫でる。
「頼ってくれて嬉しいなら嬉しいと、正直に言ったらどうなんだ」
にやりと笑ってそう言えば、変態の夫はごく簡単に、嬉しいな、と口にした。からかい甲斐のない男である。
「まあいい。――複雑な子供心を押しての頼みだからな、間に合うといいんだが」
「そうだな」
三日の間に着いたところで、持ちこたえていてくれなければ意味はない。
《パラス・アテナ》には再生装置が積んであったが、ケリーもジャスミンもそれには触れなかった。人は誰でもいつか死ぬ。そこまでしてやる義理はない。
「じゃあ急ぐか」
普通なら二時間程度で着くはずもない宙域にいた船は、連邦大学に向かって跳躍を開始した。
―― ...2009.01.06