旅の途中 1
Written by Shia Akino
 南国の宵は花の香り――などという感傷的な一文を記した詩人がいたらしいが、“鍋と鎧亭”の看板娘であるアニーに花の香りを楽しむような余裕はまったくなかった。
 大陸南部の小国、その首都で半年に一度開かれる大市は、半年に一度のかき入れ時なのだ。
 “鍋と鎧亭”は宿屋だが、こういった宿によくあるように一階の一部が食堂になっている。さして広くもない小さな店だが、大市の時期だけは戦場のような忙しさだ。
「アニー、こっちに腸詰めを頼む」
「揚げ鶏持って来てくれ」
「麦芽酒まだかー」
 栗茶の髪を振り立ててごった返した店内を駆け回るアニーに、あっちからもこっちからも声がかかる。
「もう! ちょっとくらい待ちなさいよ! 手ぇ回んないっての!」
 客のほとんどは大市のたびに顔を見る馴染みの商人なので、扱いは結構ぞんざいだ。
「火酒があるって?」
 通り過ぎようとしたテーブルから、涼やかな声がした。珍しく商人ではなく、傭兵らしい二人連れの宿泊客だ。傭兵にしては小柄な壮年の男と、傭兵というには若すぎる細身の少年――声は少年のものだった。
「あるわ。デルフィニアから直輸入。でもちょっと待って」
 アニーと同じ年頃のその少年が、宿泊の受け付けをした妹が大騒ぎしていた超絶美形だというのには気付いたが、とにかく今は構ってられない。
 両手一杯の料理の皿を注文通りに置いて回り、外に通じる扉の前に到達した時、ちょうど入ってきた亜麻色の髪の青年と目が合った。
「悪いけど満席」
 そっけない一言にたじろいだように足を引き、顔色の悪い青年は中途半端な角度で首を振る。
「いや、待ち合わせなんだけど……」
「じゃあ勝手に探して」
 言い捨てて、アニーはそれきり青年の事を忘れた。



 傭兵にしては小柄な壮年の男――アスターは、未だ一つの皿も来ないテーブルに麦芽酒の入った容器を置いて、切ない溜息を吐いた。腹の虫が唱和してますます切なくなる。
「どこもこうなのかね……」
「だろうな……」
 宿泊手続きをした時にはさほど混んでもいなかったのだ。観光客気分で市を巡り、戻ってきたら混み始めていた。屋台でいくらか腹に入れたのでのんびり構えていたらこの有様で、客は増える一方だし、料理は一向に来ないときている。どうやらしつこく主張しないと注文が通らないシステムになっているらしい。さすがは商人向けの安宿だ。
 訪ねてくる者があるはずなので、店を変える事も出来ない。ああ切ない。
 アスターはもう一度溜息を吐き、頬杖を突いてケリーを見やった。
 相変わらず無駄に綺麗な顔だ。
 褐色の肌が滑らかなのは若さゆえと思いたいところだが、顔立ちの華やかさときたら、女でもここまで綺麗なのはそうはいない。
 かといって女に見えるというわけでもなく、細身でありながら強靭で、野性味を帯びた色気があるのだ。
 ……こんなコドモに色気がどうとか言いたくはないのだが。
 宿泊手続きをしてくれた少女が頬を真っ赤に染めていたが――これは理想の王子様じゃないんだぞと、忠告してやりたい気分に襲われたものだ。
 これは理想の王子様ではない。全然ない。けっこう非道い。
 それにはこれから訊ねて来る青年も同意してくれるはずで、実のところ切ないのは空腹の為ばかりでもなかった。青年の心中を慮るとまったくもって切ない。

 日中、観光客気分で回ってみた大市はたいそうな賑わいだった。
 切り出した砂岩で組まれた街には緑が少なく、全体に白茶けて色みに欠けるが、それを補って余りあるのが露店の屋根や店舗の庇として張り巡らされた天幕である。ごちゃごちゃと寄り集まった店々は、色とりどりの天幕の下でおのおの商いに精を出し、客の気を引く口上がいくつも上がって聞き取るのも難儀なほどだ。
 大鍋いっぱいの油で丸ごとの鶏を豪快に揚げている男の隣で、酸味のある果実に薄く切った肉を巻き、大汗をかきながらあぶっている女がいる。
 ごく狭い面積にこれでもかというほど商品が積み上げられ、自身の身体より大きな荷を負ったロバが行く。崩落しないのが不思議なくらいだ。
 店舗と露店と物売りと客がひしめく中、ケリーが不意に立ち止まったので、アスターは二歩ほど行き過ぎてから振り向いた。
「よう、奇遇だな。元気そうじゃねぇか」
 明るい声を上げるケリーの視線を辿れば、亜麻色の髪の青年が目を丸くして立っていた。
 その口から奇妙な音が漏れるのを、アスターは確かに耳にしている。聞き間違いでなければ“ひょえっ”だった。あんまり鋭く息を呑んだので音になってしまった感じだ。みるみるうちに血の気が引いて、青年は真っ青になった。
 身なりは商人のようだったが、取繕う間もない心情の表出に、アスターは商人という人種に対する苦手意識も忘れて心の底から同情した。
 可哀想に。
 ケリーに関わった事で、青年はよほど酷い目にあったのだろうと思われる。肩を抱いて慰めてやりたい気分だ。
 ケリーに心酔していると自覚の出てきたアスターですら、常識だとか平穏だとか良識だとかを返してくれ! と喚きたくなる事はしょっちゅうなのだ。関わるまいとしていたのなら、思いがけない再会は山中で狼に遭遇するより恐怖だろう。
「なんだぁ、おい。逃げるこたねぇだろう」
 くるりと背を向けて歩き出した青年に、ケリーが驚いたような声をかける。
 分かってない。
 普段滅法鋭いくせに、ケリーは時折ひどく鈍感だ。
 逃がしてやればいいものを――アスターはなんだか涙を誘われるような心持ちで青年を見やった。彼はくるりと向き直り、真っ青な顔のままぶるぶると首を横に振る。
「いやそんな逃げるだなんて滅相もないただその、わたくし急いでおりまして!」
「ああ、仕事中か? 悪かったな」
 軽く謝りながら、立ち話には向かない往来の真ん中から道の端へと相手を促し、ケリーは続けた。
「ちょうどいい所にいてくれたぜ。頼みたいことがあるんだが、後で“鍋と鎧亭”って宿まで来てくれねぇか?」
 無頓着な要望に青年はふらふらと首を振ったが、横に振っているのか縦に振っているのか、たぶん自分でも分かっていない。
 ああ――このまま逃げてしまいたいと思っているんだろうなぁと、でも後が怖くて逃げられないんだろうなぁと、アスターは思った。

 まったくその通りだったわけだ。
 強張った表情で姿を現した青年とほとんど同時に、頼んだ料理がまとめて届いてテーブルに並んだ。
 つまり、この青年は待たずに食事にありつけるというわけだ。
 たいそう切なかった待ち時間に報いるために、アスターは青年を哀れむのを止めることにした。



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―― ...2009.05.23
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