旅の途中 2
Written by Shia Akino
 レザン海運の情報屋である青年は、デルフィニアを遠く離れた異国の地で、二度と関わりたくないと心底思っていた少年と再会してしまった。
 そもそも国外での情報収集役を志願したのは、この少年から出来るだけ離れていたかったからだというのに――いったい何の因果だ。
 ものすごく逃げ出したかったが、出来なかった。バレたらボスに殺されるだけではなく、なんだか分からないがとにかく彼には逆らえない。
 断頭台に上がるような心地で顔を合わせ、アルは元気か? などと無邪気に聞かれて引き攣った笑みを返す。
 裏社会に知らぬ者のないレザン海運――その会長をこうも親しげに呼ぶのは、一部の肉親以外には恐らくこの少年だけだろう。
 少年とはいっても、そろそろ大人と呼んでもいいような年齢にはなっている。
 もともと秀麗だった顔立ちに精悍さが加わり、しなやかで均整の取れた体つきはずいぶんと背丈が伸びていた。
「それで、頼みたいことと言うのは……?」
 おずおずと切り出した青年に、ケリーがきっぱりと告げる。
「金を貸してくれ」
「「はあ?」」
 声が重なったことで、青年はようやく連れらしき男をまともに見た。中肉中背というには少しばかり大柄な、どこにでもいそうな壮年の男――ではあったが。
「ア、アス――」
 思わず息を呑んだ。
 アスタロト・グランディー。上級か最級か意見の分かれる、それでも間違いなく文句なしの実力を誇る傭兵団グランディー――その、副団長。
 直接面識はなかったが、情報屋という職業柄、似てない似顔絵以外でも有名どころくらいは抑えてある。間違いなくその人だ。
 ケリーの衝撃発言に丸くしていた目を細め、アスタロト・グランディーは青年を一瞥した。それ以上喋るな、とその目が雄弁に語っていて、青年は慌てて口を閉じる。
「なんだ、知り合いか?」
「知り合いといえば知り合いだが、それよりケリーおまえ、金を貸せとはどういうことだ? この前の用心棒代、使い切ったとか言わないよな」
 眉根を寄せてアスターは問うた。つい先日、とある金持ち商人の警護を終えたばかりで、懐はけっこう暖かいはずだ。
 ケリーはちょっと肩をすくめ、欲しいものがあるんだが高くてな、と口にした。
「い、いかほどで?」
 告げられた金額に二人はまたしても奇声を上げる。
「おまっ、家買えるぞそれ」
 それも、一等地にかなりの規模のお屋敷を、だ。
「私の裁量でどうにかなる額ではありませんっ!」
「だよな」
 言ってみただけだ、という調子でケリーは溜息を吐き、頬杖を突いた。
「まったく……ひでぇ冗談だ」
 どうしたものかと頭を捻るケリーを唖然として見やり、アスターは眉を寄せる。
 金で買えるような品物にケリーが執着を示したことはかつてない。
 というか、何に対してもおよそ執着するということがなかった。そぐわないといえばこの上なくそぐわない言動である。
「一体何が欲しいんだ?」
 貴族であってもそう簡単には融通出来ないような金額だ。金を借りてまで手に入れたいという代物が一体なんなのか――聞いてみて、度肝を抜かれた。
「首飾り」
「「はあぁ!?」」
 またしても声が揃った。
 首飾り。
 剣でも船でも馬でもこれほどは驚かなかっただろうが――首飾り。
 うっかり想像してしまったのは、豪奢な首飾りを女に捧げて愛を乞うケリーの姿だった。
 眩暈がする。似合わない。というかもはや気持ち悪い。
 実際に吐き気までしてきて口元に手を当てると、亜麻色の髪の青年も同じように口を覆っている。
 哀れみの代わりに、なんだか妙な親近感が湧いてきた。



 商人向けの安宿は夜が早い。蝋燭も油もタダではないし、なにより商人達は朝が早いのだ。
 大通りに面した観光客向けの酒場などから遠く喧騒が響いて来るが、“鍋と鎧亭”はとうにしんと寝静まっている。
 深夜を回って戻ってきたケリーは、なにやら大荷物を抱えていた。
 薄目を開けてそれを見やり、アスターは声をかけるかどうかを迷う。
 用事を済ませてくるというケリーが、手伝え、と言って青年を連れ出した後も、アスターはその場に残って他の客と賭け事などやっていた。
 戻ってくるのを待たずに先に休んだし、何をしに行ったのかを詳しく聞き出す気もなかった。
 生まれたてのひよこのように付いて回るなぞ矜持が許さなかったし、なにより分を弁えるべきだと理解していたからだ。
 ケリーとは、相棒と呼べる立場にあるが、それはあくまで仮のものだ。
 アスターは以前一度だけ、戯れにケリーを“相棒”と呼んだことがあった。連れ立って旅をして、組んで仕事をして、けっこう経った頃のことだ。
 彼はちょっと目を細めて、片頬だけで笑った。
 否定も渋面も返っては来なかったが、アスターはそれを柔らかな拒絶だと感じた。
 柔らかく穏やかで、けれどつよい、拒絶。
 その時に気付いた。
 彼には恐らく、相棒と呼べる者がいるのだ。替えの効かない、誰かが。
 以来、ケリーを“相棒”と呼んだことはない。
 彼の隣は心地よく、手放し難い位置ではあるが、それを当然などと思うつもりはなかった。アスターにはアスターの帰る場所があるし、そこを捨てる気は微塵もない。
 ケリーは自由で、繋ぎ止める事など出来るわけがなくて、ならばいつかは別れるしかない。それが分かるアスターだからこそ、ケリーの隣に居られるのだろう。
 安宿の床板をほんのわずかに軋ませて、ケリーは衝立の向こうへ消えた。
 見知らぬ者同士の相部屋としても機能する一室だ。寝台と寝台を分ける衝立は大きく、その向こうを窺い知る事は出来ない。
 首飾り云々に関して、アスターにはひとつ心当たりがあった。
 アスターとケリーはここ数日、とある金持ち商人の警護をしていた。怪我をした正規の護衛の代役である。
 一時期物騒な立場に置かれていたらしい雇い主だが、二人が警護している間は特に何も起きなかった。のんびりしたものだったが仕事は仕事で、アスターもケリーも雇い主に危険が及ばぬようそれなりに気を張っていたのだが、一度だけ――ほんの一瞬だけ、護衛中に雇い主からケリーの意識が離れた事があったのだ。
 それは競売の下見会で、煌びやかな装飾品やら歴史ある名画やら、アスターにはさっぱり価値の分からない壷やら器やらが披露されている会場での事だった。
 高価な首飾りというからには、あの場にあった首飾りのどれかだろう。
 なんであんなものが欲しいのか、やっぱりさっぱり分からない。聞いてはみたが答えなかったし、ケリーが言わないと決めた事を聞き出すのは至難の業――というよりはっきり無理だ。
 まあ俺には関係ない、と半ば言い聞かせるように考えて、アスターは上掛けを引き上げた。



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―― ...2009.05.26
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 ケリーには、ふとした拍子に空を見上げるという癖がある。
 初めのうちは「良い天気だな」とか「雲が出てきたな」などと声をかけていたアスターだったが、いつだかに「降ると思うか?」と聞いた時、それが癖だと分かった。
 ケリーは驚いたように一瞬アスターを見て、改めて空を見上げてから「夜まではもつだろう」と答えたのだ。別に空模様を確認していたわけではないらしい。

 ケリーが見ていたのは遠い何かだった。
 手の届かない、いとおしいもの。

 癖だと分かって見てみればそんな風にしか見えなくて、だからアスターはもう声をかけない。
 陽光に目を細め、満天の星を仰いでケリーは彼方を見やる。
 その仕草はアスターをひどく安堵させた。
 自由で、なにものも心に留めず、出来ない事など何一つないかのようなこの少年にも、愛しむものがあるのだ。
 それがいま遠くにあるというだけで、永遠に失われたものではないよう、アスターは密かに願っている。
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