豪奢な馬車とそれに乗り込んだ貴公子とのせいで、“鍋と鎧亭”は一躍渦中に放りこまれる事となった。
宿泊客の大半が出払った後の騒動であったにも関わらず、人の口に戸は立てられぬとの言葉通り、安宿に滞在する貴公子の噂はその日の内にその界隈を席巻したのだ。
どこぞの貴族の隠し子だの、いやいや国王の落とし胤だのと勝手な憶測が飛び交ったあげく、夜も更ける頃にはこんな話が出来上がっていた。
彼はとある大国の王位継承者で、悪心を持った家臣に父王を殺され、庶子を推す悪臣に自身も命を狙われて、復讐を誓いつつ忠実な家臣と共に逃亡中だというのだ。
忠実な家臣というのがつまりはアスターである。
いったい何の冗談だ。
実のところ、当たらずとも遠からずというかまったく近くはないのだが、道具立てだけは多少なりとも当たっていなくもない。
デルフィニアという大国の王位継承者だと噂を立てられ、庶子以外に子を持たない国王の継承問題を背に、ケリーは彼の国を出てきたのだ。
もちろんアスターはそんな事は知らない。
何者だと問われたところで、聞きたいのはこちらだと返すしかない。
ところが相手はまるで信じず、それは言えないよな、などと訳知り顔で頷かれる始末だ。
――どうしろと。
とてもじゃないが食堂でのんびり飲んでもいられず、アスターは酒瓶を抱えて早々と部屋に引き籠もった。手酌で杯を呷りながら、文句の一つも言ってやるつもりでケリーの帰りを待つ。
ところがその日、ケリーは帰らなかった。
少し出かけてくる、との台詞からも戻るつもりがあったのは確かだが、現れたのは従者の格好から商人の姿に戻った青年だったのである。
「申し訳ないですが入れてもらえますか、アスタロト様」
背後を気にする青年はまったく商人以外の何者でもなく、これが話題の貴公子の従者とは誰も気付いていないに違いない。
「……アスター、だ」
短く名前を訂正して、アスターは青年を室内に招き入れた。その倦み疲れた様子にほだされて、あれこれあった文句は飲み込んでしまう。我ながら人の良い事である。
「ケリーはどうしたのだ?」
「しばらく戻れそうもないと伝えるように言いつかって参りました。二、三日したら抜け出すので、なんだったら先に行くように、と……」
勝手なものだ、とアスターは息を吐き、青年を座らせて酒を勧めてやった。なにしろ相当疲れている。あれに付き従っていたのなら無理もないが。
「戻れないって、どこに居るのだ」
青年は眉間に皺を寄せ、魂ごと吐き出しそうな溜息と共に答えた。
「…………王宮にお泊りです」
「王宮――って……」
王宮といえば国王の在所だ。小国とはいえ、一介の傭兵に泊まれる場所ではない。
少し前なら驚愕のあまり叫んでいたかもしれないが、あれが一介の傭兵だなんて、アスターももはや信じちゃいなかった。国王に歓待されて戻れないのだろう。ああそうだろうとも。
それがまったくの事実だとまでは考えず、アスターはがっくりと寝台に座りこんだ。青年に負けず劣らず深い溜息を吐く。
「あれはいったい――何者だ?」
青年は黙して答えず、ただ疲労の色を一段と濃くした。
「あれとは以前から知り合いなのだろう。どういった関係だ?」
返答はやはり沈黙。
「そもそもおまえは本当に商人か? 衣装だの馬車だのを手配したのはおまえだろう。ケリーがこの辺りにそんな伝手を持っているとは思えんからな。そこからして解せん。従者の真似までして……」
あれだけの品を揃えるには相当手広い伝手がいる。ましてや借り受けるとなると返さねばならず、確固たる信用が不可欠だ。こんな若造に手配できるものとも思えなかったし、そもそもなんだってそこまでするのだ。
青い顔をして、倦み疲れて、関わりたくないと本気で思っているのだろうに――それでも、惹かれるのか。
なおも無言の青年にアスターはひとつ溜息を吐き、酒瓶に手を伸ばして持ち上げた。
「まあ、いい。――飲め」
掲げて見せれば、青年は杯を差し出してほんの少し微笑う。
今は遠いデルフィニアで、独立騎兵隊長が同じ言葉を同じ調子で口にした時の事を彼は思い出していた。あの時もやはり、酒席の話題はあの少年だったりしたものだ。
どこに行ってもケリーはケリー――元の世界の友人達に言わせれば、そういうことになるかもしれない。
大市が終われば街は落ち着きを取り戻す。
年に二度の収入がほとんどすべての安宿の家人達は、この間は内職に精を出し、あるいは店を閉めて郊外の農場に移り、余裕のある者は休暇を取って、通りから姿を消してしまう。
大市の間中駆け回っていたアニーも、今はただ頬杖を突いてぼんやりと受付に座っていた。行き交う商人達もほとんどいない閑散とした街は、白茶けたまどろみの中に沈んでいる。
きぃ、と扉の開く音がした。
はっとして顔を上げたアニーは決まり文句を言おうとして――口を開けたまま止まった。
そこには、人の形をした黄金の炎が立っていた。
白皙の美貌を黄金の髪が縁取り、どんな宝石より鮮やかな緑の瞳が煌めいて、生きた生身の人間だとは信じられないくらいに美しい人だ。あんまり綺麗で、男か女かすら良く分からない。
「い、いらっしゃいませ。お泊りですか?」
上擦った声をかけたところで、黄金の炎の背後にもう一人たたずんでいることに気付く。海色の瞳と、ぬめるような黒髪――こちらは人の形をした夜だった。星を含んで光る闇。
呆然と動きを止めた少女に、悪いけど客じゃないんだ――と、リィは努めて柔らかく声をかけた。油断すると詰問口調になってしまうのだ。そのせいで、“噂の宿屋”を聞きだすのに外で一悶着起こしている。
「人を探してる。少し前にここに泊まってた男について聞きたいんだ。ケリーって名前で、黒っぽい紫の髪に琥珀の眼をした……美形……なんだけど……」
言葉の途中で相手の表情が目に見えて険しくなり、リィは思わずルウと顔を見合わせた。不快感を隠しもしない少女に、今度はルウが語りかける。
「あの、どこに行ったか分からないかな? 手掛かりになりそうな事なら何でも、」
「――あたしが知るもんですか!」
最後まで言わせず吐き捨てて、アニーは意味もなく手元の帳面を捲った。思い出すのも忌々しい。人とは思えないほど美しい人の訪問よりも、アレに対する忌々しさの方が断然強い。
なにしろ殺されかけたのだ。
とにかく多忙な大市の期間中、姉が嫁いで人手不足の感は否めない“鍋と鎧亭”を騒ぎの渦中に落とし込んでおいて、彼はあっさり姿を消した。この界隈には不似合いな豪奢な馬車で駆け去った後は顔も見せず、連れの男まで翌朝には出立。噂話の矢面に立たされた一家には詫びも説明も何もなかった。
なにより、そうでなくともステキだのカッコイイだのと騒いでいた妹が、少年の貴公子然とした姿を目にして数日使い物にならなくなってしまったのだ。魂を抜かれたかのように夢見心地で上の空――殺人的な忙しさの最中に、である。
あの時は本気で死ぬかと思った。
妹が我に返るのが一日遅かったらたぶん死ねた。
呆けてしまった妹も忌々しいが、その気持ちが分からないでもない辺りが重ね重ね忌々しい。
「そのぅ……ケリーが何か、したの?」
「妹を使い物にならなくされたのよ」
素っ気なく言い放ってから誤解を招く表現だと気付いたが、構わなかった。
「何をしてやがるんだ、あの野郎……」
黄金の炎が肩を落とし、絶望的な表情で顔を覆う。
光る闇がその肩を抱いて、仕方ないよキングだもん――と、乾いた笑いを漏らした。
そのころのケリーはといえば、地元民すら突っ切ろうとはしない広大な密林を、アスターと共に行軍中だったりする。極彩色のトカゲを射止めて「喰えるのか?」と首を傾げ、連れに溜息を吐かせたところだ。
見つけたら絶対殴ってやると決意を新たにしたリィのことなど、当然知りもしなかった。
―― Fin...2009.06.17
ギャスギャスギャス――と、鳥だか獣だか爬虫類だか昆虫だか何だかよく分からないがとにかく何か生き物の声がした。
出所の分からない音にそれでも視線を彷徨わせ、垂れ下がる蔦やら絡み合った枝やら、ろくに日も射さないせいで苔だらけの地面やら、行く手を阻む藪やら盛り上がった根やらを目に入れて、アスターは深々と溜息をついた。
「なあおい、ケリー」
前を行く少年の背に声をかければ、振り向きもせずに「なんだ」と答える。
「やはり迂回するべきだったとは思わんか」
「思わんな。突っ切ったほうが早い」
距離だけならばそうだろう。歩き難さを考慮に入れても、真っ直ぐ行けば確かに早い。だがしかし。
「迷ったら死ぬと思うのは俺だけか」
当たり前だが道などないのだ。迷ったら早いどころの話ではない。空は緑に覆われて月も太陽も見えはしないし、方角を違えてもたぶん気付かない。
妙に確信的な足取りでさくさく進む少年は、「迷わなければ死なねぇよ」とやはり振り向かないままそう言った。
「…………ではせめて磁石を見てくれ。頼むから」
それ以外の方法で方角が分かるのだとしても。アスターの精神衛生上、こまめに方角を確認してみせて欲しい。頼むから。
「――ああ」
いま気付いた、というような声を漏らして足を緩め、ようやく懐から磁石を取りだした少年に、アスターは再度溜息をついた。