翌朝、前夜の内に持ち込んだあれやこれやを寝台の上にぶちまけて、ケリーは小さく溜息を吐いた。
まったく、ひどい冗談だった。
つい先日、雇い主に同行して赴いた競売の下見会で、ある物を見てしまったが為にこんな事になっている。
爵位を継いだとある貴族が出品した先代の遺産とやらが、以前盗難の浮き目にあったデルフィニア王家のお宝だったのだ。
犯人は捕まったし、ほとんどはペンタスで発見されているが、いくつか未だに見つかっていない品がある。
知らせてやろうかと考えて、その時ケリーは珍しく愕然とした。
あの王様と連絡を取るべき事態になって初めて、この世界の迂遠な通信手段に思い至ったのだ。
(下手すりゃ片道に半年……?)
ちょっと呆然としてしまう。
庶民ルートで手配したら本気でそれくらい掛かりかねないし、上を動かして直行船を仕立てたにしても、二ヶ月や三ヶ月は軽くかかるだろう。
あの国を出てから、もはや短いとは言えない年月が経過している。ここにきてようやくそんなことに思い至るケリーもケリーだが、連絡しようと考えた事がなかったのだから致し方ない。
彼の人物に話を通して向こうから働きかけてもらうには時間が足りなかった。競売はわずか三日後である。商人などに買われてはどこに流れるか分からないし、見過ごしてしまうには義理も恩もありすぎた。
買って送ってしまえれば話は簡単だったのだが、王家のお宝ともなれば――恐らく出品者も競売人も知らないのだろうが――高級品なだけに半端な額ではない。思いがけず遭遇した情報屋に話を持ちかけてはみたものの、無理だろうとは分かっていた。
こうなると、身分証を見せて事情を説明し、出品の取り消しを求めてデルフィニア政府に連絡するよう薦めるより他に道はない。
となれば、信用させるためにもそれなりに見られる格好をしなくてはならない。
気楽な旅装束を脱ぎ捨て、情報屋の伝手で急遽揃えた衣服その他を身に纏いながら、ケリーはもう一度溜息を吐いた。
「父さん母さん兄さんアニー! 大変! 大変よ!」
“鍋と鎧亭”に末娘の悲鳴が響き渡ったのは、宿泊客の商人達が出払い、戻ってくる夕刻にはまだ間のある昼前の事だった。
「何、どうしたの」
「馬車……馬車が来た」
「――はあ?」
肩で息をしている妹を前に、アニーは思いきり顔を顰める。
「馬車の何が珍しいってのよ。こっちは仕込みで目ぇ回りそうなんだから、あんた手ぇ空いてるなら手伝ってちょうだい」
大市の時期だけでいいから、嫁いだ姉にはやっぱり帰ってきて貰いたいところだ――そんな事を考えているアニーの腕を取って、妹は苛立たしげに首を振った。
「それどころじゃないんだってば。いいから来て!」
引きずる。
向かう先は宿の正面入り口だ。
大量の荷を扱う商人の為に、通用口には数件の宿で共有する馬車溜まりがあるのだが、そちらではない。
かなりの勢いで引きずって来られたアニーは外に出たところで解放され、たたらを踏んでようやく止まった。
その鼻先で、つややかな毛並みの立派な馬が二頭、鼻を鳴らして首を振った。
――馬車だ。
二頭立ての、屋根付きの――ドアノブは磨きあげられた真鍮、小窓には絹のカーテン、どうやら座席はビロード張りで、馬具には連なる金の鈴――あきらかに荷馬車ではない。
見ていてくれとでも言われたのか、隣家の息子が手綱を押さえ、泣きそうな顔で途方にくれていた。隣近所からは人が出て、あるいは窓から首を伸ばし、豪奢な馬車を遠巻きにして騒いでいる。
この時刻、安宿の寄り集まったこの一角は本来人気が少ない。通るのはせいぜい迷いこんだ観光客くらいで、宿の者はみな各々の仕事に精を出しているはずなのだが。
――なにこれ。
時ならぬ騒ぎの元凶にアニーはぽかんと口を開け、次いでぎゅっと眉根を寄せた。
「どっこのお貴族さまの馬車よ! 店先に止めるなんて常識ないわね、邪魔じゃないのさ!」
高貴な方々がなんの気まぐれでこんなところに出現したのか分からないが、通用口の馬車溜まりに止めないあたりが腹立たしい。
「御者はどこに行ったわけ!?」
「ちょっとアニー!」
アニーの無礼な物言いに、妹が慌てて腕を掴んだ。
どこに行ったも何も、止まっている場所が場所なのだから、馬車の主の目的は“鍋と鎧亭”かその宿泊客にあるわけで――。
「悪いな。すぐに出る」
背後からかかった苦笑気味の声に振り返り、アニーはあんぐりと口を開けた。
あんぐりと口を開けたのはアニーだけではない。この少し前、衝立の影から出てきたケリーを見て、アスターもあんぐりと口を開けていた。
「ケ――ケリー?」
……だよな?
いつもの実用的な麻や綿の衣服が、繊細な縫い取りの施された絹のそれに替わっている。剣帯には金と玉の飾りが光り、剣すらもおよそ実用に耐えるとは思えない優美な代物となっていた。
「悪いが少し出かけてくる」
右手で無造作に髪を撫でつけ、左手に持っていた剣を剣帯に下げながらケリーが告げる。
――鞘の象嵌は、あれは本物の金銀ではあるまいか。
開いた口が塞がらない態のアスターをどう捉えたのか、ケリーは瞬いて首を傾げた。
「――なんだ?」
「なんだって、おま、その格好……」
なんだもかんだもないだろう。むしろこっちになんだと言わせて頂きたい。いったいぜんたい何事だ。
ケリーがしているのはどこからどう見てもお貴族様の格好だが、この辺りで使われる意匠ではなかった。もっと北方――大華三国の辺りのそれである。
――妙に板についているのは気のせいだと思いたい。
馬子にも衣装と言うには言うが、実際は何を着たって馬子は馬子だ。アスターだとて護衛の仕事で小綺麗な格好をさせられる事もあったりするが、やはり傭兵は傭兵にしか見えない。それが普通だ。何事だ。
ケリーはちょっと自分の姿を見下ろし、肩を竦めた。
「借り物だぜ?」
「そう――なのか?」
とてもそうは見えないが。
「当たり前だろう。必要なのは今だけだし、こんなもん持ってたって邪魔なだけだ」
――邪魔って。
それは確かにそうだろうが、なら着るなと言いたい。華やかで豪奢な衣装など、アスターなら着せてやると言われたって断固お断りだ。くれるというなら貰っておくが。売れるから。
ぐらぐらしてきた頭を押さえ、アスターは掌の陰からそっとケリーを伺った。
時間を確かめた少年は手前の寝台に腰かけて――ソファなどという高級な代物はここにはない――ゆったりと足を組んでいる。琥珀の瞳は思慮深い光を湛え、髪を掻き上げる仕草ですら優雅だった。背景が安宿の一室なのがいっそ滑稽だ。
この、華やかで豪奢な衣装にしっくりと馴染む貴公子然とした少年が、普段は薄汚れた旅装で剣をとるなど誰が信じる。アスターにだって信じられない。
昨晩の青年が入室を乞い、馬車の到着を告げた。こちらは商人の身なりではなく、貴族の従者の格好をしている。御者を兼ねるのか鞭を持っていた。
「……仮装大会でもあるのか?」
口の中で呟いたが聞こえなかったらしい。
鷹揚に頷いたケリーが立ち上がった、その瞬間――何かが切り替わるのを、アスターははっきりと感じ取った。
――誰だこれは。
先程までと纏う雰囲気がまるで違う。誰だこれは。
瞬きの間に、少年は豪奢な衣装の似合う傭兵から――そんなものが存在するなら、だが――生粋の貴族に変貌していた。
再度あんぐりと口を開けたアスターに笑いかけ、ケリーが優雅に一礼する。
「行って参ります、アスター殿」
――遊んでいる。
というか遊ばれている。グランディーの副団長が。
さすがに一拍置いてから、アスターは姿勢を正して礼を取った。
「護衛が必要でしたら私が務めますが。いかが致しますか、卿」
せいぜい恭しく言ってやれば、ケリーは虚を衝かれたように瞬いてから笑い出した。
「やっぱ相当いい性格してるよな、あんた。あいつらに爪の垢でも煎じて飲ませてやりてぇよ」
けらけらと笑いながらいい加減に手を振り、青年を伴って階下へ向かう。
扉が閉まってから、アスターは脱力して深い溜息と共に呟いた。
「おまえ、何者だよ……」
疲れたような問いかけはもはや馴染みのものである。
始め絶叫だったそれはだんだんと諦めを含み、慣れも手伝ってこの頃には形式的な響きを帯びていた。
面と向かって言わないのは、どうせ答えやしないからだ。