再会の宴 14
Written by Shia Akino
 庭園へ抜けられるテラスでは、室内の喧騒が薄膜を隔てたように遠く聞こえる。気候のいい時期の夜会では開け放たれる窓も、風の冷たいこの時期にあっては閉ざされたままだ。
 とはいえ、酒に火照った身体には心地好い程度の冷たさである。ウォルはそっとテラスに滑り出ると、首元を飾るカラーを解いて上着の前をはだけた。
 室内の明かりに白く浮かび上がるテラスには、いつからいたのか、手すりに寄りかかって寛いだ風に酒盃を傾ける王妃の姿がある。見慣れたいつもの小者姿に、ウォルは思わず苦笑を浮かべた。
「なんだ、リィ。もう着替えたのか?」
「いつまでも着てられるか、あんなもの」
 約束は果たしたとばかりに王妃は肩をすくめ、窓ごしに華やかな室内へと視線を向ける。手に手をとってくるくる回るルウとケリーを目で追って、誰かとは聞かずに嘆息した。
「ほんっとにケリーが好きだよな、あいつ」
「彼女はルウ・フランシェード嬢だ。我々は初対面だぞ。間違えてはならん」
 分かってる、と言うようにリィは目元だけでちらと笑う。
「そのルーファはどうした?」
「うむ。何か用があるとかで、西離宮に戻ったぞ」
 平然と答えるウォル。
 明らかな嘘をあんまり何食わぬ顔で言われたので、リィはついつい小さく笑った。
 腹芸は苦手だとか言うわりに、相変わらず狸の真似が上手い男だ。意識してやるのではないにしろ、案外狡猾な狐のふりだってするのだから、さすがは一国の王と言うべきか。
「熊のくせになぁ」
 しみじみと漏らして横顔を見上げる。
 手すりに凭れて庭園を見やる男の顔には、歳月が刻んだ細かい皺が微かに見え隠れしていた。以前は確かになかったものだ。
 もともとまともな夫婦とは言いがたいウォルとリィだが、いまでは見た目からして夫婦には見えまい。せいぜいが父娘だろう。
 それだけの時間が経ったのだ。こちらの世界にだけ。
 ――時間はいろいろなものを変質させる。
 それでも、この男の本質は何一つ変わっていなかった。
 相変わらず熊で、朴念仁の唐変木の野暮天で、底抜けに大馬鹿のリィのバルドウだった。
 愛しいと、こころからおもう。
「……おい、リィ?」
 しなやかな手に肩を掴まれ、もう片手で頬を捕らえられ、のしかかってきた大型の獣に鼻の頭を舐められて、ウォルは目を見張った。
「おいこら、リィ!」
「だまれ」
 返答は短い一言。
 妻に押し倒される夫というのも情けないものがあるが、ウォルは逆らわなかった。感謝や愛情を示す、これがこの獣の流儀なのだと知っている。
 黙れと言われたので黙ったまま、妻の身体を抱え上げて庭園へ降る階段の途中まで移動した。せめて室内から見えないようにとの配慮だが、この辺りが時と共に成長した部分といえるかもしれない。
 力強さとは裏腹に華奢な背中をそっと撫でると、金の獣は満足そうな吐息をうなじに吹きつけてウォルの首筋へと顔を埋めた。
 ふんふんと鼻を鳴らして首筋の匂いを嗅ぐ様子はまるっきり大きな犬のようで、ウォルは思わず小さく笑う。
 ケリーを探していたこの数ヶ月――そして、不本意な約束を控えたここ数日――リィの中でずっと張り詰めていた何かが、ようやく緩んだ気がした。



 雲でも出ているのか空には星のひとつも見えず、遠く城壁の篝火だけがぽつぽつと闇を彩っている。
 微かに響く宴の喧騒は遠く、時折吹く冷たい風が王宮を囲むパキラ山を揺すり上げて、物悲しい音をたてていた。
「なあ、リィ」
 足の間にすっぽり収まった妻の肢体をゆったりと撫でながら、躊躇いがちにウォルは切り出す。
「その、頼みがあるのだが」
 なんだ、と視線だけで問うて来るのに、少しばかり言葉を濁した。
「その……ケリーどのに聞いたのだが、ラヴィーどのはその場にいない者の姿を映すことが出来るそうだな? おまえにも出来るのか?」
 出来る、との答えにもう一度躊躇う。
 リィには面白くない話題だろうと分かっていた。だが諦めてしまいたくなかった。掟に触れずにそんな事が出来るものなら――黒天使一流の屁理屈かもしれないが――是非とも見せて欲しい姿がある。
「ご両親の姿を、見せて貰いたいのだ」
 案の定、冷たく硬質な沈黙が降りた。
「…………誰の、両親だ?」
「もちろん、リィ。おまえのだ」
「おれに両親はいない。いるのは父親のアマロックだけだ。知ってるだろう」
「人間のご両親の事だ。ご存命だと、以前ラヴィーどのにうかがった」
「アーサーとマーガレットは、おれの父親でも母親でもない」
 すっぱりと切り捨てるような声音だったが、ここで退いては夫の名折れだ。
「分かっている。だが、この身体を形作り、世に送り出してくれた人達であることは間違いあるまい?」
 細い肩に触れ、力を込めて言うと、リィは少し考え込んで豊かな胸のふくらみを見下ろし――低く唸った。
「だいぶ変形してるけどな……」
 不本意そうだが(本来は男だと思えば当たり前だが)いくらか肯定的な響きである。
 それを両親というのだ、とウォルはすかさず断言し、畳み掛けるように続けた。
「普通はな、リィ。妻を娶ろうという男は式の前に花嫁の両親にご挨拶に行くものだ。ご存命だと知らなかったとはいえ、誓約の祭壇に立つ前に許しが得られていなかった事は、俺には痛恨の極みなのだ」
 それは市井の“普通”であって国王の普通ではなかったが、いまさら突っ込んでも始まらない。
 リィは“息子”を“嫁”にくれと直談判されるアーサーを思って額を押さえた。
 こういう場合の常套句としては「お嬢さんを僕にください」が適当だろうが、ヴァレンタイン夫妻にとって、リィはお嬢さんではなくお坊ちゃんなのである。
 非常に奇妙な構図が出来上がることは必至だし、マーガレットはともかく、アーサーの心境を思うと、さすがのリィもちょっと同情したくなってくる。
「お会いする事は叶わんだろうが、義父母の顔くらい知っておきたい」
 ウォルが至極真面目なので尚更だ。
 義父母――と、リィは呻いた。
 こんな大きな年上の熊オトコに“お義父さん、お義母さん”と呼ばれるとしたら、ちょっとどころではなく同情に値する。
 マーガレットなら喜んでしまいそうだが、アーサーが不憫だ。
「――リィ」
 頭を抱えるリィの耳を、柔らかく落ち着いた声が打った。
「俺は、おまえをこの世に送り出してくれたご両親に心から感謝している。そうでなければ俺達は出会えなかった」
 大きな手が額に置かれ、耳ごと頭を撫でてうなじを叩く。
「認めろとは言わん。だが、生まれを否定はせんでくれ」
 静かな、けれど確固とした、深く深く染み入る声。
 ――ああ、この男はいつのまに、こんな声で話すようになったのだろう。
 リィは目を閉じて口元に笑みを刻み、アマロックと同じ事を言うんだな、と呟いた。
「そうか?」
「ああ。言われた事がある」
 リィが自身の素性を知って、荒れていた頃に。
 声の調子まで似ていた。懐かしい、“父親”の言葉の響きだ。
 ケリーから受け取った指輪を掌で転がし、リィはひとつ頷いて右手の中指に通した。
「大丈夫だ。否定はしてない。親だとは思えないけど、嫌いじゃないんだ」
 おまえのおかげだ――囁いて膝立ちになり、目を閉じろ、と告げて額を合わせる。
 ウォルの脳裏に薔薇の園が広がった。
 生垣に仕立てた何種類もの薔薇が絡み合い、赤やピンクや黄色の花が今を盛りと咲き誇っている。
 花の香りと噴水の音。
 肌を掠める初夏の風まで感じ取って、ウォルは驚いた。とても幻とは思えない。
 幻とは思えないほど現実的な、けれど幻のように美しい景色の中、錬鉄製のガーデンチェアを二つ並べて若い夫婦が午後のお茶を楽しんでいた。
 栗色の髪、栗色の瞳。
 意外なほど若く思えたが、リィのあちらでの年齢を考えればそうでもないのかもしれない。
「優しそうな人達だ」
「まあ、悪い奴らじゃないことは確かだな」
 ウォルの視点の背後から、小鹿のように溌剌とした少女と腕白そうな少年、愛らしい幼い少女が駆けてきて、夫婦の下へ駆け寄った。満面の笑みで振り向いて、ウォルを――恐らくはリィを――楽しげに手招く。
 初夏の日差しに縁取られた、きらきらした光景。
 目裏に映る景色が優しいのは、リィの目線が優しいからだろう。
 リィにとっては両親でも兄弟でもないのかもしれないが、それでも大切にしているのだと、そう思った。


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―― ...2010.05.25
ありがとうございました。ブラウザを閉じてお戻りください。
ケリーがすっかり消え去った(笑)
そしてウォルがお父さんに(爆)
おまけは入れたかったんだけど弾かれた場面再利用。微妙にパラレル。

  元拍手おまけSS↓

「ヴァレンタイン卿は“父さん”と呼んで貰いたがっていると聞いたが……」
 唐突なウォルの台詞に、リィの口から呆れたような息が漏れる。
「ケリーか? 何を話してるんだ、あの野郎」
 苦々しげに呟いて、面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「他には何を聞いた?」
「いろいろだ。それなりに時間はあったからな。ケリーどのがずいぶん待ったと言うのも、あながち誇張ではないのだぞ」
 それはリィにも分かっていた。
 だからといって、何もああまで徹底的にふらふらしなくてもいいと思うが、それだってただの八つ当たりだ。
「なぜ、呼んでやらん?」
「俺の父親はアマロックだ」
「それは分かる。俺だって、育ての親が俺の親だと思っている。だがな、リィ。“自分の身体を作ってくれた者”を指す言葉が“母親”であったり“父親”であったりするのも確かだぞ。要は言葉の定義の問題だろう。おまえの事だから、呼び名にこだわるというのも分からないではないのだが……アマロック殿のことはなんと呼んでいた?」
「アマロック、だな。だから、“父さん”ってのが俺の中でアマロックを指してるわけじゃない。おまえが言いたいのはそういうことだろう?」
「そうだ。特別な意味がないのであれば呼べないこともなかろう?」
 リィは疲れたように息を吐くと、頬杖を突いてウォルをねめつけた。
「“陛下”って呼ばれるのを嫌がってたヤツの台詞か?」
「面白くはないが、致し方ない。“玉座に座る者”を指す言葉だからな」
 重々しくウォルは頷く。
 言葉はただの言葉だ、という。
 呼ぶ側に敬意がなければ“陛下”という言葉に権威はないのだ。夜の街には“旦那”だの“社長”だのがあふれているし、それでその気になるか否かは受け取る側の問題だ。そこに共通認識はありえない。
 “陛下”だろうと“ウォリー”だろうと“ウォル兄様”だろうとウォルはウォルで、呼ぶ側にどんな意図があろうとウォル以外では有り得ない以上、どう呼ばれたって同じ事で。
 となれば、呼ぶ側がどう呼んだっていいではないか、と――。
「ケリーどのに学んだのだ」
 余計なことを、とでも言いたげにリィは顔を顰めたが、やがて深々と息を吐き出した。
「まあ、昔はともかく今なら呼んでもいいかと思わないでもないんだけどな……」
 呼ぶだけなら呼んだって構わないのだ、本当に。
 ダン・マクスウェルは“船長”だし、ケリー・クーアは“キング”だ。ケリーに言わせればジャスミンは“女王”だし、その女王様は別に一国を治める本物の女王陛下というわけではない。似たようなものではあるにしろ。
 だから、呼ぶ側としては呼んだって構わないのだ。だがしかし。
 感涙に咽び、愛息子をもみくちゃにする州知事というのはいただけない。もみくちゃにされる当の本人にしてみれば、是非とも避けたい事態である。
 それよりなにより避けたいのは、感極まった子種提供者が“エドワード”を連発する事だった。
 それだけは本当に願い下げだが、そうなるのはほとんど確実である。リィの側に譲れない事情があるこの場合、問題はアーサーの反応にあるのであって、呼ぶ側としてはどうしようもないのだ。
「そうだな……アーサーがエドワードって呼ぶのを諦めたら、父さんって呼んでやってもいいかな」
 そういう結論しか出てこない。アーサーにとっては究極の二律背反である。
 懊悩だの煩悶だのに身悶える姿が見えるようで、リィはくつくつと忍び笑った。
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