―― 豎立 ジュリツ
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Written by Shia Akino
 晴れ渡った朝の空を、一頭の獣が軽やかに疾駆している。虎に似た優美な姿態に朝日を浴びて、最高といわれる騎獣は気持ちよさそうに目を細めていた。
 雁州国の玉座が埋まってから三十年近く。頭上を影がよぎっても、妖魔だろうかと怯える者はそうはないはずである。
 上機嫌な騎獣の背中で六太は背を丸め、ぎゅうっと胸を押さえていた。心臓発作でもおこしたような姿勢だが、実際、六太の心臓はものすごい勢いでばくばくと脈打っている。
「怖かった……もうすんげぇ怖かった……」
 帷湍の怒声より、怒気を孕(はら)んだ朱衡の微笑の方が断然怖いと六太は思う。たぶん主も同意してくれるだろうが、その主のせいでこんな目にあっていることを思うと、なんの慰めにもなりはしない。
 王宮に主の姿が見えなくなって、ほぼ一ヶ月が経とうとしていた。始めの十日程は関弓にいたことが確認されていたが、その後足取りを掴めなくなってから二週間余りが経過している。
 一向に行状の改まらない主に官吏もずいぶん慣れたとはいえ、それにもやはり限度はある。歳末行事に新年の祭祀、それに伴う諸々の準備を始めなければならない時期に来ており、更にいえば当年の収支に関するあれこれだとか、翌年の予定や予算だとか、他にも先送りにし続けてきた細々とした事柄が、ここに到ってのっぴきならない状況に陥っており――つまりは、サボっていた分のツケを支払わねばならない時期に差し掛かっているのである。
 なにも一年で一番忙しい時に姿を消さなくても良いだろう、というのは六太も思う。
 税改正をしたばかりというのも、また間が悪かった。慣れていないところへもってきて、些細な不備や問題事項が発覚する。不信不満を声高に語る者もいる。それでいて、伺いを立てようにも王がいない――それは怒りたくもなるだろう。
「王気が分かるってのも考えもんだよなー」
 何とか鼓動を落ち着けて、六太は深々とため息をついた。
 麒麟には王の居場所が分かる。他ならぬ王に犬のようだと笑われたこともあったが、匂いをたどるわけではない。ならば何故分かるのかと問われても、こればかりは麒麟でない者に理解させるのは難しい。ただなんとなく分かるのだ。
 おかげで連れ戻してこいとの厳命を受ける羽目になった。忙しい時期に最優先でこなさなければならない仕事がこれなのだから、少々情けなくもある。
「まったく、いい迷惑だ」
 顔をしかめてぶつぶつ言いながら、六太は“なんとなく分かる”主の居場所に向かってひたすら乗騎を走らせた。

 六太がようやく騎獣を降下させたのは、昼近くになってのことだった。人目に付かないところへ騎獣を着地させ、目立つ髪を布でくるんで息をつく。――他国じゃなくて本当に良かった。
 賭博に有り金注ぎ込んだという前科のある男だから、一応お金も持っては来たが、そんな必要もなかったようだ。
 烏号にほど近い小さな漁村に尚隆はいた。小さな平船に乗り込んで、漁から戻ったところらしかった。
 声をかけようと駆け出して、六太は思わず立ち止まる。――尚隆があんまり晴れやかな顔をしていたから。
 太い腕をした老齢の漁師が、尚隆に何か言って明るく笑う。周囲の漁師達の囃(はや)すような声がかぶり、尚隆も笑って魚の入った駕篭を担ぎ上げる。その背を漁師が幾度か叩いて、どっと笑声が沸き上がる。

 ――何故か胸が痛かった。

 この光景を見たことがある。あの瀬戸内の小さな国で。
 あの男が若様と呼ばれていた頃の、それは日常の光景だった。

 虚海と違って内海は青い。その青い海面にひらひらと陽光が踊って、なおさら瀬戸内の海を思い起こさせる。
 たとえばあの戦がなかったら――たとえばあの時、六太があれほどに病んでおらず、小松の民のいくらかでも救うことが出来ていたら――。
 仮定の話に意味など無いと分かってはいたけれど、そうしたら尚隆は、たぶんここにはいなかったと六太は思う。守るべき民がいたなら、たとえ誓約を為したとしても、こちらに来ることに同意はしなかっただろう。
 そうして、いま見ているのと同じ晴れやかな顔をして、子や孫にかこまれて老いて、今頃穏やかな永久(とわ)の眠りについていたかもしれない。
 動けなくなってしまった六太に、尚隆が気付いた。その目が六太を捉えた次の一瞬――心底うんざりしたような、嫌そうな表情を浮かべたのを、六太は見たような気がした。
 気のせいだと信じられるくらいの、それは本当にほんの一瞬。だから六太は、嫌な速度で鼓動が鳴るのを努めて気にすまいとする。
「おう、六太。待っておったぞ」
 いつものように太い笑みを見せて、尚隆は六太に向かって手を挙げた。意外な台詞に虚を突かれ、六太はぽかんと背の高い影を見上げる。
「……は?」
「そろそろ来る頃だと思ってな。朱衡あたりに脅されたろう」
 悪びれない調子の言葉にガックリと肩を落とし、六太は深い溜息をついた。
「分かってんならなぁ」
「ははは。すまんすまん」
 別に悪いと思っていないことがありありと分かる謝り方である。
「まったく……」
 もう一度軽い溜息をつき、六太は尚隆から視線を逸らした。見やった青海は穏やかに凪いでいて、けれど六太の鼓動は嫌な速度で鳴り続けていた。

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