―― 豎立 ジュリツ
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Written by Shia Akino
 すでに日は中天を過ぎ、ゆっくりと傾きつつあった。軽やかに宙を疾駆する騎獣の背には、大小二つの人影がある。
 騎乗したころからここに至るまで、尚隆はずっと無言だった。漁師等に別れを告げる際の明るい笑みは影を潜め、どこか重い沈黙が六太の声をも奪っている。
 ――なんと言っていいか分からないけど、何か言いたい。
 先ほどからずっと、六太は迷っていた。

 瀬戸内の海に似た青海の凪(なぎ)。
 あまりにも晴れやかだった尚隆の笑顔――。

 一瞬だけ見た厭わしげな顔を、どうしても忘れることが出来ずにいる。
「……尚隆」
 遠目に禁門を確認する頃になって、六太は鼓動に急かされるように口を開いた。迷った末に言葉にしたのは、いつかも言った台詞だった。
「……雁を、頼むな」
「……そんなに俺が信用できんか」
「な……っ! そんなこと言ってない!」
 尚隆の声は重くて、反射の速度で返した否定は、けれど届いた気がしなかった。それきり無言の尚隆の背に額を押しつけ、六太はぎゅっと唇を咬む。
 尚隆の広い背中は暖かくて。――暖かいのに。
 いつまで待っても、いつかのように任せておけとは言ってくれなかった。

 互いに無言のまま、それぞれの執務室に別れて数刻――酷く慌てた官吏の注進を、六太は聞くことになる。

「台輔、主上を止めてください!」
 足音も荒く執務室に飛び込んできた男は、ようよう形ばかりの礼を取り繕うと叫ぶようにそう言った。官服は乱れ、額には汗まで浮いている。
「落ち着けよ、莉循(りじゅん)。何があった?」
「税を改変するというのです。いますぐにでも、と!」
「なんだって!?」
 なんとか思いとどまるよう進言したのだが、例の調子でまるで聞く耳を持たない。この上は台輔にお縋りするしかないのだと、莉循は泣きそうな顔で訴えた。
 それはそうだろう。課税対象に税率、免除規定にいたるまで、大幅に改正を行ったのはついこの前の事なのだ。この上さらに改変するなど、混乱を招くばかりで利などない。
「尚隆、あんた一体何考えてんだ?」
 実のところ、いまこの時尚隆と顔を合わせるのは、六太にとってかなりの勇気を必要とする事柄だった。しんとした硬い沈黙と厭わしげな視線、重く冷たい短い言葉――そんなものがちらついて離れない。
 しかし、だからといって官吏の訴えを無視もできない。急いで王の執務室へ赴き、六太は目線を険しくしてそう問うた。不真面目な姿勢で御璽を捺していた尚隆は、頬杖をついたままつまらなそうに何の話だ、と応える。
「何のって、税の件だよ!」
「ああ、あれか。いろいろ問題が出ておるだろう。面倒だから変えてしまおうと思ってな」
「面倒だからじゃねぇだろ!? 絶対余計に面倒なことになるって! 時期を考えろ、時期を!」 
 ほとんど叫ぶようにして言うと、尚隆は不意に立ち上がった。少年の姿の六太にとって、尚隆の体格は威圧的でさえある。普段はまるで意識しないが、この時ばかりは気後れを感じ、無意識のうちに一歩下がった。
「六太。この国の王は誰だ?」
「――っ!」
 言葉に詰まった六太を見下ろし、尚隆は少し笑ったようだった。
「おまえが俺に任せたのだ。いつだったか、俺が良いと言うまで目を瞑っていると言ったろう」
「言った……けど」
「いいと言った覚えはない。口を挟むな」
 短く告げて、尚隆はそのまま部屋を出ていった。六太は後を追うことも出来ず、ただぼんやりとその背中を見送ってしまう。
 どこへ行ったのか、探すこともやはり出来なくて、六太は自分の執務室に戻った。

 不安そうに待っていた莉循には、何か考えがあるようだから安心していい、とだけ告げる。けれど、尚隆が書いたという草案に目を通した時、六太は苦い顔になるのを抑えることが出来なかった。
 こんなものを施行して放置すれば、遠からず雁の財政は破綻する。それを、明朝までに告知の準備を整えろ、との勅命である。
 どういうことだ、とか、これで良いのか、などと、蒼い顔をした官が入れ替わり立ち替わり六太に伺いをたててくる。その都度大丈夫だと繰り返したが、どれだけの者が信じたかは分からない。
 しかし実際、官等が危ぶんでいるようなことはあり得ないと断言できた。こんな分かりやすい乱心ぶりを示すような可愛げのある男ではないし、なによりこの国は今はまだ、更夜に約したような姿をしていない。
 こんな風に中途半端に投げ出すようなことはないと、それは信じられた。内心飽いたと、うんざりだと思っていたとしても、尚隆は約束を守るだろう。
 六太が不安でたまらないのは、全然別の何かだった。
 あの晴れやかな笑みと厭わしげな視線――それはたとえば、緑なす山野で皆が安らかに暮らす国の、その頂点でたった独り、望む場所にいくことも望むようにあることも許されず、重い荷だけを背負って黙々と歩く男の姿であるかもしれなかった。

 それは、国が滅ぶのと同じくらい、怖いことのように思えた。

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