災厄の日 
Written by Shia Akino
当サイト[副業の発覚]が前提です。
 このところツキに恵まれていたとある乗組員は、賭博で稼いだ金を存分に使って嫌というほど飲み歩き、夜明け前にいい気分で戻ってきた。
 いい気分は、雇い主の持ち船に乗り込むところまでしか保たなかった。
 彼は甲板の上で、信じ難い光景を目にする事になったのだ。怒るより止めるより、なによりまず唖然としてしまう。
「ななな、なにしてんだおめぇ!」
「切ってる」
 手も止めずにそう答えたのは、雇い主がホクホク顔で積み込んだ荷物だったはずの少年だ。手伝わされた乗組員は、扉に鍵をかけたのを覚えている。
「なにが……どうして……なんで……なにを……」
「だから、切ってる」
 そりゃそうだろう。ナイフの刃をロープに当てて押したり引いたりしているのだ。切ってる以外の何物でもない。
「そ、そりゃ静索だぞ? 帆桁を支えてるロープだぞ!?」
「もちろん分かってるさ」
 悲鳴じみた叫びをあっさりと流されて、乗組員は引き攣った。
 船上に張られたロープは普通切らない。特に静索は、帆柱や帆桁を支えているロープだ。帆の向きを変える為に使う動策などと違い、解く事すらしない。
 ――だいたい、監禁場所から抜け出したのなら逃げるだろう普通。
 なんだなんだ何事だこいつは一体何を考えているんだというか何でこいつはここにいるんだ落ち着いてるんだじゃなくて誰か止めろ――恐慌に陥った乗組員の、空回りしすぎた頭の中はすでに真っ白だ。
「なあ――」
「はひっ!?」
「ナイフ持ってねぇか? こいつに借りたんだが、切れ味が悪くてな」
 そこでようやく、少年の足元に倒れ伏している人間を認識した。密航や盗人に備える甲板の見張りだ。騒ぎが起きていないところをみると、呼子を吹く間もなかったらしい。
 爪先でつつかれたそれが僅かに身じろいで、グゥ、と唸った。
「武器の手入れは基本だろうがよ、まったく」
 呆れたような声に思わずナイフへ手を伸ばす。そういえばずいぶん手入れをしていない。
「ああ、持ってるな。借りてもいいか?」
 友人でも相手にしているような普通の調子だ。どうしてだ。
 乗組員の真っ白な頭の中に、自身の鼓動が大きく響いた。
「……逃げるこたねぇだろう」
 言われて初めて、無意識に後ずさっていたことに気付く。
 はっとした瞬間には、もう少年は目の前だった。
「殺しゃしねぇよ」
 面倒そうに言うのを聞いて、そこで彼の意識は途切れた。



 どぉおん、と腹に響く大きな音と共に船全体がひどく揺れた。
 メインマストから帆桁が外れて落ちた音だが、船室でくつろいでいた社長はそんな事とは思いもよらない。何事かと慌てて部屋を出て甲板へ向かい――甲板から降りてきた少年と鉢合わせた。
「なんっ……で、君がここに」
 昼近くまで眠り続けるだけの薬を口にしたはずだ。ようやく夜が明けようかというこんな時間に、こんなところにいる筈がない。
 男は目を疑ったが、実際少年はそこにいる。そしてその手には武器が――ナイフがある。
 眠り込んだところを取り上げた、隠し持っていた細身のナイフとは違う。水夫が使う肉厚で大振りのそれを手馴れた仕草で弄びながら、今度は耳を疑うようなことを軽い調子で口にした。
「隠し扉を端から壊して警備隊を呼んだんだが、牢屋行きとあの世行きとどっちがいい?」
 乗組員を簀巻きにして用具入れやら貯蔵庫やら船室やらに放り込みつつ、片っ端から隠し扉を開けてみたケリーは、ここに来るまでに大分うんざりしている。

 隠し扉を探すのには苦労はなかった。開口部が巧妙に偽装されていようと、ケリーの“眼”の前には無意味だからだ。
 そこには当然のように密輸品が積み込まれていたわけだが、取引相手の情報だとか社長が関与している証拠だとかまでがぞろぞろ出て来るに至っては、ちょっと頭を抱えたくなったとしても無理はなかろう。
 取引相手と交わした書簡が出てきた時には目を疑ったし、ご丁寧に署名の入った契約書を発見したときには、実際ちょっと頭を抱えた。
 ――何を考えているんだと言いたい。
 この分では、荷札の送り主も送り先も偽装ではないのではないか。隠せばいいという物ではないだろうに。
 確かに証拠になる品を探してはいたのだが、動かぬ証拠がこうもぞろぞろ出てくると、呆れを通り越して馬鹿馬鹿しくなってくる。
 捕まれば終わりの海賊じゃあるまいし、多少調べられても言い抜けられる程度の偽装工作は必須じゃないのか。
 小遣い稼ぎのちょっとした違法行為ならともかく、表向き自身が所有する船で裏稼業に精を出すなど、そこからもう不用意である。
 まるで素人じゃないか――とケリーは思ったが、そもそも堅気だった組織である。社長からして、小遣い稼ぎのちょっとした違法行為という感覚から抜け出していない。

 そのど素人な社長さんは、想定外の展開に狼狽した。
「誰か――誰かっ!!」
 大声で人を呼ぶ。
 出航前とはいえ、飲み歩く金のない者はたいがい厨房辺りでクダを巻いているし、甲板には見張りもいる。船内が無人のはずはない。
 だが、返ってきたのは沈黙だった。
「無駄だと思うぜ?」
 かわいらしく小首を傾げる少年から、思わず一歩後ずさる。
「誰かいないのかっ!?」
 叫んで、男は駆け出した。
 通路のあちこちに隠し扉の残骸と空洞とが散見出来る。物入れサイズから小部屋サイズまで、確かに端から壊されていた。
 これだけのことをする間に誰かしら見咎めそうなものだが、騒ぎになっていないばかりか誰一人出て来る様子もない。誰にも行き会わないまま、船底に設えた一番広い倉庫に行き着いてしまう。
 少年を閉じ込めたはずの隠し部屋はと見れば、羽目板を装ったこの扉も破壊されていた。
「な、無駄だろう?」
 追いついてきた少年は、気は済んだかと言わんばかりだ。
「なにを……した?」
「だから、隠し扉を壊して警備隊を呼んだんだって。聞いてなかったのか?」
 ケリーはちょっと眉根を寄せて、同じ選択肢をもう一度挙げてみせた。
 どっちにする? と当たり前のように聞かれて、男は戦慄く。
 守ってくれる親も組織もないらしい、生意気で綺麗な少年――骨のある方が好きだというあの困った老人にお誂え向きだと思ったのに。
 ようやく、誤解していたことを悟った。
 裏社会に属しながら汚れるのを厭う、正義感に満ちた青二才などではない。
 半日にも満たない時間で騒ぎも起こさず、いったいどうやったらこんなことが出来るのか。あげく悠然と姿を見せて有り得ない選択を迫るなど、骨があるどころの話ではないではないか。
 自由か命か――半分麻痺した頭の片隅で、他に選択肢はないのだと理解した。
 ――声は出なかった。
 震える両手を挙げると、少年は頷いてナイフをしまう。
「――いい子だ」
 微笑みながら柔らかく告げられた言葉は、少年が大の大人に向けて言うには恐ろしく奇妙だったが、男は反発せずに脱力した。
 完全に目下の者に対する目線と言葉であったにもかかわらず、何故か気力の一切が抜け落ちたのだ。
「……君には負けたよ」
 震える息を大きく吐きだし、いくらかいつもの調子を取り戻して男は肩をすくめる。
「私は命を許されたことに感謝すべきなのかな」
「いらねぇよ、別に。こっちの事情だ」
 相手が表向きだけにしろ一般市民の一商人では、殺人事件として扱われかねない。少なくとも今のところ、ケリーはお尋ね者になるわけにはいかないのである。
 裏社会にケリーの素性と例の噂を結び付ける者はまだいなかったが、変に目立つことは避けたかった。金色狼の旦那に迷惑なぞ掛けたら、迎えが来たときの己の身が心配だ。
 そもそもケリー自身は命を狙われたわけではないのだし、逮捕投獄が順当というものだろう。嫌だなどとぬかすなら容赦する気もなかったが。
「じゃあな」
 いいかげんに手を振ってきびすを返し、何歩か進んだところで、ああそうだ、と振り向く。
「俺のことは言わない方がいいぜ? 罪状が増えるだけだからな」
 言い置いて去って行く少年の背に、それはどうもご親切に、と返した男の声が届いたかどうかは分からない。
 投げやりにそれだけを言って、男は壁に背を預けて座り込んだ。
 証拠隠滅を計るべきなのだろうが、もう何をする気力もなかった。



 港に響き渡った大音響によって、帆桁が落ちた事は隠しようもなく周囲に知れ渡った。
 停泊中とはいえ、大事故である。
 その調査に港湾担当の警備隊が乗り込んで行ったのは、事が起こってからさほど間を置かない夜明け頃のことだ。
 迅速な対応には理由がある。
 帆桁が落ちるから調査の名目で船内を調べてみろ、という密告文があったのだ。
 当初は悪戯だと判断されたが、実際に事故が起これば話は別である。
 本来事故とは無関係のはずの船内を調べたのはそういうわけであり、抗議が来る前に異常は次々と見つかった。
 用具入れやら貯蔵庫やら船室やらからごろごろと簀巻きにされた男達が発見され、次いで破壊された隠し扉がいくつも見つかり、積み込まれた違法な荷やもろもろの証拠品が出てきたのだ。
 こうしてレヒネル貿易は、社長以下、幹部が軒並み逮捕投獄されて事実上壊滅した。
 大掛かりな捕り物には捕りこぼしが付きものだが、今回ばかりは逃走も追跡も乱闘もない。水揚げされた魚を拾い集めるような現状に警備隊は苦笑しつつ首を捻ったが、社長及び相談役の証言により、この騒動は組織間抗争という事で片がついた。
 労なくして事態が収拾したこともあり、いくつかの証言に見え隠れした少年のことは表向き取り沙汰されていない。


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―― Fin...2008.01.14
ありがとうございました。ブラウザを閉じてお戻りください。
『副業の発覚』おまけSSにおける新興組織壊滅の全容。
大立ち回りを期待していた方、ごめんなさい(涙)

追記:ケリーが帆桁を落としてますが、静策は関係ないかもしれない。甲板上じゃなく、マストに登らないと無理かもしれない。というような事が判明したのですが、その辺はどうか流してくださいm(__)m 帆船は難しいです……。

元拍手おまけSS↓
 その少年は、優秀ではあるがさして真面目な生徒ではない。
 ろくにメモも取らないし、教師の話も聞いているのかいないのか。授業に出てこない事すらある。
 ただ、出席中に居眠りしているということはあまりなかった。
 だがその日、彼は朝から眠っていた。うたた寝などというかわいらしいものではない。机につっぷしての熟睡である。
 当てられたときだけ面倒そうに顔をあげ、それでも正確な答えを返すものだから、教師にとっては嫌な生徒だ。
「どうしたのケリー、疲れてるみたいだね」
 昼時になってようやく起きだした少年に、級友が声を掛ける。
「ああ……まあ、ちょっとな」
 まさか副業のことを話すわけにもいかず、ケリーは適当に言葉を濁した。
 いつもの“仕事”なら明け方に少し眠れるし、短い時間でしっかり休養を取る術を心得ているケリーにはそれで充分なのだが、今回ばかりは少々違った。
 乗組員を簾巻きにしつつ船内を調べ、素人仕事に呆れながら隠し扉を壊して回り、一度船を降りて事務所を訪ね、居残りの幹部をこれも簾巻きにして、警備隊に密告文を送りつけて舞い戻り、帆桁を落として社長を脅し、警備隊の到着を確認してから発端である茹で卵モドキを探し出し、口止めがてら殴り飛ばして帰ってきた時には、起床時間一歩手前だったのだ。
 一晩の労働量としてはかなりのものである。
 だから、珍しくうっかりしていたとしても仕方はあるまい。
 事件当夜、ケリーがレヒネル貿易に呼び出されていたことは、すぐ横にいた串焼き露店の店主も聞いていたのである。
 口止めをされなかった赤ら顔の店主は、口をつぐむ必要性は感じなかった。
 もちろん彼は、ケリーが関わっていると思ったわけではない。だが、警備隊の動向までも把握する町の情報屋がその事実を知ってしまえば、重要視されなかったいくつかの証言に目をつけるのは当然だ。
 だからつまり、目立ちたくないというケリーの思惑は、表向きには成功したが裏向きにはさして意味をなさなかったのである。
 そんな事とはまだ知らないケリーは大きく伸びをし、次の授業は何だっけ、などと級友にたずねている。
 まったく興味のないその口調に苦笑しながら、昼食挟んで歴史だよ、と級友は答える。
 平日の寄宿学校の、至極平和な日常だった。

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