災厄の日 
Written by Shia Akino
当サイト[副業の発覚]が前提です。
 レヒネル貿易は小型の商船を一隻所有している。
 トレニア湾内にはいくつかの波止場があるが、シッサスに程近いこの場所は最大の商港とは言えないものの、それなりの規模があった。
 深夜を回り、灯りを落として静かに佇む船が並ぶ中、夜明けの出航に備えて荷積み作業に追われているものもある。
 その篝火と喧騒を甲板の上から遠目に見やり、レヒネル貿易相談役の初老の男は、ひとつ大きな溜息をついた。
 密輸品積み込み作業の監督を終えたのは、つい先ほどのことだ。夜明けと共に予定している正規の荷の積み込みを控え、船内は静まり返っている。
 自身にあてがわれた船室へと向かいながら、もう一度深く溜息をついた。
 今度の航海は、相談役ばかりか社長までもが同行するのだ。
 遠方へ赴く航海は決して安全なものではない。
 あえて危険をおかすのはかねて望みの品を手に入れたからであり、社長の目には威信をかけた裏取引の大成功しか見えていない。
 航海の危険は抜きにしても、相談役はそれほど楽観的にはなれなかった。
 船室の扉を開き、船上の常で床に固定されたベッドを見やってまた溜息をつく。
 そこには、人質として使われた幼子が未だこんこんと眠り続けていた。
 南方の薬草には効果の強いものがあり、本来ならばこのような幼子に使っていいものではない。それが気になって放り出してしまわず、こうして寝かせておいたのだが、案の定といったところだ。
 寝かせた時よりも顔色が悪く見え、寝息にしてはせわしない呼吸を繰り返している。
 相談役は心中で詫び、手荷物から小瓶を取り出して中身を確かめた。小さな身体を抱えあげ、その口に小瓶をあてがう。
「何を飲ませた?」
「――っ!!」
 有り得ない声に心底驚いて振り返ると、有り得ない姿がそこにはあった。
 この辺りでは珍しい浅黒い肌。特徴的な濃い紫の髪。鋭く光る琥珀の瞳に反して、小首を傾げる仕草が妙に可愛らしい少年――。
「どうして……」
 この船にはただの床や壁に見せかけた隠し扉が随所にあって、少年は船倉の隠し部屋で熟睡しているはずだった。扉には鍵をかけたし、まだ薬が切れるような時間ではない。
 あえぐような問いに、ケリーはちょっと肩を竦めて見せた。
 薬物の耐性について講釈するつもりなどないし、鍵ごと扉を壊すのに使える品を一緒に積み込む間抜けさ加減を、わざわざ指摘してやる気もしない。油断させたとはいえ、見張りすらいなかった。間抜けにも程がある。
「その子に何を飲ませた?」
 再度問うと、相談役は腕の中に目を落とした。
 幼女の頬には赤みが差し、眉間に皺が寄っている。むずがるような声が小さくこぼれた。
 ほっとしたように表情を弛め、気付け薬です、と相談役は答える。
 ケリーはちょっと驚いた。
「目が覚めたらまずいんじゃないか?」
 いわば誘拐犯である。顔を覚えられては厄介だし、この年頃ならたぶん泣く。素晴らしい勢いで泣き喚くことは間違いない。
「そうでしょうね。ですが、先に飲ませた薬が少し強すぎたので」
「目が覚めないと安心できない?」
 ええ、と頷いた相談役は、ふうん、と返した少年の声の調子に苦笑した。
 安堵も呆れも皮肉の響きもない相槌だ。“約束”が破られるのでなければ、別にどうでもいいのだろう。
 実際、幼女についてはそれ以上聞かず、少年は別のことを口にした。
「聞きたいんだが、この船に裏家業を知らない奴はどれくらい乗ってる?」
 商品になりかけた少年がどういう手段でか自由の身となり、その上で口にした問いに相談役は息を飲む。
 どういうつもりで聞いたのかは、明白だと思われた。
 報復以外のなんだというのか。
 こういう事を確認するということは、無関係の者を巻き込むつもりはないのだろうが、返していえば関係者に容赦はしないという事になる。
 ――あの時、まずいとは思ったのだ。
 特に構えるでもない平坦な声音と冷徹な視線が、卑怯な手段で従わせようとする者に、このままで済むと思うなと告げていた。
 負け惜しみには聞こえなかったし、虚勢とも思えなかった。
 今だって少年は――助勢があるようでもないのに――まるで平然としているではないか。
 飲んだ息を細く吐きだし、相談役は諦念と共に目を閉じる。
 抵抗しようとは思わなかった。
 自分はただの商売人で荒事には向いていないし、年でもある。恐らく無駄だ。
 ――それに、と思う。
 先代と共に築き上げて来たものは、もうずいぶんと変質してしまった。
 止める事も逆らう事も出来なかった自分諸共、終わらせてもらえるなら、それもいい。
「……今の時間なら、一人も」
 声はかすれたが、覚悟は決まった。まっすぐに少年を見て、告げる。
「正規の荷を積み込むのは日が昇ってからです。それまでは」
 それから視線を落とし、いまだ眠ったままの幼女を見やった。
 ここで自分が死に、船内で戦闘が起これば、危険の及ぶ可能性もある。
「この子を、お願い出来ますか」
 騒ぎを起こす張本人に頼むのもおかしなものだが、それが一番確実だ。
 少年はしかし、興味はないと言いたげに肩をすくめた。
「ごめんだな。なんで俺が」
 突き放した言葉に反して、声には笑みが含まれている。
「自分のことは自分で始末するもんだぜ?」
 使ったものはきちんと自分で片付けなさい――と、そんな意訳が通るような、少しおどけた言い方だった。
 決死の覚悟を見透かし、そんな必要はないのだと言外に告げたやり方に、相談役は言葉を失う。
「元々堅気だったらしいが、雇い人の中で知らないのはいるのか?」
 ついでのように聞いてきたのがどういうつもりかは、もう考えが及ばなかった。
 下働きは知らないでしょう――と機械的に答え、ぐずり始めた幼女を抱いたまま、律儀に礼を言い置いて去って行く少年の姿を見送った。



 人質と、その保護者と化した相談役をそのまま放置して、ケリーは船室を後にした。
「さて……と」
 左右を見渡す。
 船倉からここに来るまでに、船の大まかな構造は把握していた。
 荷積み前という事もあり、人の姿は少ない。
 虜囚の脱走を触れ回る警備の姿も、当然ながら異常を訴える感応頭脳もない。
「――目立たず騒がず、だな」
 一つ頷き、歩き出す。
 空間に限りがある船という建造物だ。客船ならまだしも商船である。通路は狭い。
 見つかれば逃げ場はないように思えるが、灯りは最低限だ。数個のランプが照らすだけで、人の目を欺くには都合がいい。
 そうしてやり過ごしてきた厨房の辺りで、賭け事に興じていた男達がなにやら喚くのが遠く聞こえた。
 足音を立てない忍びやかな影が船内を移動する。
 それに最初に気付いたのは、負けが込んで賭け事の場から抜けてきた男だった。目と口を大きく開いたが、声が喉から出る前に首筋に手刀を喰らって昏倒した。
 次は厨房で安酒を煽りながら賭け事に興じていた三人。
 人型の風が踊り込んできたかと思うと、事態を把握する間もなく突き倒され、蹴り飛ばされ、あげく踏まれて意識を失う。
 物音を耳にして様子を見に来た幹部役員は、背後からの一撃で床に沈んだ。
 それらを簀巻きにして貯蔵庫に蹴り込み、ケリーは奪ったナイフで隠し扉の一つをこじ開けた。中身を改めて眉間に皺を寄せる。
「………………馬鹿か?」
 このまま帰ろうかと、ちょっと本気で考えた。


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―― ...2008.01.12
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