次に目覚めたとき、イヴンは自分がどこでどういう状況に陥っているのか、皆目分からなかった。
足も手もきつく縛られ、猿ぐつわまでかまされている。目隠しまではされていないが、なにやら分厚い布のようなものに身体全体を覆われていた。当然周囲は見えないし、身動きすらままならない。
――これは、アレだ。どう考えても“荷造り”されている。
まさか自分が身をもって体験する事になろうとは考えてもいなかった。ヘンドリック伯爵を荷造りした際、リィに協力したせいで罰でも当たったのかもしれない。
もうあの猪を笑えない、と内心でため息をついた時、布越しに僅かに人の気配が伝わってきた。袋の口が緩められ、潜めた声がかけられる。
「騒がないでくださいよ」
こんな目にあわせた当人ではないが、聞いた覚えのある声だ。
顔見知りのその男が特大麻袋を開封して、手も足も口も完全に自由になるまで、イヴンは眉を顰めてむっつりと押し黙っていた。
笑い出しそうでいて、困りきったような、なんとも情けない複雑微妙な表情で男はイヴンを見る。
痺れた腕を振り、足と首を動かして感覚を取り戻している間も、イヴンは黙ったまま男を注視していた。
確か最後に会ったのは裏町の酒場――ケリーの副業が発覚した、まさにその時だったはずだ。
「なんだおまえ、髭剃ったのか?」
亜麻色の髪の男は思い切り口の端を下げ、開口一番言う台詞がそれか、という顔をした。
というか、触れられたくなかったらしい。
髭を蓄えていた頃はイヴンと同年代の商人に見えていた男は、髭を剃った今ではようやく青年に達した程度の若造にしか見えない。実際、十いくつも年下である。
「ええまあ……ボスに叱られましてね」
「ボスってぇと、レザン海運の会長か」
表はごく小さな貿易会社の隠居、裏では密貿易で財を築いた一大組織の大親分である。
会長手飼いの新米情報屋は、叱られたというその時の事を思い出したのか、どこか引き攣った顔で頷いた。
そこまでの間に、イヴンはここが停泊中の船の中らしいことを見て取っている。船室というよりも、物置のような役割を果たしている小部屋だろう。窓はないが、ささくれた木の床が微かに揺れていた。
状況からして、つまるところ海賊船の中である。
「それで、なんでおまえがここにいる。ケリーはどうした」
どかりとその場に腰を下ろしたイヴンの、底冷えするような瞳に男はひるんだ。
朗らかで陽気なイヴンを見慣れていた男は、殺気さえ感じさせる鋭さに息を飲み、わたわたと焦りながら事情を語る。
先日のシッサス襲撃は、裏の顔役達の怒りを買ったのだ。
裏には裏の縄張りがあり、ルールがある。シッサスや魔法街にああいう形で手を出すのは、明らかにやりすぎの部類だ。
今この海賊団の一味には、シッサスで共存する組織の一部――特に大きな組織の構成員が、何人も紛れ込んでいるという。
そのあたりの事情は、イヴンにも予測出来ていた。
海賊団の、中枢はどうだか知らないが、下っ端連中は明らかにその辺から掻き集めたゴロツキだったから、手飼いを紛れ込ませるのもそう難しくはないだろう。
あとはもう、内側から切り崩すなり、情報を集めて流すなり、顔役達の思うがままだ。
「じゃあなにか、あいつは会長の下に付いたわけか?」
何故かそういう事にはまったく考えが至らなかった。意外だと思った自分に驚いて、イヴンは眉を顰める。
「いえ、彼は――」
焦りまくった早口で喋っていた男は途端に口篭り、ひどく複雑な表情を浮かべた。言葉を選ぶように視線をさまよわせてから、彼は誘拐されたのです、と言う。
王妃の息子で第一王位継承者だという噂に踊らされた海賊に、身代金目当てで誘拐されたのだと告げられ、イヴンは目を見張った。
あの少年を持っていく事が出来たという点も驚きだし、噂の主が誰を指すのか正確に知っていた海賊共にも驚きだし、あげくイヴンを荷造りした少年にも驚きだ。
なにがどうなってそうなったのか、まったく分からない。
「どうも、私のせいらしいのです」
心底疲れきったような溜息と共に、男はげっそりと肩を落とした。
王妃の息子と噂される人物が裏町で雑用仕事をしているなど、信用の置けない者に話したはずはないのだが、どこをどう流れたのか海賊共の知るところとなったらしい。
王位継承者が居るべき場所に居るのならそうそう手など出せはしないし、居るべきではない場所に居るなどと自身で触れまわるはずがない。
となれば、誘拐という仕儀に到ったのはやはり男のせいである。
実のところ、独立騎兵隊長のみならず、サヴォア公爵やら国王やら王妃やらが時折下町に出入りしていることは、裏の一部で有名な話ではあった。
だが、そこらのチンピラにそんな話は危なくて売れないし、知ることの出来る立場の者はそんな危険物に手を出さないだけの分別があるから、騒ぎになったことはない。
それと同じでこの話も、知ったからといって売れるようなネタではなかった。
商品にならない話だからと、気が弛んだのは確かだ。
いかにも危ないチンピラなどに漏らしたりはしなかったはずだが、誰に話したのかまでは覚えておらず、それが会長の逆鱗に触れた。
軽々しく扱える話かどうか判断もつかない若造が、髭なんか生やして一人前気取るんじゃない、身の程をわきまえろ――と、それはそれはえらい剣幕で怒鳴られた。
その上で吐き捨てられた台詞が、せっかく恩を売ったのにこれで台無しだ、である。
男とて情報屋の端くれだ。普通に見える少年が、あまり普通とは言えない事をいろいろと――知らされていなかったはずの仕事内容をいつの間にか正確に知っていてあげくぶち壊しにしただとか、一晩でなされた組織壊滅にどうも関わっていたらしいだとか――それはもういろいろとやってのけた事は知っていた。
どうやら会長がむりやり恩を売り込んだらしい事も知ってはいた。
だがしかし、裏社会でも上層に位置する大きな組織のトップが、年端もいかない少年を本気で相手にしているとは思ってもみなかった。ボスは物好きな性格をしている。どうせいつもの戯れだろうと思っていたのだ。
半人前との烙印を押された男は深い溜息をつき、恨みがましい上目遣いでイヴンを見やる。
「あの少年は……あれはいったい、なんなのです?」
“誰”でも“何者”でもなく、“何”なのかときた。しかも、“あれ”。
イヴンはちょっと頭を抱えたくなったが、まあ、気持ちは分からないでもない。というか良く分かる。
それを聞きたいのはこっちの方だ。
いや、分かってはいるのだが。
「……あれは王妃の友人だ」
憮然とそう告げれば、男も難しい顔をして問い返す。
「では、噂は事実なわけですか」
「馬鹿野郎、友人だって言ったろうが。息子云々ってのはまったくのデタラメだぜ? 同郷ってのは本当らしいがな」
なんだかもう驚くのも虚しい気分で、イヴンの口調も相当投げやりだ。
「それで、誘拐された側がなんだってした側の一味になってるんだ?」
「それは――」
男の台詞を遮るタイミングで扉が開いた。
錆びた蝶番がギシリと鳴って、僅かな隙間から細身の少年が滑り込んでくる。
片膝を立てて座った姿勢を崩さないまま、イヴンはそれを睨みあげた。
睨まれたわけでもない情報屋が首をすくめて、恐る恐る二人の顔を見比べる。
殺気さえ感じさせる鋭さにも、少年はまるで動じなかった。視線が凶器であれば確実に大怪我を負いそうなそれをなんなく受け止め、屈託のない笑みすら浮かべて軽く手を上げて見せる。
「よう、独騎長」
「…………ばぁか、こんなとこで肩書き出すんじゃねぇよ」
イヴンは少し考えてから、いつだったかに言った台詞を繰り返してみた。苦々しい調子になってしまったのは仕方がない。
少年は楽しそうに破願して、話は聞いたか、と問うた。
「少しだけな。それで、おまえはいったい何をしてやがるんだ?」
投げやりなイヴンの台詞に、ケリーはちょっと肩をすくめる。
「そこの髭商人のおかげで借りが帳消しになったからな。この辺で貸しを作っておくのもいいかと思ったんで、手伝ってる」
返り討ちにした相手がムキになってケリーを狙うのを止めさせたり、取引を潰された組織の報復を抑えたりと、頼みもしないのに勝手に売り込んできた恩である。返すつもりもなかったし、会長だとてあからさまに盾に取る気はなかったろう。そんなものを盾に取れば、牙を剥かれるのは分かっていたはずだ。
だが、積み重なればいい気はしないし、それが相手の狙いでもある。
部下の失策を盾に取って借りを帳消しに出来たのは、ケリーにとって幸いだった。
狙われたのは確かに男のせいなのだろうが、誘拐に関して言えば進んでついて行ったような所があるから、一概に男のせいとばかりも言えないのだが――まあ、それは言わぬが花というものだ。
ああいった立場の人物が売った恩を忘れるという事はまずないといっていいし、そういう人物にわずかでも借りを作ったままにしておくと面倒なことになりかねないのである。
ちなみに、ここの王様は稀なる例外だ。
むしろ、もう少し気にしてくれと言いたい。
変な方向に思考が逸れて遠い目になってしまったケリーを見上げ、イヴンはちょっとため息をついた。
「手伝い……ねぇ」
それにしたって、なにをどうしたら誘拐の被害者が加害者の一味に加われるのか。
気にはなったが、イヴンはそれ以上聞かなかった。
どうせ海賊共がよほどの馬鹿か、少年が恐ろしく狡猾か、どちらかだろう。あるいは両者か――たぶん後者だ。たぶんというかきっと絶対そうに決まってる。
胡乱な目付きで見上げるイヴンをさらっと無視して、ケリーは手にしていた籠から葡萄酒の瓶を取り出した。
「まあ、とりあえず食事といこう」
パンやらハムやらチーズやら、厨房で詰め込んできたあれこれを広げる。
薄汚い海賊船の片隅で、時ならぬ宴会と相成った。
なにをどうしたら誘拐の被害者が加害者の一味に加われるのか――突っ込んで聞き出そうとしなかったイヴンの判断を、情報屋の男は正しいと思った。
身代金請求のため、誘拐の証拠を入手すべく海賊団幹部の前に引き据えられたケリーは、まだ世慣れない当たり前の少年に見えたものだ。
その当たり前の少年が口先ひとつで成した事といえば、鮮やかな交渉というか脅しというか騙しというか丸め込みというか、なんというかもう……見事だった。
それは一大組織の大親分、つまりは自分のボスにも引けを取らない手腕で、男はようやく売った恩の重要性を認識した。
――認識して、恐怖した。
大きな組織を取りまとめる立場の人物に引けを取らない話術を弄してみせたのは、少年としか言えない年頃に見えるのだ。これはもう化け物の類だ。恐ろしい。
だが、襲撃の余波で騒然とした船内の片隅で、人目につかないところへ片付けておいてくれ、と特大麻袋を引き渡された時までは、男もまだ平静でいられた。
中身はなんです? と問う余裕もあった。
イヴン。と少年は簡潔に答えた。
――悲鳴を上げなかった己を褒めてやりたい。
イヴンといえば独立騎兵隊長だ。国王の幼馴染でデルフィニアの英雄だ。それを、穀物か何かのように袋詰めにした挙句、片付けておいてくれとは!
悲鳴を上げなかったというより単に声が出なかっただけともいえるが、取り落とさなかっただけ上出来というものだろう。
言われたとおり、ぴくりともしない袋詰めの英雄を物置部屋に運び込んだが、開封してみる勇気はなかった。
その後、開封して事情を説明しておいてくれだとか、馬を手配してくれだとか頼まれたが、断る勇気もまたなかった。
――この一件が終わったら国を出ようと、男は心に決めている。
組織を抜けるのは難しいかもしれないが、国外での情報収集役は必要なはずだ。
とにかくもう、この無茶苦茶な少年とは二度と関わりたくなかった。