客人の夫君 3
Written by Shia Akino
 大広間はその夜、きらびやかに着飾った紳士淑女で溢れ返っていた。蝋燭の炎が揺らめき、洋燈の明かりが鏡に映って、夜だというのにまぶしいほどの光に包まれている。
 国王の挨拶も済み、客人の紹介も終わった。あとは国王とその唯一の愛妾が一曲を踊り、それからが舞踏会の本番である。
 普段ならば、楽団の奏でる音楽に合わせてゆったりと踊る国王夫妻に衆目が集まるのだが、この日ばかりは様子が違った。
 現在人々の視線を集めているのは一組の夫婦である。つい先ほど国王自ら紹介のあった、天の国からの客人だ。
 妻の方にまつわる噂を耳にした事のある者は多かった。
 夫が姿を見せたのはこれが初めてだった。
 そういうわけで、国王夫妻そっちのけの紳士淑女は、一心に二人の様子を窺っている。
 夫婦は腕を組んでぴったりと寄り添い、時折顔を寄せて何事か囁き合っては笑みを浮かべていた。傍目からは大変に睦まじい。
「よし、いちゃつこう」
「では遠慮なく。――役得だな」
「それはこちらの台詞でしょう」
「ケリーはどこだろう。見せつけてやろうじゃないか」
 ひそひそと交わされていた会話は、とても夫婦とはいえない代物だったのだが。
 やがて一曲が終わり、広間はざわめきに支配された。時候の挨拶やら近況の報告やら、あちらこちらで会話が始まる。
 飲み食いする者も踊り始める者もあったが、注目の的だった夫婦は当然のごとく人々に取り囲まれた。当たり触りのない挨拶から始まる回りくどい会話に、二人はにこやかに応対する。
 グローブナー公爵夫人を筆頭に、ハミルトン公爵夫人、カーストン伯爵夫人、メルディス男爵夫人などなど、王妃に言わせると“底意地の悪い婆さんたち”となる御婦人方は、夫妻を取り巻いた紳士諸君の一回り後ろに慎ましく控えて耳をそばだてた。
 ああ、何てこと――グローブナー夫人の心中は、その一言に占められている。
 グローブナー夫人は、王妃のことは見下していた。
 実のところは美しかろうと、逆立ちしたって適わなかろうと、陛下に取り入った山猿程度にしか思っていない。
 しかし、その姉と噂される人物に対しては、一定の評価を下していた。
 噂の上では血縁でも、彼女はあの山猿のように小汚い山岳民の格好などしていないし、ベルミンスター公のようなきちんとした騎士の衣装は良く似合ってもいた。
 普段の乱暴とも取れる物言いはむしろ頼もしく響いたし、こうしてどこへ出しても恥ずかしくない振る舞いをすることも出来る。
 ちなみに、恐怖の女神が降臨して申し分ない振る舞いを披露した愛妾の茶会と、麗しくも厳しい戦女神が見事な口上を述べた記念式典は、グローブナー夫人の記憶から抹消済みだった。仮に思い出したとしても、山猿の芸だと断言できる。――本人がいない今ならば。
 王の客人に関しても、始めはやはり見下していたのだ。あの王妃と故郷を共にするというだけで、充分侮蔑の対象となる。
 しかし彼女は王妃と違い、誘いがあれば厭わずに茶会にも酒宴にも出席したし、好き勝手にあちこち出歩いてもいるから、顔を合わせる機会も話をする機会もそれなりにあった。
 そうこうする内に、貴婦人達の客人に対する心象は良い方に変わっていったのだ。
 あの方ならば、陛下のお傍に侍ってもよろしいでしょう――その決定を下す立場ででもあるかのように、グローブナー夫人は考えていた。
 お傍に侍るだけでなく、仮に王妃の称号を得たとしても、あの山猿を据えておくよりずっといい。
 取るに足りない小身貴族の娘が産んだ庶子などを次期国王とするよりは、あの方に王子を産んで貰った方が他国に対しても通りが良いというものだ。
 王妃の冠をいただいて国王の隣に立つジャスミンは、素晴らしく立派で美しく、王と共に民の頭上に輝かしく君臨するに違いない――そんな夢さえ見ていた。
 今宵、その夢は覆された。
 ああ、何てこと――である。
「…………お似合い、ですわね」
 メルディス夫人がぽつりと漏らす。
 認めたくはなかったが、それは事実だった。
 相手の男は恰幅がよく、背ばかりは多少低いといえども貫禄は充分で、粋な夜会服を着こなし物腰は優雅であった。
 客観的にみても国王の方が“いい男”ではあるし、似合いでもあるのだが、惚れた腫れたはそればかりでどうこうなるものではない。
 貴族の家に生まれ育ち、相手の顔も知らずに貴族に嫁いだグローブナー夫人でも、それくらいは知っていた。
 中年紳士は紳士諸君の持ち出す話題に気の利いた答えを返し、豊かな声で闊達に笑う。
 これが普段“山賊の頭”と蔑んでいる相手だと知れば、グローブナー夫人のみならず“底意地の悪い婆さんたち”は残らず卒倒したに違いないが、幸いそれは機密事項であった。
 紳士諸君が場所を譲り、グローブナー夫人はクーア夫妻(偽)と対面する。
 ジャスミンがそれぞれを紹介すると、中年紳士は相手の手を取って甲に口付けた。
「お会いできて光栄です、グローブナー公爵夫人。妻がお世話になっております」
 にこやかに挨拶したジルだったが、“山賊の頭”と思われている事を知っていたので内心おかしくてたまらない。
 ごく稀に顔を合わせると、虫でも見るかのような視線を投げかけて来た公爵夫人が、貴婦人の手本のような挨拶を返してくるのだ。これをおかしいと言わずしてなんと言おう。
 公爵夫人は僅かに逡巡する様子を見せた後、ジャスミンに目を移してこう言った。
「御夫君は亡くなられた、という噂を耳に致しましたけれど……」
 残念そうな響きが隠しきれていない。
 ジャスミンは殊更大袈裟に驚いて見せて、ここぞとばかりにジルに身を寄せた。
 ここからが正念場だった。



 紳士淑女に取り囲まれてにこやかに談笑する偽クーア夫妻の様子をしばらく観察し、イヴンはげっそりと溜息をついた。
「…………完璧に悪乗りしてやがる……」
 イヴンが居るのは広間の隅も隅、給仕の小者や侍女が行きかう片隅である。気にはなるけど話しかけられたくはないという、複雑な心境を反映しての位置取りだった。
 とりあえず、ジャスミンが夜会に出席するのは初めてではない。あの変身っぷりは何度見ても恐ろしいが、初めてではないだけまだましだろう。
「まあ、そんな」
 艶を増したジャスミンの声が聞こえた。
「勝手に夫を殺さないでくださいな。陛下は良くして下さいますけど、夫と別れるなんて考えられませんもの」
 誰か勇気のある者が直接質問したらしい。ここぞとばかりに夫(偽)にひっついて、ジャスミンは少しばかり低い位置にあるジルの頭に頬を寄せた。
「私とて、愛する妻を手放すつもりはありませんぞ。――たとえ陛下のご命令があったとしても、決して」
 普段よりいくらかこもった響きの低い声が答え、ジルの腕がジャスミンの腰を抱き寄せる。
 ――怖い。
 なんというかもう、見るに耐えない。
 こっそりと踵を返してその場を去ろうとした時だ。
「独騎長!」
 聞きなれた少年の声がイヴンを呼んだ。
「父を紹介するので、来ていただけますか?」
 ――嫌だ。
 貴公子然とした少年の瞳には、面白そうな光が宿っている。
 ――絶対に嫌だ。
 身体を強張らせたイヴンを半ば引きずるようにして、ケリーは父(仮)の元へ向かった。
 恰幅の良い中年紳士はケリーの肩を抱き、ジャスミンの腰に腕を回した状態でにこやかに軽く頭を下げる。
「お会いできて光栄です、独立騎兵隊長どの。妻子がずいぶんお世話になっておりますそうで」
「……いや、それほどでもありません」
 どうにか答えたイヴンは、背中にびっしょり汗をかいていた。
「仕事の都合で明日にはまた発たねばならないのですが、妻と息子はもうしばらくご厄介になる予定でしてね。今後ともどうぞよろしくお願い致します」
「いえ、こちらこそ……」
 かろうじて返したが、もはや叫び出さずにいられるのが不思議なくらいである。
 いい加減にしやがれ、と叫びたい。
 感じのいい魅力的な笑顔の裏側で、この男は意地の悪いニヤニヤ笑いをしているに違いないのだ。



 少々ぎこちない様子の独立騎兵隊長と偽クーア一家の様子を遠目に見やり、ナシアスは酒杯に口をつけた。
 元々こういった華やかな場が苦手なナシアスだが、出席を断れる事は滅多にない。イヴンのように、俺は出ねえ! と宣言して雲隠れしてしまえる性格でも立場でもなかった。
 そのため、目立たない場所でひっそりと過ごす事には長けている。妻と共に壁際に引っ込み、会場中の視線を攫う偽夫婦を見守っているところだ。
「あの方がジルさまだなんて……教えていただかなければ気付かなかったかもしれませんわ」
 ラティーナは片手で頬を押さえて溜息をついた。
 元々どこか品のある人物なのだが、あんな格好をすると物腰の優雅さが際立って、とてもとても元山賊の頭には見えない。
「素晴らしい演技力ですわね。とてもアビーさまには見せられませんわ」
 ラティーナはくすくすと楽しそうだが、ナシアスはそれどころではなかった。ケリーの目が気になって仕方がない。
 あの、腰に回された腕は――あれはあのままでいいのだろうか。
 やきもきすること十数分、気になっていた腕が解かれてほっとしたのもつかの間、二人は手に手を取って舞踏の輪に加わった。
 慣れた足取りで優雅に踊る二人は、互いに見つめあったまま一時も目を離さない。
 大変似合いの夫婦に見えるのだが、似合ってしまっていいものなのかとナシアスは悩んだ。
 いや、似合わないと困る事は確かなのだが。
 確かなのだが――見ていられない。
 恐る恐るケリーの様子を窺えば、彼はなにやら非常に楽しそうな笑顔だった。
 どうやら本気で面白がっている様子のケリーに、ナシアスは額を押さえて溜息をつく。
 夫としてどうなのか、それは。
 しかもあれはもしかして、他人の目には“久しぶりに父親と会えて喜んでいる少年”に見えるのだろうか。
 見えるのだろう、きっと。――恐らく。
 踊る二人はもちろんケリーからも目を逸らし、ナシアスは一息で酒杯を空けた。



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―― ...2008.10.14
ありがとうございました。ブラウザを閉じてお戻りください。
 ジャスミンの初めての夜会出席は別に書きたい気がするので、時系列的にはだいぶ後の設定で。
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