今宵一番の人気者は確実にクーア夫妻(偽)だが、国王やサヴォア公爵と話したがる者はやはり多い。
今日は華やかに装っているベルミンスター公もまた、なにかと話しかけてくる者達を如才なく捌いて時を過ごしていたが、そこにバルロが現れた。
「失礼。妻と少し踊らせていただけませんかな?」
サヴォア公爵にそう言われては、否と言える者などいはしない。
ロザモンドは夫の手を取って舞踏の輪に加わった。
「ジルどのも意外と芸達者だな」
少し離れたところでやはり踊っているジルとジャスミンをちらと見やり、ひっそりと囁く。
夫や主君と共にロザモンドも夜会の準備に追われていたので、ジルが変装すると聞いてはいても、その姿を目にしたのはこれが初めてだったのだ。まるで別人である。
「山賊共を招いても良かったかもしれんな」
少々呆れ気味にバルロは答えた。
あの男の正体に気付かれては目も当てられないので、奥方やら他の頭目やらはそもそも招いていないのだ。
かといって、事前に言い含めておくのも危険に過ぎた。
一部を除き、タウの人間は王妃の気性を知り尽くしているわけではなく、どうしてここまでしなければならないのかが理解できないからだ。
元々彼らは夜会など出たがらないから問題はなかったが、この調子なら招いてみても面白かったかもしれない。
「あれで気付いたら称賛ものだ」
何も知らずに初対面の挨拶を交わす知己は、知っている者からすればかなりおかしい。
その様子を想像してバルロは口元を弛めた。今更遅いが、是非とも見てみたかったと思う。
しかし、明日にはもうあの男は姿を消す。
普段の男装ジャスミンと少しいちゃついて見せてからだが、それで充分だろう。
主だった貴族とその従者、給仕の小者や侍女達、そして本宮の女官と侍従――これだけの目に留まれば、客人の夫の存在は否応なく城下にも広まっていくに違いない。
「ジルどのに何か礼をせねばならんと従兄上が言っていたが――」
踊り終わったジルとジャスミンは再度しっかりと腕を組み、なるべく多くの人に印象付けるべく会場内を泳ぎ回っている。
『あの子は祖父に――私の父にそっくりなのですよ』
拾った声はそんな事を言っていて、ケリーも加えた家族のフリは完璧である。
「礼などいらないのではないか? 必要以上に楽しそうだが」
またしてもジャスミンの腰に腕を回し、中年紳士は闊達な笑い声をあげていた。
よく通る豊かな声が闊達に笑った時、ポーラが僅かに眉を寄せたのでシャーミアンは首を傾げた。
「どうなさいました、ポーラさま?」
いえその、と言葉を濁したポーラは、サッと周囲に視線を走らせてから声を落とす。
「ジャスミンさまもジルさまも、少しやり過ぎではありませんでしょうか」
偽のクーア夫妻はぴったりと寄り添い、招待客を相手に上品な会話を繰り広げている。
互いの腰に腕を回しているのを目にしてシャーミアンも眉を寄せたが、小さく笑って首を振った。
「仕方ありませんわ。本当のご夫君はおいでになれないんですもの」
「ですが、いくらなんでも……ケリーさまもいらっしゃるのに……」
ポーラとて、ケリーが普通の子供と言い難い事は知っている。しかし、ケリーとジャスミンが仲の良い母子であることは確かなのだ。その母親が、父親以外の男性とああも睦まじくしているというのは……どうなのか、と思わずにはいられない。
シャーミアンは困ったように笑って、ケリーの姿を目で探した。
ポーラの意見にも同意は出来る。ただ、騎士の一人として、やるなら徹底的にやるべきだという事も分かっていた。
これは戦いなのだ。
国王と同じくらいポーラを可愛がっていたリィを思えば、あながち冗談とも言い切れない。
「……ケリーがなんだって?」
低い声は横合いから。
「まあ、イヴンさま!」
不機嫌な顔つきのイヴンは、話を聞いて暗く笑った。
「いいですか、ポーラさん。あの野郎共は遊んでます。ジルはもちろんですが、ジャスミンも。ケリーもです」
だいたい、と吐き捨てる。
「俺は人目につかないように隠れてたんだ。それをわざわざ呼びに来たんですぜ? それがまあ、面白そうにしやがってあの餓鬼……」
ねめつけた視線の先では、ケリーが笑顔でジルに話しかけていた。まるっきり屈託なく“父さん”と呼びかけるのを見れば、それほど気を揉む事もなかろうと思われる。
イヴンはますます顔を顰め、心配なんざ無駄です、と言い切った。
「いやむしろ馬鹿です。愚の骨頂ってもん――」
「あなた!」
シャーミアンが慌てて夫を止める。国王の妻に向かって馬鹿はなかろう、いくらなんでも。
「――なんだ?」
振り返ったイヴンの目は、なんだかとことん据わっていた。
宴も終わりに近づき、けだるいような空気が漂うなか、腕を組んで寄り添った偽クーア夫妻が国王の前へと姿を見せた。
今まで話していたどこかの地方貴族が、夫妻の――主にジャスミンの――大迫力の体躯に圧されたように慌てて引き下がる。
無理もない。
ドレスなど着て猫を被っているジャスミンは、遠目には普通の淑女に見えるのだ。間近にすると少し驚く。いつもながら見事な変身っぷりである。
「陛下。我々はそろそろ下がらせていただきます」
丁寧に告げるジルの変装もまた、見事という他なかった。
ウォルは本日何度目になるか分からない感嘆の吐息を押し隠し、宴の主催者として当然問うべき質問を口にする。
「どうでしょう。楽しんでいただけましたかな?」
「もちろんですとも。息子が来られず、残念です」
意外な返答にウォルは瞬いた。
「……ケリーどのの事ではなく?」
「ええ。あれの兄に当たります」
ジルは頷き、国王にだけ分かるように意味ありげに笑って見せた。
忘れてくれとは言われたが、こんな話をただ黙っているのもつまらないではないかと、そんな事を考えている。
「…………ほほう」
どうやら息子がいるらしい、と示唆された国王は、何を思ったにせよ顔には出さなかった。
今のケリーより年上となると、ジャスミンの年齢的に少々無理が出てくるのだが――それは是非ともお会いしてみたかった、などと素知らぬふりで笑ってみせる。
「母君と離れて寂しがっておられるのではないか?」
ウォルの気遣いは本物だったが、ダンが聞いたら頭を抱えるに違いなかった。
「母親を恋しがって泣くような年ではありませんわ」
にっこり笑ったジャスミンの返答も同様である。
四十男が母親を恋しがってたまるものか。
ましてや父親の兄にされたとあっては、ダンの嘆きも相当に深いだろう。次元を隔てていて幸いだったというべきかもしれない。
「夫は明日発ちますけれど、わたくしはもうしばらく御厄介になりますわね」
ジャスミンはにこやかな笑顔を絶やさずに、滞在を続ける意向を告げた。遠巻きにしている招待客達に聞こえるように、だ。
迎えが来るまで云々と言わないのには理由がある。
リィの帰還は劇的で自主的だった。少なくとも民衆にとってはそうだった。王妃は国王を助ける為に天より下り、平和の到来を見届けて自らの意思で帰ったのだ。国民の大半は、天の国とこちらとがそう簡単に行き来できないという事を知らないままなのである。
となれば、ジャスミンが自力では帰れないなどと知らせるべきではない。
それにこれを言ってしまうと、この偽夫の来訪がまずおかしな事になってしまう。
「厄介だなどと。あちらにいらっしゃる御子息には悪いが、我々としては嬉しい事だ」
ウォルもまたにこやかにそう返した。
迎えが来るという事を、広く知らしめる事の出来ない理由はもうひとつある。
リィがこちらに来る時に、王妃の姿でいてくれるかどうかが分からないのだ。
ウォルとイヴンが一度だけ見た男姿のリィは、とても王妃などと呼べるものではなかった。――当たり前だが。
故に国王は、迎えについて知っている者には厳重な緘口令を敷いている。
王妃が来るなどと知られてしまえば、今度こそ逃がさんと手ぐすね引いて待ち構える者が出るだろうし、それで来たのが男だったりしては、またややこしいことになるのは目に見えている。
「そう言っていただけると気が楽ですわ。グリンディエタが言っていた通り、こちらの生活はとても興味深いものですから。もうしばらく学ばせていただきますわね」
滞在理由を再婚から引き離し、学術的興味にすりかえてジャスミンはまたにっこりと笑った。