ジャスミンとその夫(偽)には、普段ジャスミンが寝起きしている部屋とは別に、久しぶりに会った夫婦が共に泊まれるようにと豪勢な広い客室が用意されていた。
毛足の長い絨毯と細かな模様が織り込まれたカーテン、凝った装飾の暖炉の上には職人が精魂込めた置物が飾られ、燭台などはもはや芸術品である。
寝台はジャスミンが三人は余裕で寝られる程の大きさで、柔らかく整えられた絹の寝具が鈍い光沢を放っていた。
しかしまさか、本当に一緒に寝てしまうわけにもいかない。
ジルに改めて礼を述べて翌朝の再会を約すと、ジャスミンは動きにくい夜会服をとっとと脱ぎ捨てて結い上げた髪も下ろし、窓からこっそり抜け出した。夜闇に紛れて自室に戻り、きっちりとカーテンを閉めて小さな明かりを灯す。
「終わったか?」
声に驚いて振り向けば、少年姿の本当の夫が肘掛け椅子に寛いで酒杯を弄んでいた。
「なんだ、こんなところに居たのか」
途中から姿が見えないと思っていたら、一人寂しく飲んでいたらしい。
「ああいう席は苦手なんだって。今日は面白かったが、肩が凝る」
ケリーは大袈裟に首を回して伸びをした。
「子供は早く寝るものだしな?」
「そういうこと」
にやりと笑ったケリーは向かいの長椅子を身振りで示し、新たな酒杯に酒を注いだ。
この部屋は、今夜は無人という事になっている。
ぽつぽつと小声で会話を交わしながら杯を重ねた。夜半を過ぎて風が強まってきたらしく、厚いカーテンの向こうから木々のざわめきが耳に届く。
「――ったく、天使は何をしてやがるんだ」
しばらく沈黙が続いた後の言葉だった。意味をつかむのに少し間が必要で、それからジャスミンは首を傾げる。
珍しい事に、焦燥の響きが混じっていた。
「なんだ、存在しない男にやきもちか?」
少しいちゃいちゃしすぎただろうか――そんなはずはないと分かっていながら、あえて聞く。
「ああ、そうかもな」
ケリーはあっさりと頷いた。
ジャスミンは眉間に皺を寄せ、それはそれは疑わしげにケリーを見やる。
「海賊……熱でもあるのか?」
「ひでぇなあ、本気だぜ?」
傷ついた、とでも言いたげにケリーは息を吐いたが、そんなものを信じるジャスミンではなかった。
ケリーは幼い容姿を気にしているわけではない。夫だと名乗れない事態を憂いているわけではない。それは違う、と知っている。
「……帰りたいか」
宇宙(そら)に、とは言わなかったが伝わった。ケリーは苦く笑って肩を竦める。
「まあな。飛べないのは正直辛いぜ」
迎えが来るのか来ないのか、それすら分からなかった頃より苛立ちは強い。
「自分で決めた事なら何てこたねぇんだが」
否応なしに飛ばされて来たのだ。もちろん恨んでいるわけではないが、どうしたって鬱屈は溜まる。
「そこが私との違いだな。おまえを探し出すのに時間が掛かるかもしれないとは思っていたから、しばらく離れる覚悟は出来ていた。置き去りにされるとは考えてもみなかったが」
「意外と抜けてるんだ、あの天使は」
「まったくだ」
「そこがまた可愛いんだが」
「確かに」
ジャスミンとケリーは視線を合わせて笑い合った。
いまごろ彼の麗人は、金の天使に睨まれながら“道”を繋ごうと躍起になっているに違いない。きっと半泣きだ。
「まあ、焦っても仕方がない。いま私達に出来るのは、天使が来るのを待つことだけだ」
ジャスミンは大きく息を吐いてのけぞり、長椅子の背に寄りかかった。
「ああ、分かってる」
ケリーは反対に身をかがめ、自身の膝に肘を突いて頬を支える。酒杯に手を伸ばすジャスミンを見上げ、それに――と続けた。
目を細めて、笑う。
「もしまた三十五年待つような羽目になっても、今度はあんたがいるからな」
何気ない口調だったが、ジャスミンは目を見開いて停止した。酒杯に手をかけた姿勢のまま一拍を置き、物凄い勢いで立ち上がる。
「酷いぞ、海賊!」
無人のはずの室内であるから声は抑え気味だが、明らかに激している。
怒らせるような事を言った覚えのないケリーは、目を丸くして大きな姿を見上げた。
「なんだぁ?」
「なんだではない! 押し倒したくなったじゃないか!」
これにはさすがのケリーも引き攣った。こらこらこら、と押し留めるように手を上げるも、ジャスミンは構わず一歩を踏み出す。
「おいおい、女王……目ぇ据わってるぞ?」
この姿では、押さえ込まれたら逃げられない。大きかった時だって逃げられなかったのだ、逃げられるわけがない。絶体絶命である。しかし――。
「…………やめた」
ぽつりと言ってジャスミンは座り直した。
「今のお前を押し倒したら、私が変質者みたいじゃないか」
「みたいじゃなくて変質者だ」
九死に一生を得たケリーは即座に切り返して杯を呷る。強い酒を一気に飲み干し、ようやく一息ついた。
かつてこれほどの危機に瀕した事があっただろうか。近接連星の間を飛び抜けた時ですら、絶体絶命などとは思いもしなかったケリーである。
海賊王を震え上がらせるとは、さすがは女王様だった。
「帰ったら覚悟しろよ、海賊」
尚も物騒な気配を漂わせるジャスミンに、ケリーは呆れて溜息をつく。
「決闘かよ……」
そう返してから、くつくつと笑った。
ここは甘い雰囲気を作るのが正しいのじゃないか、とは思ったが言わなかった。かつての恋人達とは見事なまでに違う女だが、そこがいい。
内緒話でもあるかのように、ちょいちょい、と指先で呼び寄せる。首を傾げて身を乗り出してきた女王様の、肩から滑り落ちた緋色の髪を引っ張って――かするような一瞬の口付け。
「――っ! 貴様!! 私を変質者にする気か!?」
「やだなあ、母さん。ただの挨拶だぜ?」
にっこり笑って見せると、ジャスミンは硬直してから長椅子に崩れ落ちた。
――撃沈。
勝った、とケリーが思ったかどうかは定かではない。
「……陛下。夜這いは女性相手にやってください」
窓から侵入してきた自国の最高権力者に、ジルは呆れ果てた声を投げた。
明日は自分で起きるので声を掛けなくて良いと部屋付きの侍女に言い渡し、すっかり扮装を解いて元の姿に戻ったところだ。
「いやまあその……いいではないか。――ジャスミンどのは?」
「ご自分の部屋へ戻られました。まさか一緒に寝るわけにもいかないのでね」
肩をすくめてジルは答え、国王の左手を注視する。
秘蔵の酒だ、と酒瓶を掲げてウォルは笑った。
「礼をしたいと言っても、どうせそなたは謝絶するのだろう? 杯くらいなら受けてもらえるかと思ってな」
デルフィニアの国王が秘蔵というからには、生半可な高級品では有り得ない。
有り難くいただく事にして、ジルはサイドボードからグラスを二つ取りだした。