季節は奔流のごとく過ぎていった。
リィは王妃として市民の熱狂的な歓声に応えたり、港の視察と称して遠方から訪れた商人に自分の姿を印象付けたりと、当時からは考えられないほど精力的に公務をこなしている。
もちろん大陸の隅々にまで噂を行き渡らせるための手段だが、別の効果もあった。
ケリーが第一王位継承者だという噂が、完全に否定されたのだ。
本人が居なくなってさすがに消えかけていた噂だが、なによりリィが十九歳の姿のままである。これであんな大きな子供は絶対いない。いたら怖い。
戦女神の奇跡にも限度があるというもので、聞きたくない事は聞かない耳を持つ者達も、夢を見がちな民衆も、現実を目の当たりにして目が覚めたというわけだ。
怒り狂うに決まっている噂話を、当人の耳に入る前に抹消出来たことで、政府中枢の面々は密かに胸を撫で下ろしている。
別の方面で怒りまくってはいるのだが。
公務の際にはさすがにいつもの格好ともいかず、美麗な男装姿をとらざるを得ないリィである。当然機嫌のいいはずもない。
シェラはセラの姿で女官に混じり、式典用ドレスの制作に精を出ているし、ルウはルウで城内各所の整備だとか補修だとかの現場に首を突っ込んでは、案外重宝されている。
合間では一部男性陣に立ち合いを強要され、女性陣とお茶の機会を設け――これらは良い息抜きになったが――とかく大騒ぎの日々が続いていた。
もちろん、忙しいからといってリィが目的を忘れるわけはない。
それどころか、一ヶ月が経ち、二ヶ月目も半ばを過ぎると、剣呑な目付きで日々正門を睨みつける王妃の姿が王宮の名物となりつつあった。
この頃には、リィにはあまりやることがない。
火を着けた噂話が燃え広がるのを待つ段階で、あとは仕上げをご覧じろ、といったところだ。
おかげで出来てしまった暇な時間に、リィは正門前に陣取って出入りする人々を睨みつけている。
ケリーは別に、式典に合わせて帰ってくるわけではないのだ。どこで噂を耳にしたかによるが、そろそろ戻ってきてもおかしくはない。
戻ってきたからといって、式典をすっぽかして帰るわけにもいかないが、顔を見たらとにかく殴る。絶対殴る。
そんな物騒な決意を秘めて、リィは正門を睨みつけているのだ。
王妃の再訪を王太子宣下の為だと思っている者には不可解な日課だが、もはや迂闊に声をかけられるような雰囲気ではない。
「その……リィ?」
怯えた門番の訴えを受けて、適任者たる猛獣使い――当然国王――は、果敢にも挑戦を試みた。
「ここで待っていても、ケリーどのが早く戻って来るわけではないと思うのだが」
「分かってる」
「大手門の門番に通達はしてあるのだぞ?」
「知ってる」
「角笛が吹かれるまではここに居ても意味はなかろう」
「そうだな」
「その……門番が怯えているのだが」
ここで初めてリィは門から目を離し、ぎろりと国王を睨んだ。
「おれの知った事じゃないな」
「……分かった。悪かった。鍛錬が足りないとでも言っておこう」
両手を挙げてウォルはあっさり降参した。
もう一人の適任者たる王妃の間男ルウは、もう始めから諦めている。
「仕方ないよ。あの子、自分のせいだと思ってるからね」
「自分のせいだから――で、怒るのか?」
ちらりとリィに目をやって、充分離れた事を確認してからウォルが問う。
「怒ってるっていうか……焦ってるんだよ。一刻も早く連れて帰りたいのに、全然見つからないから」
ルウ自身は“生きている”という一事でもって安心してしまっている所があった。リィの時もそうだったが、同じ空の下に生きて居るなら会えなくてもいいとさえ思う。
もちろん、ジャスミンとダイアナの元に帰してあげなくてはとは思うし、時折ふいにとても会いたくなったりもするのだけれど。無事ならそのうち会えるだろうし、たとえ会えなくても、あの人はあの人であの人らしく過ごしているのだろうから、と。
「けどあの子は、自分のせいだと思ってる分、そうもいかなくて――」
溜息をつくルウは何が“そう”なのか言わなかったが、ウォルは瞬いただけで追求はしなかった。言葉は致命的なまでに足りていなかったが、なんとなく分かるような気がしたからだ。
ケリーがデルフィニアを出ていってから、短いとは言えない年月が経っている。その間、たまには顔を見せればいいのにとか、連絡のひとつも寄越せとか、そんな話題は幾度も出た。それでも行方を探させなかったのは、彼はただ彼らしくあるのだろうと信じられたからだ。
「うむ、焦っているというのは分かるのだが……」
自分の責任ともなれば、それは冷静ではいられまい。ウォルは頷いて首を傾げる。
「怒っているようにも見えるぞ?」
「うんそれはまあ……ほら、ね?」
着たくもないドレスを着て、出たくもない式典に出るはめになったのだから致し方ない。
「でもそれだけじゃなくて。複雑なんだけど」
ルウは苦笑して、微動だにしないリィの後ろ姿に目をやった。
「こっちに来るまではね、怒ってる相手は自分だった。殴ってやりたいと思ってたのも自分だったはずなんだ。とにかく怒ってないとやりきれなかったというか――ほら、無事かどうかも分からなかったからね。無理矢理対象をねじ曲げたみたいな所があったんだけど」
ここでルウは言葉を切って、ちょっと溜息をつく。
「こっちに来て、無事だったって分かって――それは良かったんだけど、知っての通り全然見つからないじゃない? 無事だったのは嬉しいし、なのに見つからないし、顔見て安心したいのに出来ないし、待ってる人もいるし、とにかく早く帰してあげたいし、なのに全然戻ってこないし――手札も巧く働かないしね。もう何だか凄く穏やかじゃない事になってるんだよ」
それは確かに複雑だ、とウォルは納得して頷いた。
無事を喜びたいのに相手が居ない、噂には事欠かないのに見つからない、こんな状態がこれだけ続けば、いかな王妃とて煮詰まりもしよう。
再会が叶えば皆帰ってしまうのだから、ケリーが早く戻るようにと願うのはそれこそ酷く複雑ではあったが、それでも――。
「早く戻ると良いのだがな。ケリーどのも何をしておられるのだか」
「まったくだよね。とっても“らしい”とは思うけど、すっごい傍迷惑」
このところ腫れ物に触るような対応をせざるを得ない状態の王妃に目をやり、その相棒が大げさに顔をしかめてみせる。
「やはり“らしい”か! あちらでもケリーどのはケリーどのなのだな」
大きく笑ったウォルは空を見上げた。
胸の痛みは見ぬふりをして、彼の人が早く戻るようにと心から願った。
サンセベリア国王オルテスは、ソファに腰かけた妻の前に跪き、縋り付かんばかりの勢いで訴えた。
「リリア! 頼むから今度ばかりは諦めてくれ!」
「いやですわ。今度ばかりはとおっしゃいますけど、次があるとは言いきれませんでしょう?」
ぷい、とそっぽを向いた妻の言は、それは確かにそうなのだが、それにしたって。
「身重の身体で長旅など無茶だ!」
オルテスの悲痛な声が響く。
このたびのデルフィニアの式典に、オルテスと共にリリアも出席するか否かで揉めているのだ。
サンセベリアとデルフィニアは、“ちょっとお散歩”というような気楽な距離では確かにない。
「安定期ですもの。そんなに心配なさらなくてもわたくしは平気です」
三人目ともなれば余裕の王妃は、何度目だろうと慣れない夫に、僅かばかりの哀れみを込めて微笑んだ。
「わたくしだって、グリンディエタ王妃様にお会いしたい。分かってくださるでしょう?」
「……グリンダ王妃には、我が国に立ち寄って下さるようお願いする。聞き分けてくれ、リリア」
「来て下さると断言できます? 本当に?」
そう言われると黙らざるを得ないオルテスである。
相手がアレでさえなければ、何とか思う通りに言いくるめる自信もあるのだが。アレばかりは予測がつかない。
「リリア……」
一歩も引かない構えの妻の膝に額を落とし、オルテスはうめいた。
(グリンダ王妃とこの私と、いったいどちらが大切なんだ!?)
問い詰めたい気がすごくする。だが――。
(グリンダ王妃、などと答えられたら……)
ちょっと立ち直れないような気がするオルテスだった。