緩やかにうねりながら彼方まで続く単調な景色の中を、アスターはひたすら馬を駆っていた。
それは、いっそ不吉なほどに月の綺麗な晩だった。
標高の高い牧草地は一足先に秋の気配で、日の光の下ならば黄金の色に見えたかもしれない。
だが、皓々と照る月は辺り一面を白光で満たし、まるで雪原のような銀世界はひどくアスターの不安をあおった。
グランディーの渉外担当であるアスターは、長引いた交渉事のせいで独り本隊の後を追っている。
集団というものは足が遅い。
そもそもは急ぐ理由もなかったし、百姓や商人の馬車に便乗させてもらったり、普通に歩いたりしながら後を追っていたのだが、この朝耳にした噂話に胸騒ぎを覚えたアスターは、すぐさま馬を買ったのだった。
デルフィニア王妃の再来――それは、内陸奥深くに位置する小国には微塵も関わりのないことで、アスターにだって関わりはない。
ただ、ケリーは聞いただろうかと、それが気になった。
ケリーという若者は、やたらと人の目を惹く。恐ろしく目立つ。黙って立っていても目を引く美貌なのはもちろんだが、なんというか――とにかく目立つ。
彼は自分が目立つ事を重々承知しているが、騒がれるのは好まない。驕るどころか疎ましく思っている風でもあった。
名を売りたくて仕方のない若者にしてみれば贅沢にすぎる悩みだろうが、地位も、名誉も、栄光も、賞賛も、彼はひとかけらたりとも望んでいないのだ。
目立ちたくないなら目立つ事をするなと言いたいところだが、共に旅をして分かったことがひとつ。
並外れた事をやるから目立つのだが、彼自身はおそらく、並外れているという自覚がないのだ。
自分が注目を集めやすいとは承知しているし、その原因も分かってはいるようなのだが、理由については理解していない。
自分には出来る、それだけで。
たとえば足の早い者がいるように、歌の巧い者がいるように、人にはそれぞれ能力の違いというものがあって、それだけだと。
こちらにしてみればそれどころの話ではないと言いたいのだが、何故騒がれる事になるのか、どうやら本気で分かっていない。
ところが、ここがケリーの良く分からないところなのだが、“何が”騒がれる事になるのかは人一倍理解しているようなのだ。
彼はいま、グランディー本隊と共にいる。
共にいるとはいっても入団したわけではなく、入団する気もないらしいが、とにかく共に行動している。
何が気に入ったのか、今までになく長逗留になっているが、そこでの彼の行動ときたら――名の通った傭兵団に所属する事を夢見る少年達からすれば、噴飯ものだろう。
グランディーという人目につく巨大な看板を、名を“売らない”為に利用しているのだ。
注目を集めそうな事態には、ケリーは表向き関わらない。大体が団員ではないため、基本的に作戦行動には組み込まれないのだ。
その実、事態の詳細を知る者からすれば、中心は明らかにケリーだったりする。
詳細を知る者が少ないため、ケリー個人が世間の話題に上る事はほとんどないが、お陰でグランディーに対する評価はうなぎ昇りである。
海賊退治の功績を押し付けられた事のあるイヴンあたりが知れば、さもありなんと頷くだろう。
ケリーは人を使う事に慣れている。
世間の目というものを知っている。
頂点に立てばどれほどの事が出来るだろうと、アスターとて考えなかった訳ではない。
だが、グランディーという大看板の下に集う事を許された者達と、ケリーとは明らかに立ち位置が違った。
ケリーにとって、グランディーの看板は背負い掲げるものではない。その裏に潜み、身を隠す、いわばそのへんの木立と同じなのだ。あればあったで利用もするが、なければないで構わない。
ケリーがグランディーの名に魅力を感じるような人物なら、アスターもこんな不安は覚えなかった。
何がどう不安なのかと問われたところで答えられはしないし、デルフィニア王妃の再来がケリーとどう関わるか、そもそも関わりがあるのか否かだとて知りはしない。
ただ、彼はデルフィニアに居た事があるのだとは確信していた。通りすぎてきた国々とは違い、何かしら特別な関わり方をしたのだろうと、そう思わせる言動を旅の途中で目にしている。
杞憂であってくれと願いつつ、アスターは馬に鞭をあてた。
有り金はたいて強引に買い取った馬は良く働いてくれていたが、気ばかり急いてちっとも進んでいる気がしない。
変りばえのしない景色に舌打ちを漏らした時、それが見えた。
街道からはだいぶ離れた、おそらく小川の傍で瞬く明かり。野営の焚き火だ。
そちらに馬首を向けようとして、もうひとつ気付く。
街道の先に遠く、人影がひとつ。
あれがケリーだ、と直感した。
平坦な地形と明るすぎる月に、この時ばかりは感謝した。
馬を寄せると、長身の青年は少しばかり驚いたようだった。無理もない。アスターが本隊と合流するのは、もう数日は後のはずだった。
「デルフィニア、か?」
馬から降りずにアスターは相手を見下ろす。気まずそうにこめかみを掻いて、ああ、と頷くケリーに目を細めた。
「行かせないと言ったら?」
「あんたがそれを聞くのか?」
分かるだろう、とでも言うようにケリーが首を傾げる。
もちろんアスターには分かった。阻もうとすれば力ずくで黙らせてでも行くだろうし、ケリーにはそれが出来るのだ。
行くなと言ったところで聞くような男ではない。
「どうしても、行くのか」
頷きかけたケリーは少し考える風を見せ、わずかに笑った。
「いや――帰る、と言うべきかね」
ふとした拍子に空を見上げる、その時と同じ目をしていた。
傭兵だとて旅から旅の浮き草暮らしだ。いずれまたどこかで会えるだろうかと、そんな望みも、たぶん、叶わないのだろう。
共に行くとは言えなかった。
ケリーは恐らく、許しもしないが止めもしない。だが、団を捨ててケリーに付いて行く事は、アスターにはどうしても出来ないのだ。
アスターの居場所はここにあった。
ケリーの見ている先にはない。
疾うに知っている事だった。
「……そうか」
アスターは大きく息を吐いて馬を降りた。
「どうせこっそり出てきたんだろうが、団長には?」
「言ってきた。世話になったしな」
「俺には」
ケリーが気まずそうに目を逸らす。
「俺には?」
別れのひとつもなしに行ってしまうつもりだったのか。
「……あんたが戻るのはまだ先だと思ってた」
困ったようにこぼす。
つまりは、ほんの何日かも待てない心境だったというわけだ。
アスターはもう一度大きく息を吐いて、買ったばかりの馬の手綱を差し出した。
「持ってけ」
栗鹿毛の美人がわずかにあとずさる風を見せる。
「あー……俺が馬は苦手だって事は?」
「知っているが?」
むしろ馬がケリーを苦手だと言うべきかもしれないが、たしかに普段、ケリーの乗馬技術はお粗末極まりない。
が、戦闘中だとか逃走中だとか、なにがどうでも乗らなければならないような切羽詰まった場面では、案外器用に乗りこなす。気迫で従わせてしまうのだ。
義理難いところもあるくせに、結構長い付き合いのアスターと会わずに行こうとするあたり、急いでいるに決まっている。なんとかするに違いない。
「まあ、じゃあ……ありがたく」
落ち着かなげに足を踏みかえる馬の手綱を受け取って、荷を乗せる為にケリーがアスターに背を向ける。
アスターは一度だけ深く目を閉じた。奥歯を噛みしめ、拳を握り――そうして、笑む。笑んでみせる。
それくらいの芸当は出来るのだ、アスターにだって。
「俺はこれから本隊に戻って、ケリーが逃げたと大声で触れ回る事にしよう」
「はあぁ!?」
背中にかけられた唐突な台詞に、いきなり何を言い出すのだ、とありありと顔に書いてケリーが振り向く。
「おまえが誑し込んだ奴らの中には、後を追う者も出るだろうからな。せいぜい頑張って逃げてくれ」
滅多に見れないケリーの引き攣った表情を眺め、アスターは満足そうに腕を組んだ。
団員ではないケリーは本来どこに行こうと自由なのだが、ただ黙って見逃す手はない。
「おまえはおまえを利用しようという輩には手を貸すのだろう? これで忠誠心に問題のある者をあぶり出せるのだから協力しろ。――というのは建前で、おまえを困らせてやりたいだけだが」
ふふんと鼻で笑ってやると、唖然としていたケリーは肩を震わせて俯き、思い切り吹き出した。腹を抱えて爆笑する。
「ふ、はは……! やっぱあんた、イイ性格してるよ」
釣られた形でアスターも笑い出し、しんみりしても良さそうな別れの場面は笑い声に彩られる事となった。
月光の注ぐ草原は白々と明るく、愁嘆場を演じるにはあまりにも明るくて、アスターは笑い過ぎでにじんできた涙を拭う。
「言っておくが、本当に触れ回るからな」
笑みを残したまま念を押せば、どうにか息を整えて鞍上に納まったケリーは軽く肩をすくめた。
「それじゃあ、せいぜい頑張って逃げるとするかね」
街道の先――彼方を見やる。
その先にあるものを、アスターは知らない。
けれど結局、どこにいたってケリーはケリーだ。
邪魔にならぬよう二、三歩道の脇に避け、アスターは最後にひとつ、聞いてみた。
「なあ。それで結局、おまえ何者?」
ケリーはにやりと不敵に笑い、一言のもとに答える。
「ケリー」
予想通りの答えにアスターも肩をすくめ、馬上のケリーに軽く手を挙げて耳に慣れた言葉を告げた。旅から旅の商人や傭兵が、宿や道中でひと時を共に過ごし、道を分かつ際の決まり文句である。
「互いの行く先に幸のあらんことを」
「――心から祈る」
決まり通りに返して、ケリーは馬首を返した。
アスターとケリーの道は分かたれて、二度と交わることはなかった。
ケリーはグランディーの団員ではないが、幹部連中の覚えは良い。
若過ぎるのと綺麗過ぎるのとで見た目でまず侮られるケリーは、同じ苦労をした団長のお気に入りにもなっていた。
この日、広大な牧草地の片隅で焚き火を囲み、簡単な夕食を終えたグランディー一行は、食後のお茶を飲みながらよもやま話に興じていた。作戦行動中ではないのでのんびりしたものだ。
香辛料と酒を加えた熱いお茶はこの地方の名物だが、独特の芳香と癖があり、慣れない者はわりとむせる。
黙って話を聞いていたケリーがいきなり派手にむせかえった時、だから一同は声をあげて笑った。
「大丈夫かオイ」
笑いながら声をかけたのは今まで話していた男で、笑われたせいにしては鋭すぎる眼光を向けられて思わずひるむ。
「――なんだって?」
低く抑えた声が問うた。
「……は?」
「いま、何て言った?」
「デルフィニアの王妃が戻って来たって……」
「その後だ!」
血の気の引いた顔つきで叫ぶケリーを、新兵達が目を丸くして見つめている。取り乱しているケリーというものを初めて見たのだ。
問われた男はといえば、何を問われているのかを把握しかね、先程の会話を反芻している。
「デルフィニアの王妃が戻って来たってよ」
昼間耳にした噂話を口にしたのは、ふと思い出しただけで他意はない。
「デルフィニア――ってどこだ?」
首をひねったのはグランディー生え抜きの古参兵だ。
「大華三国の真ん中っすよ。ほら、大戦のあった」
「ああ、あれか! 王妃が女神だったってやつだな?」
「そうそう、その女神様が御戻りになられたんだと」
「なんでまた? 戦でも始まるのかね」
「いや、王子を連れてきたらしいぜ」
ここでケリーが吹いたのだ。
どうか聞き間違いであって欲しい、いやもうありえない事は重々承知しているが、それにしたって――というケリーの切なる願いは、残念ながら叶えられなかった。
「その後って……王子を連れて来たって所か? 天の国で生まれたにしても、王太子は王太子だからな。披露目の祝宴を張るとか張ったとかいう話だったが」
「ありえねえ!!」
なんだってこう、この大陸の人間は“あの”リィに子供を産ませたがるのか。自分の時もそうだったが、何がどうしてそうなるのか、もはやさっぱり分からない。迎えが着いたらしい喜びよりも、あまりの有り得なさっぷりにおののいてしまう。
いささか予想外の方向にねじ曲がった噂話だが、とにかくこうしてケリーの耳には入った。
頭を抱えるケリーをなんとなく遠巻きにして、グランディーの夜は更けていった。